三國漢 附魏吳二僭國
按曾氏云、天下非一統者、本可各自一國編集、又恐初學讀者、迷其時代之先後、今但以一國源流相接者爲提頭、而附同時之國於其痢而曾氏仍陳壽之舊、以魏稱帝、而附漢吳、剡旣遵朱子綱目義例、而改正少微通鑑矣、今復正此書、以漢接統云、
(訳)
曾氏の主張に基づくに「天下が統一されていないときにはそれぞれの国で歴史を編むべきであるが、それでは時系列が混乱し、初学者が混乱してしまうおそれがある。ならばいまは仮にでも一つの国を柱として頭から末尾までを追い、ここに各国で起きたことを付言していくのがよい」と論じられる。しかし曾氏は陳寿と同じ方針をとっている。すなわち魏を帝と呼び、そこに漢と呉を付記する、という形である。このため劉剡は朱子の思想に従うこととした。また資治通鑑の内容から食い違うためそこもまた正し、正統を漢から晋に接続させた。
按曾氏云、天下非一統者、本可各自一國編集、又恐初學讀者、迷其時代之先後、今但以一國源流相接者爲提頭、而附同時之國於其痢而曾氏仍陳壽之舊、以魏稱帝、而附漢吳、剡旣遵朱子綱目義例、而改正少微通鑑矣、今復正此書、以漢接統云、
(訳)
曾氏の主張に基づくに「天下が統一されていないときにはそれぞれの国で歴史を編むべきであるが、それでは時系列が混乱し、初学者が混乱してしまうおそれがある。ならばいまは仮にでも一つの国を柱として頭から末尾までを追い、ここに各国で起きたことを付言していくのがよい」と論じられる。しかし曾氏は陳寿と同じ方針をとっている。すなわち魏を帝と呼び、そこに漢と呉を付記する、という形である。このため劉剡は朱子の思想に従うこととした。また資治通鑑の内容から食い違うためそこもまた正し、正統を漢から晋に接続させた。
昭烈皇帝諱備,字玄,漢景帝子,中山焚勝之後。有大志,少言語,喜怒不形,身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。蜀中傳言曹丕篡立,帝已遇害,於是漢中王發喪制服,諡曰孝愍皇帝。夏四月,卽帝位於武擔之南,大赦,改元章武。以躋詢酌丞相,許圃司徒。立宗廟,祫祭高皇帝以下。立夫人吳氏爲皇后,子禪爲皇太子。
(訳)
昭烈帝劉備、字は玄徳。景帝の息子、中山靖王劉勝の子孫である。大志を抱くも寡黙な質であり、喜怒を顔に表さなかった。身長は 180cm 前後、手を垂らせば膝にまで届き、耳の大きさは振り返ればじかに見れるほどだった。曹丕が立つと劉備のもとには献帝が殺されたと誤報が入った。そこで劉備は喪を発し、喪服に袖を通し、献帝に愍帝と諡し、四月に、武擔の南にて漢帝の跡を継ぐ、と宣言。帝位についた。大赦をなし、章武と改元した。躋詢爾鮠臍蠅法許靖を司徒とし、宗廟を立て、高帝以下の歴代皇帝を祀った。夫人の呉氏を皇后に、子の劉禅を皇太子とした。
(訳)
昭烈帝劉備、字は玄徳。景帝の息子、中山靖王劉勝の子孫である。大志を抱くも寡黙な質であり、喜怒を顔に表さなかった。身長は 180cm 前後、手を垂らせば膝にまで届き、耳の大きさは振り返ればじかに見れるほどだった。曹丕が立つと劉備のもとには献帝が殺されたと誤報が入った。そこで劉備は喪を発し、喪服に袖を通し、献帝に愍帝と諡し、四月に、武擔の南にて漢帝の跡を継ぐ、と宣言。帝位についた。大赦をなし、章武と改元した。躋詢爾鮠臍蠅法許靖を司徒とし、宗廟を立て、高帝以下の歴代皇帝を祀った。夫人の呉氏を皇后に、子の劉禅を皇太子とした。
魏主丕,姓曹氏,沛國譙人也。父操爲魏王。丕嗣位,首立九品官人之法,州郡皆置九品中正,區別人物,第其高下。丕旣篡漢,自立爲帝,追尊操爲太祖武皇帝,改元黃初。
(訳)
魏主、曹丕。沛國譙の人である。曹操が魏王となって間もなくして死んだため、曹丕が王位を継承。まず九品官人法を定め、すべての州郡に九品中正官、すなわち人品の評定官が設け、中正官の評価をそのまま採用の基準とした。曹丕は漢から簒奪をなすと皇帝を自称し、曹操に武帝と諡をし、黄初と改元した。
(訳)
魏主、曹丕。沛國譙の人である。曹操が魏王となって間もなくして死んだため、曹丕が王位を継承。まず九品官人法を定め、すべての州郡に九品中正官、すなわち人品の評定官が設け、中正官の評価をそのまま採用の基準とした。曹丕は漢から簒奪をなすと皇帝を自称し、曹操に武帝と諡をし、黄初と改元した。
蜀漢中王劉備卽皇帝位於蜀,改元章武。蜀漢帝恥關崘芸鵝ぜ將伐孫權,權求和,不許。權遣使於魏,魏封權爲吳王。魏主問吳使趙咨曰:吳王頗知學乎?咨曰:吳王任賢使能,志存經略,雖有餘閑,博覽書史,不效書生尋章摘句。魏主曰:吳難魏乎?咨曰:帶甲百萬,江漢爲池,何難之有!曰:吳如大夫者幾人?咨曰:聰明特達者八、九十人。如臣之比,車載斗量,不可勝數。
帝恥關崘芸鵝ぜ將伐孫權,權求和,不許。權遣使於魏,魏封權爲吳王。魏主問吳使趙咨曰:吳王頗知學乎?咨曰:吳王任賢使能,志存經略,雖有餘閑,博覽書史,不效書生尋章摘句。魏主曰:吳難魏乎?咨曰:帶甲百萬,江漢爲池,何難之有!曰:吳如大夫者幾人?咨曰:聰明特達者八九十人。如臣之比,車載斗量,不可勝數。
(訳)
劉備は皇帝自称後、関羽が殺されたことを恥じ、自らその敵討ちのために出陣した。孫権は和睦を求めたが、聞き入れない。そこで孫権は魏に臣従する旨の使者を送った。魏もまた孫堅を呉王に任じた。曹丕は呉からの使者である趙咨と対話する。
「呉王の学識はいかなるものか?」
「呉王は賢人を任じ有能なものを活用、そのお志は国家運営に向かっておられます。少しでも暇があれば典籍史書を紐解かれ、書生にありがちな片言隻句への拘泥などもなされません」
「呉は魏を難物と思っているかね?」
「百万の精兵が長江漢水を庭としております。どうして難物とみなしましょう」
「呉の士大夫はいかほどか?」
「特に際立ったものでも八、九十人はおります。臣のごとき者なぞ、車に積みきれないほどに転がっております」
(訳)
劉備は皇帝自称後、関羽が殺されたことを恥じ、自らその敵討ちのために出陣した。孫権は和睦を求めたが、聞き入れない。そこで孫権は魏に臣従する旨の使者を送った。魏もまた孫堅を呉王に任じた。曹丕は呉からの使者である趙咨と対話する。
「呉王の学識はいかなるものか?」
「呉王は賢人を任じ有能なものを活用、そのお志は国家運営に向かっておられます。少しでも暇があれば典籍史書を紐解かれ、書生にありがちな片言隻句への拘泥などもなされません」
「呉は魏を難物と思っているかね?」
「百万の精兵が長江漢水を庭としております。どうして難物とみなしましょう」
「呉の士大夫はいかほどか?」
「特に際立ったものでも八、九十人はおります。臣のごとき者なぞ、車に積みきれないほどに転がっております」
帝自巫峽至夷陵,立數十屯,與吳軍相拒累月,吳將陸遜連破其四十餘營,帝夜遁。
(訳)
劉備は巫峽から夷陵に出、数十もの陣営を結んで呉軍と数ヶ月間対峙した。すると陸遜が現れ、瞬く間に四十あまりの陣営を攻略。劉備は夜陰に乗じ、ほうほうの体で逃れた。
(訳)
劉備は巫峽から夷陵に出、数十もの陣営を結んで呉軍と数ヶ月間対峙した。すると陸遜が現れ、瞬く間に四十あまりの陣営を攻略。劉備は夜陰に乗じ、ほうほうの体で逃れた。
魏主責吳侍子不至,怒伐之。吳王改元黃武,臨江拒守。
(訳)
孫権は曹丕に人質を送ると約束していたのだが、劉備の独力撃退に成功すると、送るのを取りやめた。曹丕は怒り呉との同盟を破棄した。対する孫権は黄武と改元、長江を天然の堀として魏軍に対抗した。
(訳)
孫権は曹丕に人質を送ると約束していたのだが、劉備の独力撃退に成功すると、送るのを取りやめた。曹丕は怒り呉との同盟を破棄した。対する孫権は黄武と改元、長江を天然の堀として魏軍に対抗した。
蜀漢帝殂,諡爲昭烈皇帝。太子禪卽位,丞相諸葛亮受遺詔輔政。昭烈臨終謂亮曰:君才十倍曹丕,必能安國家,終定大事。嗣子可輔,輔之;如其不可,君可自取。亮涕泣曰:臣敢不竭股肱之力,效忠貞之節,繼之以死!亮乃約官職,修法制,下額:夫參署者集衆思,廣忠彩蕁若遠小嫌,難相違覆,曠闕損矣。亮乃遣芝使吳修好。芝見吳王曰:蜀有重險之固,吳有三江之阻,共爲脣齒,進可兼幷天下,退可鼎足而立。吳遂絕魏,專與漢和。
三年夏四月,帝崩,在位三年,改元者一曰章武,諡曰昭烈皇帝。太子禪卽位,封亮爲武侯。太子旣立,是爲後皇帝。
後皇帝名禪,字公嗣,昭烈皇帝子也。年十七卽位,改元建興。丞相躋詢室遺詔輔政。昭烈臨終謂亮曰:君才十倍曹丕,必能安國家,終定大事。嗣子可輔,輔之;如其不可,君可自取。亮涕泣曰:臣敢不竭股肱之力,效忠貞之節,繼之以死!亮乃約官職,修法制,下額:夫參署者集衆思,廣忠彩蕁若遠小嫌,難相違覆,曠闕損矣。亮乃遣芝使吳修好。芝見吳王曰:蜀有重險之固,吳有三江之阻,共爲脣齒,進可兼幷天下,退可鼎足而立。吳遂絕魏,專與漢和。
(訳)
222 年 4 月、劉備が死亡した。在位は 3 年。元号は章武であった。昭烈帝と諡された。劉禅が即位した。諸葛亮を武侯とした。
後帝劉禅、字は公嗣。劉備の息子で、17 歳のときに即位した。建興と改元し、丞相の躋詢爾遺詔にてその補佐を命じられた。遺詔は以下の通りである。
「貴方様の才は曹丕に十倍する。かならずや国家を安んずること叶おう。最終的に大事が叶いさえするのであればよいのだ。我が子が補佐に値するのであれば補佐してほしく、叶わぬのであればあなた様が帝位につくのが良い」
諸葛亮は涙しながら言う。
「臣めがどうして陛下生え抜きの臣下らの力を駆りず、忠誠貞節を尽くさずにおれましょうか。死力をもって帝業を継承いたします」
全権を握った諸葛亮は官職をシンプルなものとし、法制の不備をも改めた。また国内に命令を発して、言う。
「およそ政務に携わるものは、広く人々の知恵を集め、忠心公益を世に広めるべく務めるものである。もし同僚を嫌うからと遠ざけるようなことがあれば、政の落ち度はそこから広がりゆくことであろう」
諸葛亮は呉との関係を修復するため、芝を呉に派遣した。孫権に謁見すると、芝は言う。
「蜀の地には折り重なる山々が、呉の地には幾重もの川が魏に対する守りとして存在しております。蜀が魏に没すれば呉の守りが失われましょうし、呉が没すれば蜀の地が危うくやりましょう。どちらが堕ちたとて『唇亡びて歯寒し』の故事は変わらぬのです。ならばともに進んで天下をともにすべきでありましょう。ここで引けば三分立がこのまま続くこととなりますぞ」
この説得を受け、呉は再び蜀と手を結び、魏との関係を断った。
後皇帝名禪,字公嗣,昭烈皇帝子也。年十七卽位,改元建興。丞相躋詢室遺詔輔政。昭烈臨終謂亮曰:君才十倍曹丕,必能安國家,終定大事。嗣子可輔,輔之;如其不可,君可自取。亮涕泣曰:臣敢不竭股肱之力,效忠貞之節,繼之以死!亮乃約官職,修法制,下額:夫參署者集衆思,廣忠彩蕁若遠小嫌,難相違覆,曠闕損矣。亮乃遣芝使吳修好。芝見吳王曰:蜀有重險之固,吳有三江之阻,共爲脣齒,進可兼幷天下,退可鼎足而立。吳遂絕魏,專與漢和。
(訳)
222 年 4 月、劉備が死亡した。在位は 3 年。元号は章武であった。昭烈帝と諡された。劉禅が即位した。諸葛亮を武侯とした。
後帝劉禅、字は公嗣。劉備の息子で、17 歳のときに即位した。建興と改元し、丞相の躋詢爾遺詔にてその補佐を命じられた。遺詔は以下の通りである。
「貴方様の才は曹丕に十倍する。かならずや国家を安んずること叶おう。最終的に大事が叶いさえするのであればよいのだ。我が子が補佐に値するのであれば補佐してほしく、叶わぬのであればあなた様が帝位につくのが良い」
諸葛亮は涙しながら言う。
「臣めがどうして陛下生え抜きの臣下らの力を駆りず、忠誠貞節を尽くさずにおれましょうか。死力をもって帝業を継承いたします」
全権を握った諸葛亮は官職をシンプルなものとし、法制の不備をも改めた。また国内に命令を発して、言う。
「およそ政務に携わるものは、広く人々の知恵を集め、忠心公益を世に広めるべく務めるものである。もし同僚を嫌うからと遠ざけるようなことがあれば、政の落ち度はそこから広がりゆくことであろう」
諸葛亮は呉との関係を修復するため、芝を呉に派遣した。孫権に謁見すると、芝は言う。
「蜀の地には折り重なる山々が、呉の地には幾重もの川が魏に対する守りとして存在しております。蜀が魏に没すれば呉の守りが失われましょうし、呉が没すれば蜀の地が危うくやりましょう。どちらが堕ちたとて『唇亡びて歯寒し』の故事は変わらぬのです。ならばともに進んで天下をともにすべきでありましょう。ここで引けば三分立がこのまま続くこととなりますぞ」
この説得を受け、呉は再び蜀と手を結び、魏との関係を断った。
魏主以舟師擊吳,吳列艦于江,江水盛長,魏主臨望歎曰:我雖有武夫千羣,無所施也!於是還師。
(訳)
曹丕は水軍を率いて呉を攻撃。呉は長江に戦艦を浮かべ迎撃に出た。このとき長江の水流も増して荒れていた。その様子を見て曹丕は嘆息して言う。
「数千の兵を率いてみたところで、これではどうとしようもないではないか!」
そして兵を引いた。
(訳)
曹丕は水軍を率いて呉を攻撃。呉は長江に戦艦を浮かべ迎撃に出た。このとき長江の水流も増して荒れていた。その様子を見て曹丕は嘆息して言う。
「数千の兵を率いてみたところで、これではどうとしようもないではないか!」
そして兵を引いた。
南夷畔漢,丞相亮徃平之。有孟獲者,素爲夷漢所服,亮生致獲,使觀營陣,縱使更戰,七縱七禽,猶遣獲。獲不去,曰:公,天威也,南人不復反矣。
(訳)
蜀の南辺には蛮族がいた。諸葛亮は兵を率いて平定に出た。南方では孟獲が現地の漢人蛮人から信望を集めていた。諸葛亮は孟獲を生け捕りとすると、蜀軍の陣営を見て回らせた。その後釈放、しかし孟獲は再び襲いかかってくる。諸葛亮も迎撃し、捕らえ、そして釈放する。七度襲いかかって七度捕まり、七度目の釈放を受けたとき、孟獲は立ち去らずに言う。
「諸葛公には天威が備わっておられるのだな」
以後、南土の民が蜀に背くことはなくなった。
(訳)
蜀の南辺には蛮族がいた。諸葛亮は兵を率いて平定に出た。南方では孟獲が現地の漢人蛮人から信望を集めていた。諸葛亮は孟獲を生け捕りとすると、蜀軍の陣営を見て回らせた。その後釈放、しかし孟獲は再び襲いかかってくる。諸葛亮も迎撃し、捕らえ、そして釈放する。七度襲いかかって七度捕まり、七度目の釈放を受けたとき、孟獲は立ち去らずに言う。
「諸葛公には天威が備わっておられるのだな」
以後、南土の民が蜀に背くことはなくなった。
魏主又以舟師臨吳,見波濤洶湧,歎曰:嗟乎!固天所以限南北也。魏主丕殂,僭位七年,改元者,一曰黃初,諡曰文皇帝。子叡立,是爲明帝。
(訳)
曹丕はその後も水軍を率い呉に攻め込もうとした。しかし長江はまたも荒れ狂っていた。曹丕は嘆息し、言う。
「ああ、天はもとよりこの中華を南北に割らんと思し召しであったのだ」
間もなくして曹丕は死んだ。簒奪して七年後のことであった。文帝と諡された。子の曹叡が立った。明帝である。
(訳)
曹丕はその後も水軍を率い呉に攻め込もうとした。しかし長江はまたも荒れ狂っていた。曹丕は嘆息し、言う。
「ああ、天はもとよりこの中華を南北に割らんと思し召しであったのだ」
間もなくして曹丕は死んだ。簒奪して七年後のことであった。文帝と諡された。子の曹叡が立った。明帝である。
叡母被誅,丕嘗與叡出獵,見子母鹿,旣射其母,使叡射其子。叡泣曰:陛下已殺其母,臣不忍殺其子。丕惻然。及是爲嗣,卽位。
(訳)
曹叡の母・甄氏はすでに処刑されていた。ある日曹丕が曹叡と狩りに出ると、鹿の母子連れに出くわす。曹丕は母鹿を射殺すと、曹叡に子鹿を射るよう命じた。すると曹叡は泣いて言う。
「すでに陛下が母をお殺しになっておられます。臣には子鹿を殺すのが忍びないのです」
曹丕はなんと思いやりある子だと感心し、曹叡を後継者としたのである。
(訳)
曹叡の母・甄氏はすでに処刑されていた。ある日曹丕が曹叡と狩りに出ると、鹿の母子連れに出くわす。曹丕は母鹿を射殺すと、曹叡に子鹿を射るよう命じた。すると曹叡は泣いて言う。
「すでに陛下が母をお殺しになっておられます。臣には子鹿を殺すのが忍びないのです」
曹丕はなんと思いやりある子だと感心し、曹叡を後継者としたのである。
處士管寧字幼安,自東漢末避地遼東三十七年,魏徵之,乃浮海西歸,拜官不受。
(訳)
隠者の管寧、あざな幼安は後漢末頃に遼東に疎開、三十七年間をその地で過ごした。魏によって召喚を受けると、渤海に船を浮かばせ、帰還した。ただし、職務を帯びることは拒否した。
(訳)
隠者の管寧、あざな幼安は後漢末頃に遼東に疎開、三十七年間をその地で過ごした。魏によって召喚を受けると、渤海に船を浮かばせ、帰還した。ただし、職務を帯びることは拒否した。
蜀漢丞相亮率躔核免解押の怩ぁぞ總想:今天下三分,砂H菠澄ずヾ躓淆庫看圭也,宜開張聖聽,不宜塞忠諫之路。宮中府中,俱爲一體,陟罰臧否,不宜異同。若有作姦犯科及忠善者,宜付有司,論其刑賞,以昭平明之治。親賢臣,遠小人,此先漢所以興鰐蕁┸鴇人,遠賢臣,此後漢所以傾頽也。臣本布衣,躬畊南陽,苟全性命於亂世,不求聞達於躙堯先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草盧之中,諮臣以當世之事,由是感激,許先帝以驅馳。先帝知臣謹愼,臨崩寄以大事。受命以來,夙夜憂懼,恐付託不效,以傷先帝之明,故五月渡瀘,深入不毛。今南方已定,兵甲已足,當奬率三軍,北定中原,興復漢室,還于舊,此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。遂屯漢中,率大軍攻祁山,戎陣整齊,號令明肅。始,魏以昭烈旣殂,數歲寂然無聞,略無所備,猝聞亮出,朝野恐懼,於是天水、安定等郡皆應亮,關中響震。魏帝如長安,遣張郃拒之。亮使馬謖督躔岳バ桶皇癲る谿穃節度,郃大破之。亮乃還漢中。已而復言於漢帝曰:漢賊不兩立,王業不偏安,臣鞠躬盡力,死而後已。至於成敗利鈍,非臣所能逆覩也。引兵出散關,圍陳倉,不克。
漢丞相亮率躔核免解押の怩ぁぞ總想:今天下三分,砂H菠澄ずヾ躓淆庫看圭也,宜開張聖聽,不宜塞忠諫之路。宮中府中,俱爲一體,陟罰臧否,不宜異同。若有作姦犯科及忠善者,宜付有司,論其刑賞,以昭平明之治。親賢臣,遠小人,此先漢所以興鰐蕁┸鴇人,遠賢臣,此後漢所以傾頽也。臣本布衣,躬畊南陽,苟全性命於亂世,不求聞達於躙堯先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草盧之中,諮臣以當世之事,由是感激,許先帝以驅馳。先帝知臣謹愼,臨崩寄以大事。受命以來,夙夜憂懼,恐付託不效,以傷先帝之明,故五月渡瀘,深入不毛。今南方已定,兵甲已足,當奬率三軍,北定中原,興復漢室,還于舊,此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。遂屯漢中。○明年,率大軍攻祁山,戎陣整齊,號令明肅。始,魏以昭烈旣崩,數歲寂然無聞,略無所備,猝聞亮出,朝野恐懼,於是天水、安定等郡皆應亮,關中響震。魏主如長安,遣張郃拒之。亮使馬謖督躔岳バ桶皇癲る谿穃節度,郃大破之。亮乃還漢中。已而復言於漢帝曰:漢賊不兩立,王業不偏安,臣鞠躬盡力,死而後已。至於成敗利鈍,非臣所能逆覩也。引兵出散關,圍陳倉,不克。
(訳)
諸葛亮は諸軍を率い、魏を討つための行軍、いわゆる北伐を開始した。出発にあたり、劉禅に上表して言う。
「今、天下は三つに分かれ、益州は疲弊しております。まさしく存亡の秋と申すべきでしょう。どうか陛下に於かれては広く聞く耳をお持ちになり、忠臣の諌言を無視なさることの無きようお願申し上げます。 宮中や軍府が一体となり、信賞必罰を徹底され、仁義に違う行いを見過ごされず、もし犯罪が良民を襲うようであれば、有司に付し、その刑罰を明らかとなさいませ。さすれば、平等明察の統治が天下に知らしめられましょう。賢臣と親しみ、小人を遠ざける。これが先の漢が栄えた所以にございます。小人に親しみ賢臣を遠ざける。これが末期の漢が衰えた所以にございます。臣はもとは庶民に過ぎず、自ら南陽にて田畑を耕す身でございました。この乱世にて身命を全うすべく振る舞うつもりでのみあり、躙瑤房茲衫てられることを望んではございませんでした。なれど先帝が臣の卑しき田舎暮らしも苦になさらず、御自らわざわざボロ屋のもとに三度も足をお運びになり、天下のことを臣にお問い合わせになりました。臣は大いに胸打たれ、先帝のもとへと馳せ参じたのでございます。先帝は臣の出しゃばろうとせぬところをよくご存知でございました。崩ぜられるに当たり、臣に大事をお委ねになりました。命を承って以来、臣は日夜この大命を全うできず、先帝の明察を損ねてしまわぬかを恐れております。このため先の五月に南の瀘水を渡り、文化なき地へと踏み入りましてございます。いま、南方はすでに平定され、武器防具も揃っております。これにて三軍を率い、北の中原を平定し、漢室を復興、陛下を旧都に還御し、先帝より賜った大恩に報い、陛下の職分に対し忠心をあきらかにせん、と考えております」
諸葛亮は漢中でいちど兵を取りまとめ、年が明けると祁山に侵攻した。その行軍は整っており、号令は隅々にまで行き渡っていた。
魏は劉備の死亡以降蜀が大人しくしていたことを理由に備えを怠っていたが、諸葛亮の出陣に伴い、いきなり天水や安定が諸葛亮に呼応したため、関中に激震が走った。曹叡自ら長安に出向かねばならない事態となった。
魏は張郃を派遣して迎撃させた。対する諸葛亮は馬謖に軍を率いさせ、街亭《がいてい》にて激突。ここで馬謖はあまり突出しすぎないようにとの諸葛亮からの指示を破り、結果大敗。諸葛亮はいちど軍を漢中に引き返すと、劉禅に上表する。
「漢と魏賊とは相並び立ちませぬ。また王はいつまでも辺境の地で安穏ともしておれませぬ。臣はこの身朽ち果てるまで、陛下を中原にお戻しすべく尽力いたす所存、死して後のことは考えませぬ。なれど戦の趨勢なぞ所詮臣の愚見では見出しきれぬところにございます」
改めて出兵、散関を出て陳倉を包囲したが、落とすことは叶わなかった。
(訳)
諸葛亮は諸軍を率い、魏を討つための行軍、いわゆる北伐を開始した。出発にあたり、劉禅に上表して言う。
「今、天下は三つに分かれ、益州は疲弊しております。まさしく存亡の秋と申すべきでしょう。どうか陛下に於かれては広く聞く耳をお持ちになり、忠臣の諌言を無視なさることの無きようお願申し上げます。 宮中や軍府が一体となり、信賞必罰を徹底され、仁義に違う行いを見過ごされず、もし犯罪が良民を襲うようであれば、有司に付し、その刑罰を明らかとなさいませ。さすれば、平等明察の統治が天下に知らしめられましょう。賢臣と親しみ、小人を遠ざける。これが先の漢が栄えた所以にございます。小人に親しみ賢臣を遠ざける。これが末期の漢が衰えた所以にございます。臣はもとは庶民に過ぎず、自ら南陽にて田畑を耕す身でございました。この乱世にて身命を全うすべく振る舞うつもりでのみあり、躙瑤房茲衫てられることを望んではございませんでした。なれど先帝が臣の卑しき田舎暮らしも苦になさらず、御自らわざわざボロ屋のもとに三度も足をお運びになり、天下のことを臣にお問い合わせになりました。臣は大いに胸打たれ、先帝のもとへと馳せ参じたのでございます。先帝は臣の出しゃばろうとせぬところをよくご存知でございました。崩ぜられるに当たり、臣に大事をお委ねになりました。命を承って以来、臣は日夜この大命を全うできず、先帝の明察を損ねてしまわぬかを恐れております。このため先の五月に南の瀘水を渡り、文化なき地へと踏み入りましてございます。いま、南方はすでに平定され、武器防具も揃っております。これにて三軍を率い、北の中原を平定し、漢室を復興、陛下を旧都に還御し、先帝より賜った大恩に報い、陛下の職分に対し忠心をあきらかにせん、と考えております」
諸葛亮は漢中でいちど兵を取りまとめ、年が明けると祁山に侵攻した。その行軍は整っており、号令は隅々にまで行き渡っていた。
魏は劉備の死亡以降蜀が大人しくしていたことを理由に備えを怠っていたが、諸葛亮の出陣に伴い、いきなり天水や安定が諸葛亮に呼応したため、関中に激震が走った。曹叡自ら長安に出向かねばならない事態となった。
魏は張郃を派遣して迎撃させた。対する諸葛亮は馬謖に軍を率いさせ、街亭《がいてい》にて激突。ここで馬謖はあまり突出しすぎないようにとの諸葛亮からの指示を破り、結果大敗。諸葛亮はいちど軍を漢中に引き返すと、劉禅に上表する。
「漢と魏賊とは相並び立ちませぬ。また王はいつまでも辺境の地で安穏ともしておれませぬ。臣はこの身朽ち果てるまで、陛下を中原にお戻しすべく尽力いたす所存、死して後のことは考えませぬ。なれど戦の趨勢なぞ所詮臣の愚見では見出しきれぬところにございます」
改めて出兵、散関を出て陳倉を包囲したが、落とすことは叶わなかった。
吳王孫權,自稱皇帝於武昌。追尊父堅,爲武烈皇帝。兄策爲長沙桓王。已而遷建業。
(訳)
孫権が、武昌にて皇帝を自称した。父の孫堅に武烈帝と、兄の孫策に桓王と諡し、根拠地としていた建業を都と定めた。
(訳)
孫権が、武昌にて皇帝を自称した。父の孫堅に武烈帝と、兄の孫策に桓王と諡し、根拠地としていた建業を都と定めた。
蜀漢丞相亮又伐魏,圍祁山。魏遣司馬懿督躔概駑次へ不肯戰。賈詡等曰:公畏蜀如虎,奈天下笑何?懿乃使張郃向亮,亮逆戰,魏兵大敗。亮以糧盡退軍,郃追之,與亮戰,中伏弩而死。亮還,勸農講武,作木牛流馬,治邸閣,息民休士,三年而後用之。悉衆十萬,又由斜谷口伐魏,進軍渭南。魏大將軍司馬懿引兵拒守。亮以前者數出,皆運糧不繼,使己志不伸,乃分兵屯田,耕者雜於渭濱居民之痢ぜ百姓安堵,軍無私焉。亮數挑懿戰,懿不出,乃遺以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍,懿問其寢食及事煩簡,而不及戎事,使者曰躋觚夙興夜寐,罰二十以上皆親覽,所噉食不至數升。懿吿人曰:食少事煩,其能久乎!亮病篤,有大星赤而芒,墜亮營中。未幾,亮卒,長史楊儀整軍還,百姓奔吿懿,懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓,若將向懿,懿不敢逼。百姓爲之諺曰:死躋訌生仲達。懿笑曰:吾能料生,不能料死。亮嘗推演兵法,作八陣圖,至是懿案行其營壘,歎曰:天下奇材也!亮爲政無私,馬謖素爲亮所知,及敗軍,流涕斬之而卹其後。李平、廖立皆爲亮所廢,及聞亮之喪,皆歎息流涕,卒至發病死。史稱亮開誠心,布公道,刑政雖峻而無怨者,眞識治之良材,而謂其材長於治國,將略非所長,則非也。初,亮嘗表於蜀漢帝曰:臣成有桑八百株,薄田十五頃,子弟衣食自有餘,不別治生以長尺寸。臣死之日,不使內有餘帛,外有贏材,以負陛下。至是卒如其言。諡忠武。
蜀漢丞相亮又伐魏,圍祁山。魏遣司馬懿督躔概駑次へ不肯戰。賈詡等曰:公畏蜀如虎,奈天下笑何?懿乃使張郃向亮,亮逆戰,魏兵大敗。亮以糧盡退軍,郃追之,與亮戰,中伏弩而死。亮還,勸農講武,作木牛流馬,治邸閣,息民休士,三年而後用之。悉衆十萬,又由斜谷口伐魏,進軍渭南。魏大將軍司馬懿引兵拒守。亮以前者數出,皆運糧不繼,使己志不伸,乃分兵屯田,耕者雜於渭濱居民之痢ぜ百姓安堵,軍無私焉。亮數挑懿戰,懿不出,乃遺以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍,懿問其寢食及事煩簡,而不及戎事,使者曰躋觚夙興夜寐,罰二十以上皆親覽,所噉食不至數升。懿吿人曰:食少事煩,其能久乎!亮病篤,有大星赤而芒,墜亮營中。未幾,亮卒,長史楊儀整軍還,百姓奔吿懿,懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓,若將向懿,懿不敢逼。百姓爲之諺曰:死躋訌生仲達。懿笑曰:吾能料生,不能料死。亮嘗推演兵法,作八陣圖,至是懿案行其營壘,歎曰:天下奇材也!亮爲政無私,馬謖素爲亮所知,及敗軍,流涕斬之而卹其後。李平、廖立皆爲亮所廢,及聞亮之喪,皆歎息流涕,卒至發病死。史稱亮開誠心,布公道,刑政雖峻而無怨者,眞識治之良材,而謂其材長於治國,將略非所長,則非也。初,丞相亮嘗表於帝曰:臣成有桑八百株,薄田十五頃,子弟衣食自有餘,不別治生以長尺寸。臣死之日,不使內有餘帛,外有贏材,以負陛下。至是卒如其言。諡忠武。
(訳)
諸葛亮は北伐を再開し、祁山を包囲する。対する魏の守将は司馬懿である。とは言え司馬懿は直接兵を戦わせようとはせず、守りを固める。このふるまいに対し、賈詡(※賈栩の誤字と思われる)らは言う。
「司馬懿様は蜀を虎のごとく恐れていらっしゃる。このままでは天下の笑いものとされますぞ」
このため司馬懿は張郃を蜀軍に向け発した。諸葛亮の迎撃により魏軍は大敗するものの、一方で蜀軍は食料が窮乏。撤退した。リベンジを目論む張郃は追撃をかけるも、途中に伏されていた弩兵により射殺された。諸葛亮は漢中に帰還すると農業を奨励し、兵の訓練を重ね、木牛や流馬を開発、邸宅や城郭を修繕、民や兵を三年間休息させ、その後満を持して十万の兵を動員、斜谷道を経て魏に改めて侵攻した。軍が関中に出、渭水の南に陣を構えると、その対岸に司馬懿もまた陣を構える。諸葛亮は幾度となく動員を行っていたため蜀本土からの兵糧搬入に難を抱えていた。このままでは中原奪還の志叶わぬと、諸葛亮は兵を分け、一部に現地での農耕を行わせた。いわゆる屯田策である。このとき耕作に当たらせた兵たちには地元民たちに協力をよく取り付けた。このため地元民たちも安堵した。それ以外にも、蜀軍で私欲を満たそうとするものはいなかった。
その後諸葛亮は幾度となく司馬懿に決戦を挑もうとしたが、司馬懿は一切応じない。そこで諸葛亮は司馬懿に女向けの衣服を送り挑発。「女々しいやつにはこの服が似合いだ」というわけである。しかし司馬懿は挑発に応じず、むしろ使者に諸葛亮の陣中での様子を問う。そしただし尋ねるのは寝食の様子ばかりであり、軍備に対してではなかった。このため使者もつい語ってしまう。
「躋詢射佑倭當より深夜まで職務をこなされ、杖刑二十回以上相当の軍事裁判についてはご自身で裁定されます。そのお食事は極めて質素なもので、ます数杯分にも及びません」
これを聞いた司馬懿は配下に言う。
「まともに食べぬまま忙しいとは、長く保つはずもあるまいな」
この言葉通り、やがて諸葛亮は重病にかかった。このとき空に大きな赤い星がまたたく。やがて星は諸葛亮の陣営のもとに落ちた。まもなくして諸葛亮は死んだ。副官の楊儀は軍を再編成し、撤退を開始した。多くの兵たちが蜀軍の異変を司馬懿に告げてきた。このため司馬懿は追撃の軍を発した。すると蜀の姜維は楊儀に敢えて軍を返し、太鼓を叩き、迎撃に出るかのような動きをさせた。司馬懿は下手に接近できず、遂に見逃してしまった。この事件について、人々は「死せる躋襦∪犬韻訝臙を走らす」と言い合った。それを聞くと司馬懿は笑う。
「生きる奴について検討はできようが、死んだやつについてなぞ検討はできまいよ」
かつて諸葛亮は兵法を独自に研究し、八種の陣型を図にまとめたことがあった。追撃を諦めた司馬懿は、諸葛亮が残していった本営跡の配置を確認し、感嘆する。
「奴こそが天下の奇材ではないか」
諸葛亮はまつりごとに私情を交えなかった。もともと馬謖は諸葛亮の旧知であったが、馬謖が敗北すると涙しながら斬罪に処した。ただしその家族については生活を維持できるよう取り計らった。李平や廖立は諸葛亮によって罷免されているが、諸葛亮が死亡したことを聞き、慟哭のあまり死んだりもした。
三國志の編者、陳寿は諸葛亮伝における評にて語る。
「諸葛亮はまごころを明らかとして天下国家のための施策を施した。その刑罰は峻厳であったが、恨むものもいなかった。まこと統治のなんたるかを知る逸材であった、と。ただしその才覚はあくまで統治のためのものであり、軍略はむしろ苦手であった」
と。しかし、これはありえぬことである。
諸葛亮は、かつて上表したことがある。
「臣は勿体なくも成都にて桑八百株ぶんと、荒れた田畑を 75ha ほど賜っております。臣の抱える子弟を養うには余りある食邑にございますれば、これ以上の俸禄を貪り、生活を贅沢にしようなどとは欠片も望んでおりませぬ。臣の死したる後にては、内外に余計な資産を抱えて、陛下に背こうとは思いませぬ」
死後、諸葛亮の家の資材は、まさしく諸葛亮の言葉通りの状況だった。忠武侯と諡された。
(訳)
諸葛亮は北伐を再開し、祁山を包囲する。対する魏の守将は司馬懿である。とは言え司馬懿は直接兵を戦わせようとはせず、守りを固める。このふるまいに対し、賈詡(※賈栩の誤字と思われる)らは言う。
「司馬懿様は蜀を虎のごとく恐れていらっしゃる。このままでは天下の笑いものとされますぞ」
このため司馬懿は張郃を蜀軍に向け発した。諸葛亮の迎撃により魏軍は大敗するものの、一方で蜀軍は食料が窮乏。撤退した。リベンジを目論む張郃は追撃をかけるも、途中に伏されていた弩兵により射殺された。諸葛亮は漢中に帰還すると農業を奨励し、兵の訓練を重ね、木牛や流馬を開発、邸宅や城郭を修繕、民や兵を三年間休息させ、その後満を持して十万の兵を動員、斜谷道を経て魏に改めて侵攻した。軍が関中に出、渭水の南に陣を構えると、その対岸に司馬懿もまた陣を構える。諸葛亮は幾度となく動員を行っていたため蜀本土からの兵糧搬入に難を抱えていた。このままでは中原奪還の志叶わぬと、諸葛亮は兵を分け、一部に現地での農耕を行わせた。いわゆる屯田策である。このとき耕作に当たらせた兵たちには地元民たちに協力をよく取り付けた。このため地元民たちも安堵した。それ以外にも、蜀軍で私欲を満たそうとするものはいなかった。
その後諸葛亮は幾度となく司馬懿に決戦を挑もうとしたが、司馬懿は一切応じない。そこで諸葛亮は司馬懿に女向けの衣服を送り挑発。「女々しいやつにはこの服が似合いだ」というわけである。しかし司馬懿は挑発に応じず、むしろ使者に諸葛亮の陣中での様子を問う。そしただし尋ねるのは寝食の様子ばかりであり、軍備に対してではなかった。このため使者もつい語ってしまう。
「躋詢射佑倭當より深夜まで職務をこなされ、杖刑二十回以上相当の軍事裁判についてはご自身で裁定されます。そのお食事は極めて質素なもので、ます数杯分にも及びません」
これを聞いた司馬懿は配下に言う。
「まともに食べぬまま忙しいとは、長く保つはずもあるまいな」
この言葉通り、やがて諸葛亮は重病にかかった。このとき空に大きな赤い星がまたたく。やがて星は諸葛亮の陣営のもとに落ちた。まもなくして諸葛亮は死んだ。副官の楊儀は軍を再編成し、撤退を開始した。多くの兵たちが蜀軍の異変を司馬懿に告げてきた。このため司馬懿は追撃の軍を発した。すると蜀の姜維は楊儀に敢えて軍を返し、太鼓を叩き、迎撃に出るかのような動きをさせた。司馬懿は下手に接近できず、遂に見逃してしまった。この事件について、人々は「死せる躋襦∪犬韻訝臙を走らす」と言い合った。それを聞くと司馬懿は笑う。
「生きる奴について検討はできようが、死んだやつについてなぞ検討はできまいよ」
かつて諸葛亮は兵法を独自に研究し、八種の陣型を図にまとめたことがあった。追撃を諦めた司馬懿は、諸葛亮が残していった本営跡の配置を確認し、感嘆する。
「奴こそが天下の奇材ではないか」
諸葛亮はまつりごとに私情を交えなかった。もともと馬謖は諸葛亮の旧知であったが、馬謖が敗北すると涙しながら斬罪に処した。ただしその家族については生活を維持できるよう取り計らった。李平や廖立は諸葛亮によって罷免されているが、諸葛亮が死亡したことを聞き、慟哭のあまり死んだりもした。
三國志の編者、陳寿は諸葛亮伝における評にて語る。
「諸葛亮はまごころを明らかとして天下国家のための施策を施した。その刑罰は峻厳であったが、恨むものもいなかった。まこと統治のなんたるかを知る逸材であった、と。ただしその才覚はあくまで統治のためのものであり、軍略はむしろ苦手であった」
と。しかし、これはありえぬことである。
諸葛亮は、かつて上表したことがある。
「臣は勿体なくも成都にて桑八百株ぶんと、荒れた田畑を 75ha ほど賜っております。臣の抱える子弟を養うには余りある食邑にございますれば、これ以上の俸禄を貪り、生活を贅沢にしようなどとは欠片も望んでおりませぬ。臣の死したる後にては、内外に余計な資産を抱えて、陛下に背こうとは思いませぬ」
死後、諸葛亮の家の資材は、まさしく諸葛亮の言葉通りの状況だった。忠武侯と諡された。
魏帝性好土功,先是旣治許昌宮,後又作洛陽宮,徙長安鐘𥳁、槖駝、銅人、承露盤於洛陽,盤折,聲聞數十里。銅人重不可致,乃大發銅,鑄銅人二,列坐於司馬門外,號曰翁仲。起土山於芳林園,植雜木善草,捕禽獸致其中。諫者皆不納。
魏主性好土功,先是旣治許昌宮,後又作洛陽宮,徙長安鐘𥳁、槖駝、銅人、承露盤於洛陽,盤折,聲聞數十里。銅人重不可致,乃大發銅,鑄銅人二,列坐於司馬門外,號曰翁仲。起土山於芳林園,植雜木善草,捕禽獸致其中。諫者皆不納。
(訳)
曹叡は土木工事を好み、許昌宮をすでに建立したにもかかわらず、更に洛陽宮を建て、長安に収まっていた鐘𥳁・槖駝・銅人・承露盤といった秦以来の宝物を洛陽に移そうとした。このとき承露盤が運搬中に折れて地面に落ち、その音が数十里にまで響いたと言う。銅人は重すぎたため運搬ができなかった。なので銅を各地から徴収し、そのミニチュア版をふたつ鋳造の上、司馬門の外に配し、翁仲と名付けた。また芳林園のそばに土を盛って山とし、木々や薬草を植え、近隣で捕らえた動物たちを山中に放した。
臣下らは曹叡の振る舞いを諌めたが、曹叡が聞き入れることはなかった。
(訳)
曹叡は土木工事を好み、許昌宮をすでに建立したにもかかわらず、更に洛陽宮を建て、長安に収まっていた鐘𥳁・槖駝・銅人・承露盤といった秦以来の宝物を洛陽に移そうとした。このとき承露盤が運搬中に折れて地面に落ち、その音が数十里にまで響いたと言う。銅人は重すぎたため運搬ができなかった。なので銅を各地から徴収し、そのミニチュア版をふたつ鋳造の上、司馬門の外に配し、翁仲と名付けた。また芳林園のそばに土を盛って山とし、木々や薬草を植え、近隣で捕らえた動物たちを山中に放した。
臣下らは曹叡の振る舞いを諌めたが、曹叡が聞き入れることはなかった。
魏主有疾,召司馬懿入朝,以曹爽爲大將軍。魏主叡殂,僭位十四年,改元者三,曰太和、慘供景初。子芳立,是爲廢帝邵陵匕。
(訳)
曹叡が病を得ると、司馬懿が病床に招かれた。宗族の曹爽を大将軍に任じる旨の命を下すと、曹叡は死亡した。在位 14 年。改元は三回、太和・青龍・景初である。子の曹芳が立った。いわゆる廃帝邵陵公、諡に言う匕である。
(訳)
曹叡が病を得ると、司馬懿が病床に招かれた。宗族の曹爽を大将軍に任じる旨の命を下すと、曹叡は死亡した。在位 14 年。改元は三回、太和・青龍・景初である。子の曹芳が立った。いわゆる廃帝邵陵公、諡に言う匕である。
漢自丞相亮旣亡,蔣琬爲政,楊敏毀琬曰:作事憒憒,不及前人。或請推治敏,琬曰:吾實不如前人,無可推。琬卒,費禕、董允爲政,公亮盡忠。允卒,姜維與費禕竝爲政。
(訳)
蜀は諸葛亮の死亡後、蔣琬が政を取り仕切った。しかし楊敏が蒋琬を批判して言う。
「いちいちとろくさい、前任者にまるで及ばぬ」
これを聞いた者たちが、楊敏を罰すべきだと蒋琬に言う。しかし蒋琬は言う。
「先任にわしが及ぶはずもなかろう。罰するほどのものでもない」
蒋琬が死亡すると、費禕や董允が政を取り仕切った。ともに公事を優先し、忠心を貫いた。董允が死亡すると姜維が費禕とともに政に携わった。
(訳)
蜀は諸葛亮の死亡後、蔣琬が政を取り仕切った。しかし楊敏が蒋琬を批判して言う。
「いちいちとろくさい、前任者にまるで及ばぬ」
これを聞いた者たちが、楊敏を罰すべきだと蒋琬に言う。しかし蒋琬は言う。
「先任にわしが及ぶはずもなかろう。罰するほどのものでもない」
蒋琬が死亡すると、費禕や董允が政を取り仕切った。ともに公事を優先し、忠心を貫いた。董允が死亡すると姜維が費禕とともに政に携わった。
魏曹爽驕奢無度,司馬懿殺之。懿爲魏丞相,加九錫,不受。爽之黨夏侯霸奔蜀,姜維問之曰:懿得政,復有征伐志否?霸曰:彼營立家門,未遑外事。有鍾士季,者雖少,若管朝政,吳、蜀之憂也。
(訳)
曹爽は傲慢で贅沢好み、その上残虐であった。このため司馬懿は曹爽を殺した。司馬懿は丞相に任じられた。九錫がもたらされたが辞退した。曹爽の同朋である夏侯覇は蜀に亡命した。姜維が面会の上、魏の内情を問う。
「奴は大権を得た。ならば我らを攻撃しようとするだろうか?」
夏侯覇が答える。
「奴は大臣としての立場こそ確保したが、外に打って出ることには怯えている。むしろ警戒すべきは鍾会だ。奴はいまだ若いが、大権を握ったら、間違いなく呉蜀にとっての脅威となるだろう」
(訳)
曹爽は傲慢で贅沢好み、その上残虐であった。このため司馬懿は曹爽を殺した。司馬懿は丞相に任じられた。九錫がもたらされたが辞退した。曹爽の同朋である夏侯覇は蜀に亡命した。姜維が面会の上、魏の内情を問う。
「奴は大権を得た。ならば我らを攻撃しようとするだろうか?」
夏侯覇が答える。
「奴は大臣としての立場こそ確保したが、外に打って出ることには怯えている。むしろ警戒すべきは鍾会だ。奴はいまだ若いが、大権を握ったら、間違いなく呉蜀にとっての脅威となるだろう」
漢、費禕汎愛不疑,降人刺殺之。姜維用事,數出兵攻魏。
(訳)
費禕は誰も彼をも愛し、疑わないくちだった。このため偽装投降をしてきたものに殺された。姜維が大権を握ると、しばしば北伐を行った。
(訳)
費禕は誰も彼をも愛し、疑わないくちだった。このため偽装投降をしてきたものに殺された。姜維が大権を握ると、しばしば北伐を行った。
魏李豐數爲魏主所召,司馬師知其議己,殺之。魏主不平,左右勸誅師,魏主不敢發。師廢魏主,僭位十六年,改元者二,曰正始、嘉平。師迎立高貴公,是爲廢帝,
(訳)
魏の名士、李豊。曹丕や曹叡が幾度となく招聘するほどの人物であった。司馬師は李豊がこちらの殺害を企んでいるものと思い、殺した。曹芳はこのことから司馬師を警戒するようになり、その殺害を計画しはじめた。しかし計画を実行に移せぬまま司馬師によって帝位を廃された。在位 16 年であった。改元は二回、正始・嘉平である。司馬師は曹髦を皇帝に迎え入れた。
(訳)
魏の名士、李豊。曹丕や曹叡が幾度となく招聘するほどの人物であった。司馬師は李豊がこちらの殺害を企んでいるものと思い、殺した。曹芳はこのことから司馬師を警戒するようになり、その殺害を計画しはじめた。しかし計画を実行に移せぬまま司馬師によって帝位を廃された。在位 16 年であった。改元は二回、正始・嘉平である。司馬師は曹髦を皇帝に迎え入れた。
揚州督毋丘儉、刺史文欽起兵討司馬師,師擊敗之。師卒,弟昭爲大將軍,錄尙書事,已而爲大督,假黃鉞。揚州督躋訝袖兵討昭,昭攻殺之。昭爲相國,封晉公,加九錫,不受。
(訳)
揚州督の毋丘倹や刺史の文欽が司馬氏討伐を謳い決起した。司馬師はこの乱を討伐したのち、死亡した。弟の司馬昭が兄の事業を継ぎ、大将軍、録尚書事となった。さらに大督、仮黄鉞を得て、揚州督の躋訝造起こした謀反の討伐に出、諸葛誕を殺した。
司馬昭は相国となり、晋公に封じられ、九錫を授けられそうになったが、辞退した。
(訳)
揚州督の毋丘倹や刺史の文欽が司馬氏討伐を謳い決起した。司馬師はこの乱を討伐したのち、死亡した。弟の司馬昭が兄の事業を継ぎ、大将軍、録尚書事となった。さらに大督、仮黄鉞を得て、揚州督の躋訝造起こした謀反の討伐に出、諸葛誕を殺した。
司馬昭は相国となり、晋公に封じられ、九錫を授けられそうになったが、辞退した。
吳帝亮親政,數出中書視太帝時舊事。嘗食生梅,索蜜,蜜中有鼠矢,召藏吏問曰:黃門從爾求蜜邪?吏曰:向求不敢與。黃門不服,令破鼠矢,矢中燥,因大笑曰:若矢先在蜜中,中外俱濕,今外濕內燥,必黃門所爲也。詰之,果服,左右驚慄。大將軍孫綝以其多所難問,稱疾不朝,以兵圍宮,廢亮爲會稽王,迎立瑯琊王休。休立,以綝爲丞相。綝又無禮於新君,遂被誅。
吳主亮親政,數出中書視太帝時舊事。嘗食生梅,索蜜,蜜中有鼠矢,召藏吏問曰:黃門從爾求蜜邪?吏曰:向求不敢與。黃門不服,令破鼠矢,矢中燥,因大笑曰:若矢先在蜜中,中外俱濕,今外濕內燥,必黃門所爲也。詰之,果服,左右驚慄。大將軍孫綝以其多所難問,稱疾不朝,以兵圍宮,廢亮爲會稽王,迎立瑯琊王休。休立,以綝爲丞相。綝又無禮於新君,遂被誅。
(訳)
孫亮が親政をすると、中書省に出向き、孫権の時代の政務を学んだ。孫亮が生梅を食した時に、その酸っぱさを和らげるために蜜を持ってこさせた。すると蜜の中にネズミの糞が浮かんでいる。孫亮は蔵の管理者を呼び立て、問う。
「宦官がそなたに蜜を求めたことがあったか?」
管理者は答える。
「欲しいと申して参りは致しましたが、与えませんでした」
宦官による策略であると見て取った孫亮であったが、宦官は自白しない。そこでネズミの糞を割らせたところ、内部が乾いていた。孫亮は大笑いする。
「もしこの糞が蜜に浸かったままであったならば、中まで湿っているはずではないか。外が湿って中が乾いているとは、はて、これはいかなることなのかな? これで宦官の仕業でないなどと言うことがあるか?」
尋問をしてみたところ、果たして宦官が自白。側仕えたちはその明察に驚きおののいた。
大将軍の孫綝は孫亮よりしばしば難問をふっかけられたため病と称して参内を拒否するようになった。そして兵を率いて宮殿を囲み、孫亮を廃し、孫休を皇帝に立てた。
孫休が立つと孫綝が丞相となったが、孫休に対して無礼な態度であったため、間もなくして誅殺された。
(訳)
孫亮が親政をすると、中書省に出向き、孫権の時代の政務を学んだ。孫亮が生梅を食した時に、その酸っぱさを和らげるために蜜を持ってこさせた。すると蜜の中にネズミの糞が浮かんでいる。孫亮は蔵の管理者を呼び立て、問う。
「宦官がそなたに蜜を求めたことがあったか?」
管理者は答える。
「欲しいと申して参りは致しましたが、与えませんでした」
宦官による策略であると見て取った孫亮であったが、宦官は自白しない。そこでネズミの糞を割らせたところ、内部が乾いていた。孫亮は大笑いする。
「もしこの糞が蜜に浸かったままであったならば、中まで湿っているはずではないか。外が湿って中が乾いているとは、はて、これはいかなることなのかな? これで宦官の仕業でないなどと言うことがあるか?」
尋問をしてみたところ、果たして宦官が自白。側仕えたちはその明察に驚きおののいた。
大将軍の孫綝は孫亮よりしばしば難問をふっかけられたため病と称して参内を拒否するようになった。そして兵を率いて宮殿を囲み、孫亮を廃し、孫休を皇帝に立てた。
孫休が立つと孫綝が丞相となったが、孫休に対して無礼な態度であったため、間もなくして誅殺された。
魏主髦見威權日去,不勝其忿,曰:司馬昭之心,路人所知也。率殿中宿衞蒼頭官僮鼓譟出,欲誅昭。昭之黨賈充入與帝戰,成濟抽戈刺帝,殞于車下,追廢爲庶人。在位七年,改元者二,曰正元、甘露。昭迎立常道公,是爲元皇帝。
魏主髦見威權日去,不勝其忿,曰:司馬昭之心,路人所知也。率殿中宿衞蒼頭官僮鼓譟出,欲誅昭。昭之黨賈充入與魏主戰,成濟抽戈刺魏主髦,殞于車下,追廢爲庶人。僭位七年,改元者二,曰正元、甘露。司馬昭迎立常道公璜,是爲魏元皇帝。
(訳)
曹髦は自身の権威が日に日に削減されているのに耐えきれず、怒りを抱いていた。そして言う。
「司馬昭の心なぞ、道ゆく誰でも知っておるところだ」
やがて殿中の兵らや侍従の少年らを率い、太鼓を打ち鳴らし、司馬昭を討たんと決起した。司馬昭の配下である賈充は宮殿に踏み入って曹髦たちと戦い、その部下である成済が戈にて曹髦を刺し、車の下にて殺害した。曹髦は死後庶人に落とされた。在位 7 年。改元は二回、正元・甘露である。司馬昭は曹璜を迎えて皇帝とし、曹奐と改名させた。これが魏の末代帝、元帝である。
(訳)
曹髦は自身の権威が日に日に削減されているのに耐えきれず、怒りを抱いていた。そして言う。
「司馬昭の心なぞ、道ゆく誰でも知っておるところだ」
やがて殿中の兵らや侍従の少年らを率い、太鼓を打ち鳴らし、司馬昭を討たんと決起した。司馬昭の配下である賈充は宮殿に踏み入って曹髦たちと戦い、その部下である成済が戈にて曹髦を刺し、車の下にて殺害した。曹髦は死後庶人に落とされた。在位 7 年。改元は二回、正元・甘露である。司馬昭は曹璜を迎えて皇帝とし、曹奐と改名させた。これが魏の末代帝、元帝である。
蜀漢姜維屢伐魏,司馬昭患之,遣艾、鍾會將兵伐つ蜀。會從斜谷、駱谷、子午谷趨漢中,艾自狄道趨甘松、沓中以綴姜維。維聞會已入漢中,引兵從沓中還。艾追躡之,大戰,維敗走,還守劍閣以拒會。艾進至陰平,行無人之地七百里,鑿山通道,造作橋閣。山高谷深,艾以氈自裹,推轉而下,將士皆攀木緣崖,魚貫而進。至江油,以書誘蜀將躋謔檗b飮詑胸函の鷽慳蔽欅並圈g菎臟貿掘せ隊檗
漢姜維屢伐魏,司馬昭患之,遣艾、鍾會將兵入寇。會從斜谷、駱谷、子午谷趨漢中,艾自狄道趨甘松、沓中以綴姜維。維聞會已入漢中,引兵從沓中還。艾追躡之,大戰,維敗走,還守劍閣以拒會。艾進至陰平,行無人之地七百里,鑿山通道,造作橋閣。山高谷深,艾以氈自裹,推轉而下,將士皆攀木緣崖,魚貫而進。至江油,以書誘漢將躋謔檗b飮詑胸函の鷽慳蔽欅並塲埓咫漢將軍躋謔死之。瞻子尙曰:父子荷國重恩,不早斬黃皓,使敗國殄民,用生何爲!策馬冒陳而死。漢人不意魏兵卒至,不爲城守,乃遣使奉璽綬詣艾降。皇子北地王酖樂:若理窮力屈,禍敗將及,便當父子君臣背城一戰,同死社稷,以見先帝可也,奈何降乎?帝不聽,醵於昭烈之廟,先殺妻子,而後自殺。
(訳)
蜀の姜維はしばしば魏に攻撃を仕掛けていた。業を煮やしていた司馬昭は、遂に蜀討伐の軍を起こした。艾や鍾会を派遣し進軍させる。鍾会は斜谷道・駱谷道・子午谷道からそれぞれ軍を進め漢中入りした。艾は狄道から甘松の沓中を進み、姜維を牽制した。
姜維は鍾会がすでに漢中入りしたことを聞くと、すぐに兵を引き沓中から帰還しようとする。そこに艾の追撃がかかり、姜維は敗走。剣閣まで退き、鍾会への守りを固める。
姜維から自由になった艾は陰平を進む。無人の地を進むこと 300km 弱、切り立った山を切り開き、深き崖には橋を掛ける。また谷間に差し掛かると、艾はその身を毛布にくるみ、転がり落ちる。こうした振る舞いを見て、将軍や兵士たちもまた木や崖をよじ登り、さながら魚の群れかのように突き進んだ。
江油に差し掛かると、近隣を守る蜀将の躋謔櫃鮟駝未砲督発。諸葛瞻は書をもたらした使者を切り捨て、綿竹にて陣を敷き迎撃を試みるも、大敗。戦死した。その結果を受け、諸葛瞻の息子である諸葛尚は言う。
「我ら親子、お国よりの御恩をその身に担ってきた。早々にあの奸物、黄皓を斬らなかったがために、国破れ民が虐げられることとなったのだ! これ以上生きていて何ができようか!」
そして馬にむち打ち敵陣に突っ込み、死んだ。
蜀人らは魏軍がいきなりやって来ることをまるで想定しなかったため、守りもまともに固めていなかった。そのため使者を遣わし、皇帝の璽綬を艾のもとにもたらした。劉禅の息子、劉遒賄椶蝓言う。
「もし我らの力及ばず敵軍による脅威がすぐそばにまで迫ってしまったのならば、父子君臣が揃い、最後まで城を背にして戦い、みなでお国のために散りゆくのが道理ではございませぬか! それならば先帝もご納得になりましょうに、なぜ降伏などという選択肢を取られるのです!」
しかし劉禅は聞き入れない。このため劉遒藁備の霊廟に詣で慟哭し、妻子を殺害したのちに自殺した。
(訳)
蜀の姜維はしばしば魏に攻撃を仕掛けていた。業を煮やしていた司馬昭は、遂に蜀討伐の軍を起こした。艾や鍾会を派遣し進軍させる。鍾会は斜谷道・駱谷道・子午谷道からそれぞれ軍を進め漢中入りした。艾は狄道から甘松の沓中を進み、姜維を牽制した。
姜維は鍾会がすでに漢中入りしたことを聞くと、すぐに兵を引き沓中から帰還しようとする。そこに艾の追撃がかかり、姜維は敗走。剣閣まで退き、鍾会への守りを固める。
姜維から自由になった艾は陰平を進む。無人の地を進むこと 300km 弱、切り立った山を切り開き、深き崖には橋を掛ける。また谷間に差し掛かると、艾はその身を毛布にくるみ、転がり落ちる。こうした振る舞いを見て、将軍や兵士たちもまた木や崖をよじ登り、さながら魚の群れかのように突き進んだ。
江油に差し掛かると、近隣を守る蜀将の躋謔櫃鮟駝未砲督発。諸葛瞻は書をもたらした使者を切り捨て、綿竹にて陣を敷き迎撃を試みるも、大敗。戦死した。その結果を受け、諸葛瞻の息子である諸葛尚は言う。
「我ら親子、お国よりの御恩をその身に担ってきた。早々にあの奸物、黄皓を斬らなかったがために、国破れ民が虐げられることとなったのだ! これ以上生きていて何ができようか!」
そして馬にむち打ち敵陣に突っ込み、死んだ。
蜀人らは魏軍がいきなりやって来ることをまるで想定しなかったため、守りもまともに固めていなかった。そのため使者を遣わし、皇帝の璽綬を艾のもとにもたらした。劉禅の息子、劉遒賄椶蝓言う。
「もし我らの力及ばず敵軍による脅威がすぐそばにまで迫ってしまったのならば、父子君臣が揃い、最後まで城を背にして戦い、みなでお国のために散りゆくのが道理ではございませぬか! それならば先帝もご納得になりましょうに、なぜ降伏などという選択肢を取られるのです!」
しかし劉禅は聞き入れない。このため劉遒藁備の霊廟に詣で慟哭し、妻子を殺害したのちに自殺した。
艾至成帝出降,魏封爲安樂公。帝在位四十一年,改元者四,曰建興、延煕、景耀、炎興。右自高帝元年乙未至後帝禪炎興癸未,凡二十六帝,通四百六十九年而漢亡。
(訳)
艾が成都に到着すると、劉禅は城から出て降伏を宣言する。魏は劉禅を安楽公に封じた。劉禅の在位は 41 年間であった。改元は四回,建興・延煕・景耀・炎興である。劉邦の皇帝即位から滅亡まで、漢の皇帝は通算で 26 名。469 年の治世であった。
(訳)
艾が成都に到着すると、劉禅は城から出て降伏を宣言する。魏は劉禅を安楽公に封じた。劉禅の在位は 41 年間であった。改元は四回,建興・延煕・景耀・炎興である。劉邦の皇帝即位から滅亡まで、漢の皇帝は通算で 26 名。469 年の治世であった。
魏司馬昭先是已受九錫,已而進爵爲晉王。昭卒,子炎嗣。魏主奐僭位六年,改元二,曰景元、咸煕。炎迫魏主禪位,封爲陳畱王,後卒,晉人諡之曰元。
(訳)
司馬昭は改めて九錫を受け、晋王に進んだが、間もなくして死亡した。子の司馬炎がそのあとを継ぎ、すぐさま曹奐より禅譲を受けた。曹奐の在位は 6 年。改元は二回、景元・咸煕である。位を退いた後は陳留王となった。のちに死亡すると、元帝と諡された。
(訳)
司馬昭は改めて九錫を受け、晋王に進んだが、間もなくして死亡した。子の司馬炎がそのあとを継ぎ、すぐさま曹奐より禅譲を受けた。曹奐の在位は 6 年。改元は二回、景元・咸煕である。位を退いた後は陳留王となった。のちに死亡すると、元帝と諡された。

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