晋末宋初に関するエピソード群を様々な形で参照できる wiki です。

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義

大義名分の「義」に近しい。となると、「より正しい題目」と言う系統の言葉になるだろうか。

「約束事が義に近ければ、言葉通りに実行できる」
「君子が天下と向かい合うに、義のあるなしにのみ従い、その人の評価を定める」
「君子は義を重視し、小人は利益を重視する」
「君子の振る舞い。人民を使役するのは義に基づく」

學而13、里仁10、里仁16、公冶長16

孝

親を大切にすること。敬意を抱いて接することもそれであり、また具体的には余計な心配を掛けさせずにあることもまた孝であるとされる。よく祭祀で祀ったりするのもまた、孝。

「孝悌の心に満ちた人で、上下の秩序を乱そうとする者は少ない。孝悌の心を抱くこと、それこそが仁者としての根本ではないか?」
「若者よ。親想いであれ」
「父が死してより、喪に服する三年間。この期間で、その人物が父の定めた道を違えないのであれば、まず、孝行者と言えるだろう」
「生きている時は、礼をもって親に仕えること。死んでしまったら、礼に基づいて葬り、礼に基づいて祀る。そこから違えぬこと」
「父母が心配するのは、ただお前の体調のことであるように。他のことでは心配させるな」
「孝について、よく尽くすこと、と言うものがある。しかし、犬や馬も、我々によく尽くすではないか。そこに尊敬の想いがあるか、否か。これが孝の有無を分かつのだ」
「親に対して和らいだ顔を見せ続けること、ただし、これはとても難しかろうな」
「(民は)孝の心もって慈しめば、忠誠を誓ってまいりましょう」
「『尚書』にも書かれております。孝、まずは孝。兄弟のごとく、親しくあれ。この心持を浸透させるのが、政であると言えましょう」
「先祖の霊をよく奉った」

學而2、學而6、學而11、爲政5、爲政6、爲政7、爲政8、爲政20、爲政21、泰伯22

信

義と近しい概念と言うことになりそうである。その中でも特に、ともがらと寄り添い、裏切らない、の部分が大きいだろうか。

「友と信義ある付き合いは出来たか?」
「大国を導くのに必要なのは、信頼、節約、タイミングだよ。」
「若者よ。信義を保ち、人々を分け隔てなく愛し、仁あるものに親しめ」
「親友と共にあるならば、信義を尽せ!」
「学んだことに固執することもない。君主に対し忠誠を誓い、信義を貫くべし」
「信が義に近ければ、言葉通りに実行できる」
「信義のない人に、信用すべき点を見出すのは難しい」
「十世帯ほどの村であっても、忠実で、信義ある者はいるだろう」
「文:学問を得ること。行:その実践。忠:誠実さ。信:信義」
「忠義と信義を第一とせよ」

學而4、學而5、學而6、學而7、學而8、學而13、爲政22、公冶長28、述而24、子罕25

仁

孔子の言葉の根本、ともいえる。隣人を愛すること、に集約されるだろう。それは意識すれば簡単に意識できるが、常に抱き続けるのは非常に難しい。姿勢の矯正、みたいなものだろうか。正しい姿勢を意識することができても、常にそれを意識し続けることは難しい、と言ったように。「すぐそばにある」「しかし完全な獲得は難しい」。人に言われてどうにかできるようなものでもないから、自発的に矯正に取り組まないことには始まらんのよね。

「孝悌の心を抱くこと、それこそが仁者としての根本ではないか?」
「口先だけでそれっぽいことをくっちゃべる連中に、仁の心は期待できないものだ」
「信義を保ち、人々を分け隔てなく愛し、仁あるものに親しめ」
「仁なき人に、どうして礼が語れる? 仁なき人に、どうして楽が語れる?」
「仁ある態度の中にあるのが良い。仁の中にあらずして、何を知ろうというのか?」
「仁なきものは、長らくの貧乏暮らしをさせてはならぬ。と言って、長じたのちも安楽に浸らせてはならぬ。どちらにせよ、悪事に傾く。諺にも、仁もてるものは仁に安んじ、知者は仁を利用する、とある」
「仁者のみが、真に公平に人を愛し、憎むことができるのだ」
「及ばぬとわかりながらも仁ある者であろうとする、この志を、どうして憎めよう」
「君子たらんものが仁より外れ、どうして名を成せようか? 君子であれば、食事の間も仁から外れることはない。突然のアクシデントに見舞われても、道端の石につまづいても、仁者であるがままなのだ」
「私は仁を好んだ者を見たことがない。不仁を憎んだものを見たことがない。仁を愛せたならば、それは確かに大変結構である。不仁を憎めたならば、それは仁の啓蒙として働こう。なにせ不仁をその身に及ばさぬようにするからだ。ただ、仁のために力を尽くすのは、一日だけ頑張るのであれば、誰でもなしえよう。しかしながら、にもかかわらず、それでもなお、私は仁を好んだ者を見たことがない、と言わざるを得んのだ」
「人は、過ちの種類にその人格がうかがえる。その人の過ちの種類から、その人について知る、これを仁というのだ」
「冉雍殿は仁者ですが、口下手ですね」「どうして仁者の口がうまい必要がありましょうか?」
「才の有無から仁者かどうかは、判断ができませぬ」
「忠義ぶりや潔癖ぶりから、仁かどうかは占えぬ」
「顔回は私のもとにきて、三か月で仁の境地からたがわぬようになった。それ以外の徳目についても、数日、遅くても一か月のうちには到達した」
「他者に先んじようとはせず、他者の後ろについている、それが仁、と言えるだろう」
「知者は水のありようを楽しみ、仁者は山のありようを楽しむ。すなわち知者は活動的であり、仁者は静謐である」
「仁ある者は、井戸の中に仁が落ちている、と呼ばれたら、助けようとするのでしょうか?」「何を言っとるのだお前は」
「広く民に恩徳を授け、人々を救う者があれば、仁者と呼べるでしょうか?」「そこまで行けば、もはや聖人だ。まず手近なところへの手助けをなす、それが仁者のなすべきことだ」
「世を道義あるものに導かんと志し、徳に基づいて立場を定め、仁に基づいて判断せよ」
「伯夷と叔齊は国公の地位を辞退し、兄弟に譲った。仁者たらんと振る舞い、そして仁を獲得したのである」
「仁とは遠き境地だろうか? いや、それを欲すれば、すぐそばにはあるのだ」
「聖人や仁者のごとき境地に、私がたどり着けなどしようか? あえて言えばその境地に辿り着かんと努めておるとは言い切ってもよかろうがな!」
「君子が篤実な親交を結べば、民の内には仁の心が湧こう」
「仁の心を自らの規範とするのは、重大でないはずがない。それは士人が死ぬ瞬間まで課せられ続ける」
「ある人に仁の心がないとして排斥せんと激しく動けば、いさかいが生じよう」
「孔丘先生の、まれなる発言。それは利益、天命、そして仁について」
「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れぬものだ」

學而2、學而3、學而6、八佾3、里仁1、里仁2、里仁3、里仁4、里仁5、里仁6、里仁7、公冶長5、公冶長8、公冶長19、雍也6、雍也21、雍也22、雍也25、雍也29、述而6、述而14、述而29、述而33、泰伯3、泰伯8、泰伯11、子罕1、子罕30

聖

孔子の言う「聖人」はすべての人々を救いうる至上の存在。ただし、それは実在しない。となると、堯舜を聖人と言うのにも、ちょっとしたポーズ的なものがあったのかもしれない。「理論値的存在」と言うか。人間が目指す先ではなく、人間はあくまで君子として完成すべき、とするわけであり。しかし孔子以外の人間は孔子を「聖人」と見る。この段階で孔子の伝えたいことが全く伝わってない感じがして笑える、いや笑えねー。

「広く民に恩徳を授け、人々を救う者があれば、その者は聖人だ」
「私は聖人に見えることかなわぬ! 君子に会えたのであれば、まぁ、よかろうか」
「聖人や仁者のごとき境地に、私がたどり着けなどしようか?」
「あなたの恩師は聖人なのですか? 様々な技能にたけていらっしゃる」

雍也29、述而25、述而33、子罕6、

忠

いわゆる「忠誠心」そのものではないっぽい。そして信や義とも意味合いが近く、正直この二者との切り分けが現段階ではうまくできそうにない。宿題ですねい。ひとまず「忠誠心」的な意味合いに信と義がたどり着かなかったところ、が一つのヒントなんでしょうね。

「ひとのために尽くすことができたか?」
「君主に対し忠誠を誓い、信義を貫く」
「君主は礼をもって臣下に接し、臣下は忠をもって君主に接する」
「先生の進まれる道が、忠、そして思いやりからぶれていない、ということさ」
「鬬㝅於菟は三たび宰相となっても喜ばず、三たび罷免されても恨まず、かつ新たな令尹に確実に引継ぎをなしました。この振る舞いはいかがでしょう?」「忠義もの、だな」
「十世帯ほどの村であっても、忠実で、信義ある者はいるだろう」
「学問を得ること。行:その実践。忠:誠実さ。信:信義」
「忠義と信義を第一とせよ」

學而4、學而8、八佾19、里仁15、公冶長19、公冶長28、述而24、子罕25

道

道と徳とは、孔子以前にすでにしっかりと存在していた概念のようだ。道路から派生して、個人にとって、あるいは国家にとって進むべき先のしるべ、的意味合いとして用いられている。そして、そこに沿って進むのが徳。この考え方は道家にも援用されていて「正しきこと」「乗るべきもの/従うべきもの」的な意味合いが抽出され「世の中の根本的な摂理」的な意味合いに改変させられた。ただし老子はあくまで「どう呼んでも当てはまらないけど謎の概念Xのまんまじゃ据わりが悪いから仮称として道と言う言葉を宛てとくね」でしかないのだよなぁ。つまり「道」と言う語を至上のものとして扱う振る舞いは老子の考え方からの乖離甚だしいんじゃねえのって思うんですが、あっ何でもないです。

「君子は常に根本のことを大切にする。根本が据わり、初めて道義が示される」
「為すべき道を進むのが正しいと知ること、これこそが学びを好む、ということだ」
「天下より道が失われている今、先生こそがまさに世の木鐸であらせられましょうに」
「朝に我が進むべき道を知ることができたのならば、その日の夕方に死んでも構わぬ!」
「道を求める大夫たるもの、ぼろの衣服、粗末な食事は当然のことである、と言える」
「父の死後三年経っても父の教えに背かないようであれば、孝の道を体現した子である」
「国のご政道がまっすぐであれば、その存在が無視されることなく、国のご政道が誤っていたとしても、無体な真似はされるまい」
「孔丘先生がお書きになる文章は、見聞きすることが叶う。しかし人間の性分にまつわること、天の定めし道にまつわるお言葉は、見聞きすることが叶わない」
「寧愈様は、その国に道理あれば知者として振る舞われ、その道に道理なくば愚直な誠実さを示された。」
「先生より教わる道を嬉しく思わぬわけではございません。実践に至れぬのは、ひとえに私の力不足です」
「世を道義あるものに導かんと志し、徳に基づいて立場を定める」
「学びを好み、邁進することを信じ、よき道を進むことを死守する」
「天下に良き道が示されれば近づき、道なくば隠れる」
「共に学べたものと、同じ道を行けるとは限らぬ。道を同じくする者と、同じ志を立てられるとは限らぬ」

學而2、學而14、八佾24、里仁8、里仁9、里仁20、公冶長2、公冶長13、公冶長21、雍也11、述而6、泰伯14、子罕31

徳

「道」に則った振る舞いをなすこと、またそうすると信頼されている人、というニュアンスを感じる。「道」に則った振る舞いと言えば、つまり仁義礼智信、ですわね。そういうわけで老子では「道」の働きによってもたらされる現象のことを「徳」と呼んでいる。その照応のしかたについては、なるほどうまい位にはまってくるよなーとびっくりするのですよね。

「服喪に際し、よく亡き父母を想う。士大夫がその振る舞いをすれば、人々の心の徳は厚くなるのだろう」
「政とは、徳がなすものだ。それは例えば、天の北極がひとところに留まりながら、星々がそこに従うのに似る」
「導くのに徳をもってし、整えるのに礼をもってすれば、道義に背くことを恥と思い、正しく振る舞うようになるだろう」
「君子は徳を抱き、小人は地縁を抱え込む」
「徳ある者が孤独になることはない。必ず、隣人の助けがあろう」
「中庸の考えこそが、徳を考えるにあたっての至上命題である。これが民から失われて久しいが!」
「��を修養せず、学びを怠り、道義を聞きながらその境地を目指さず、良からぬことと知りつつも改めない。これが私の憂えていることだ」
「世を道義あるものに導かんと志し、徳に基づいて立場を定め、仁に基づいて判断せよ」
「天は私に徳を与えた。桓魋ごときがどうにかできるものか!」
「周の文王の伯父、泰伯は至徳の人」

學而9、爲政1、爲政3、里仁11、里仁25、雍也28、述而3、述而6、述而22、泰伯1

礼

何故儒で仁を重んじるか。人々が争いごとなく過ごせる「和」の状態を至上とするため。しかし和の状態を形づくるためには人々の心に仁をはじめとした徳が備わらねばならない。この徳がどのような実践であるかを示すのが、礼。いわゆる礼儀作法は、あくまで「礼」がカヴァーしているものの一部分にすぎないわけだけれども、読んでいてどうしても「礼儀」のほうに意識がとらわれてしまう。困ったものである。

「礼を用いるよりも、まず和が重要だ。和でどうしようもないところを礼で補うようにするのだ」
「約束事が正しければ、言葉通りに実行できる。恭しさが礼儀に近ければ、恥辱からは遠ざかれる」
「賤しくても楽しめ、富貴でも礼に親しめるのが良い」
「民を導くのに徳をもってし、整えるのに礼をもってすれば、道義に背くことを恥と思い、正しく振る舞うようになるだろう」
「礼とは、豪勢であるより、つつましくあること。例えば葬儀は式辞を整えるより、哀悼を示すことが重要である」
「絵を描く時にも、最後に白を載せる。それと同じことだよ」「すなわち、礼がのちに来るように、でありましょうか?」
「現代の礼から過去の礼の実態を語ることはできない」
「鄹の役人の息子は礼に詳しい、と聞いたが、どこがだ? 質問だらけではないか」「問うのが礼にかなうからです」
「君主に仕えるにあたり、礼を尽くす。人はこれを諂いと認識するようだ」
「君主は礼をもって臣下に接し、臣下は忠をもって君主に接する」
「管仲が宰相の身にありながら国主の礼でもって振る舞っていた。管仲が礼を知っているというのなら、むしろ、誰が礼を知らぬのだ?」
「上の立場にありながら寛容でなく、礼ある振る舞いをすれど敬わず、葬儀に臨みながら、悲しまぬ。このような者たちに対し、私が何を期待すると思っているのだ!」
「君子たるもの、まずは広く学びを得ること。そのうえで振る舞いを礼に沿って実践する。こうすれば、道理から違うことはあるまい」
「恭しさ、慎み深さ、勇敢さ、率直さ。これら美徳も、そこに礼がなければ、骨折り損となろう」
「詩の習得より修身は始まり、礼の習得にて修身は成立し、樂の実践にて修身は完成する」
「些細な礼は通俗に倣い、重大な礼はしきたりに従う」
「文でもって我が心を広げてくださり、礼でもって我が迷いを晴らしてくださる」

學而12、學而13、學而15、爲政3、八佾4、八佾8、八佾9、八佾15、八佾18、八佾19、八佾22、八佾26、雍也26、泰伯2、泰伯9、子罕3、子罕11

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