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魏書 島夷劉裕伝


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粗野な博徒

島夷劉裕,字輿,晉陵丹徒人也。其先不知所出,自云本彭城彭城人,或云本姓項,改為劉氏,然亦莫可尋也,故其與叢亭、安上諸劉了無宗次。裕家本寒微,住在京口,恒以賣履為業。意氣楚剌,僅識文字,樗蒲傾產,為時賤薄。嘗負驃騎諮議刁逵社錢三萬,經時不還。逵以其無行,錄而徵責,驃騎長史王謐以錢代還,事方得了。落魄不修廉隅。

 宋帝を自称した島夷、劉裕。字徳輿、晋陵郡丹徒の人である。祖先がどこの出身であったかはわからず、彭城郡彭城県の出身だと語られるが、あるものの談ではもとは項姓で、劉氏に改めたのではないか、とのことだが、噂の出どころは不明である。確実なのは叢亭、安上の諸劉には接続していない、ということである。劉裕の家は寒微であり、京口に居を構え、草履を売って生計を立てていた。その性格は粗野であり、まともに文字も知らず、樗蒲にて家財を傾け、人々より嫌悪軽蔑されていた。かつて驃騎諮議の刁逵より社銭30000の借金を負うも、いくら経てど返済しなかった。刁逵はその無体な振る舞いに耐えかね、捕え、懲罰を与えた。驃騎長史の王謐が借金の肩代わりをしたため、刁逵の問題は解決した。大雑把で、礼儀知らずな性格をしていたのである。

天興二年,僭晉司馬宗遣其輔國將軍劉牢之東討孫恩,裕應募,始為牢之參軍。恩北寇海鹽,裕追勝之,以功稍遷建武將軍、下邳太守。劉牢之討桓玄,裕參其軍事。牢之降,裕為玄從兄桓脩中兵參軍。孫恩死,餘眾推恩妹夫盧循為主,玄遣裕征之,裕破循于東陽、永嘉,循浮海奔逸。加裕彭城內史。

 天興二(393)年、晋帝を僭称する司馬徳宗は、その輔国将軍劉牢之に東方の孫恩を討伐させた。劉裕はこのときの募兵に応じ、はじめて劉牢之の参軍となった。孫恩は北に海塩を攻撃するも、劉裕は追撃して打ち破り、その功績から間もなくして建武将軍・下邳太守となった。劉牢之が桓玄を討たんとしたとき、劉裕もその作戦に参加した。劉牢之は降り、劉裕は桓玄の従兄である桓修の中兵参軍となった。孫恩が死ぬと、残された信徒らは孫恩の妹の夫である盧循を主とした。桓玄は劉裕に討伐させた。劉裕は盧循を東陽、永嘉で破った。盧循は海路で逃げた。劉裕に彭城内史が加えられた。

及桓玄廢宗而自立,裕與弟道規、劉毅、何無忌潛謀舉兵。桓脩弟思祖鎮廣陵,道規劉毅先為之佐。天賜初,裕與何無忌等旦候城門開,率眾斬玄徐州刺史桓脩於京口,其日,劉毅、道規等亦斬思祖,因收眾濟江。河內太守辛扈興、恒農太守王元、振威將軍童厚之亦與裕剋是日取玄。毅兄邁時在建業,毅遣周安要之,邁懼而告玄,玄遣頓丘太守吳甫之、右衞將軍皇甫敷北拒。裕率眾宿于竹里,遇甫之於江乘,裕執長刀直入其陳,斬甫之,進至羅落橋,又斬敷首。玄使桓謙屯東陵,卞範之屯覆舟山西,裕又破之。玄大懼,乃攜子姪浮江南走。裕入鎮石頭,以宗司徒王謐為錄尚書,領揚州刺史,立留臺,總百官,裕為使持節、都督揚徐兗豫青冀幽并八州、鎮軍將軍、徐州刺史。令道規等率眾追玄。裕因是相署名位,遣尚書王嘏等迎宗,燔桓溫神主于宣陽門外。尋殺尚書左僕射王愉及其子綏、納等。裕以司馬遵為大將軍,承制,入居東宮,公卿以下莫不畢拜。乃大赦,惟玄等不在例。是夜,司徒王謐逃走。劉毅以其手解宗璽綬,宜誅之。裕以其償錢之惠,固請免之,乃遣丹楊尹孟昶迎焉。

 桓玄が司馬徳宗を廃し自立すると、劉裕と弟の劉道規、劉毅、何無忌が密かに計画を練り、挙兵した。桓修の弟の桓思祖が広陵を守っていたが、もともと劉道規と劉毅は桓思祖の補佐官であった。天賜初(404年)、劉裕と何無忌らは朝方に挨拶に出向くていで城門を開かせ、兵を率いて桓玄の徐州刺史である桓修を京口にて斬った。この日、劉毅や劉道規らもまた桓思祖を斬り、兵を取りまとめ長江を渡った。河内太守の辛扈興、弘農太守の王睿、振威将軍の童厚之らもまた日にちを決め、桓玄を襲撃する手はずであった。この頃劉毅の兄の劉邁が建業におり、劉毅は周安穆に迎えに行かせた。劉邁はこの計画に怯え上がり、桓玄にこの計画を告げた。桓玄は頓丘太守の呉甫之、右衛将軍の皇甫敷を派出し守りに充てさせた。劉裕は手勢を率い、いちど竹里で休息した。その後呉甫之と江乗で遭遇した。劉裕は長刀を手にして敵陣に突っ込み、呉甫之を斬った。更に羅落橋に進み、皇甫敷をも斬った。桓玄は桓謙を東陵に、卞範之を覆舟山の西に駐屯させたが、劉裕はどちらも打ち破った。桓玄は大いに恐れ、子や甥姪を引き連れ、船にて長江を西に逃れた。劉裕は石頭城に陣を構え、司徒と呼ぶ王謐を録尚書とし、揚州刺史を兼務させた。留台を立て、百官を統率させた。劉裕自身は使持節・都督揚徐兗豫青冀幽并八州・鎮軍将軍・徐州刺史となった。劉道規らに桓玄の追撃を命じた。劉裕はこれらの出来事から建業の支配層をその風下に付け、尚書の王嘏らに司馬徳宗を迎えに出向かせ、桓温の位牌については宣陽門の外で焼き払わせた。さらに尚書左僕射の王愉やその子である王綏、王納らを殺した。劉裕は司馬遵を大将軍とし、承制させ、東宮に入れさせた。公や卿以下の者たちに赴き、拝礼しないものはなかった。その後大赦させたが、桓玄らについては大赦の対象外とさせた。同日夜、司徒の王謐が逃げ出した。劉毅は王謐が司馬徳宗から皇帝の印璽を直接奪ったことを理由に、誅殺するべきである、と主張した。しかし劉裕には借金を肩代わりしてくれた恩があったため、強くその赦免を求めた。このため新たに丹楊尹となった孟昶により、改めて新体制に迎え入れられたのである。

無忌、道規至于桑落洲,破桓玄。諸將進據尋陽,加裕都督江州。劉毅復敗桓玄於崢洲,玄乃棄眾單舸奔走,挾宗奔于江陵。裕領青州刺史,甲仗百人入殿。毅等平巴陵,宗復位於江陵,改年曰義熙。及還建業,裕進侍中、車騎將軍、都督中外諸軍事,飾讓不受;加錄尚書事,又詐不受。乃出鎮丹徒,改授都督十六州,餘如故,又領兗州,乃解青州。***盧循破廣州,裕仍以循為廣州刺史,其黨琅邪人徐道覆為始興相。
裕又都督交廣二州。又封裕豫章郡公,邑萬戶,絹三萬匹。加侍中,進號驃騎將軍、儀同三司。又進裕揚州刺史,錄尚書事,居於東府。裕遣劉敬宣伐蜀,為譙道福所敗,乃免敬宣官,裕自降為中軍將軍,開府如故。

 何無忌と劉道規は桑落洲にて桓玄を破った。諸将は尋陽に進み拠点を置いた。劉裕に都督江州軍事が加えられた。劉毅はさらに桓玄を崢洲で破った。桓玄は配下兵を見捨て単舸にて逃亡し、司馬徳宗を引き連れ江陵にふたたび入った。劉裕は青州刺史を兼務し、甲仗100人での入殿となった。劉毅らは巴陵を平定した。司馬徳宗は江陵にて皇帝復帰を宣言、年号を義熙と改めた。建業に帰還すると、劉裕は侍中・車騎将軍・都督中外諸軍事となったが、偽りの辞退をした。録尚書事が加えられることとなったがこちらもやはり偽りの辞退をした。京口に戻ると都督十六州軍事となり、他の官位は据え置きとなったが兗州刺史が加えられ、青州刺史は解任となった。
 盧循が広州を破り、劉裕は盧循を広州刺史とした。またその与党である琅邪人の徐道覆を始興相とした。
 劉裕は都督交広二州ともなり、また豫章郡公、食邑10000戸となり、絹30000匹が与えられた。侍中・驃騎将軍・儀同三司となった。さらに劉裕は揚州刺史・録尚書事となり、東府に移住した。劉裕は劉敬宣に蜀を討たせたが譙道福に敗れた。劉敬宣を免官し、劉裕は自ら中軍将軍に降格を言い出したが、開府についてはそのままであった。

簒奪の階梯

永興初,慕容超大掠淮北,執宗陽平太守劉千載、濟南太守趙元,驅掠千餘家而歸。裕乃伐超,遂屠廣固,執超,斬其王公以下三千人,納口萬餘、馬二千匹,夷其城隍。送超于建業,斬之。

 永興の初め(409年)、慕容超は淮北にて大いに略奪行為を働き、東晋の陽平太守の劉千載や済南太守の趙元を捕らえ、1000家あまりをさらい帰還した。劉裕は慕容超討伐に動き、長期戦の末広固を落とし、慕容超を捕らえ、王公以下3000人を斬り、南燕人10000人余り、馬2000匹を獲得し、広固城を解体した。慕容超を建業に送り、斬った。

裕是行也,徐道覆勸盧循令乘虛而出,循從之,於是南康、廬陵、豫章諸郡守皆奔走。江州刺史何無忌率軍至豫章,戰歿。于時羣議欲令宗北徙渡江。循遂寇湘中,破劉道規於長沙,敗劉毅於桑落洲,席卷而下。裕將孟昶、諸葛長民勸裕擁宗過江,裕不從。昶謂事必不濟,乃自殺。裕發居人治石頭城。道覆等至,即欲於新亭白石渚焚舟而上。盧循曰:「大軍未至,孟昶便逆自殺,以此而推,建業尋應有變,但按甲守之,不憂不濟也。」乃屯軍於蔡洲。循乃率眾數萬上南岸,至于丹陽郡,遂遣焚京口、金城、姑熟,寇掠塗中及江寧、蕪湖。循以阮賜為豫州刺史,裕中軍參軍尚靖、宣城內史毛脩之破賜於姑熟,獲其輜重,賜乃退。又加裕太尉、中書監、黃鉞,裕受黃鉞。盧循既不戰,乃告道覆曰:「師老矣,可還據尋陽,并力取荊州,徐以三分有二之勢與下流爭衡,猶可以濟也。」乃自蔡洲南退。裕遣輔國將軍王仲等追之。裕又遣建威將軍孫季高率眾自海道襲番禺。裕自以舟師南伐。季高乘海兼行,奄至番禺。循不以海道為防,既至而覺,眾乃大驚。季高悉力而上,四面攻之,仍屠其城。盧循父嘏及長史孫建之並以輕舟奔始興。

 劉裕のこの遠征を受け、徐道覆は盧循にこの虚に乗じて進撃すべきと説いた。盧循も従い、こうして南康・盧陵・豫章を襲撃、郡守らはみな逃亡した。江州刺史の何無忌は軍を率い豫章に至ったが敗死した。朝廷では安帝を擁し長江の北に逃げるべき、という議論が持ち上がった。盧循はさらに湘中を襲撃、劉道規を長沙で、劉毅を桑落洲で破り、一帯を席巻しつつ長江を下った。劉裕の将である孟昶や諸葛長民は劉裕に安帝とともに長江の北に逃れるべきであると説いたが、劉裕は従わなかった。孟昶はもうおしまいだと考え、自殺した。劉裕は住民を徴発し石頭城を修繕させた。徐道覆らは到着すると、真っ先に新亭および白石に停泊している船を焼いた上で進軍をしようと考えた。しかし盧循が言う。
「劉裕本軍は未だ帰還しておらず、孟昶は劉裕の意向に逆らい自殺したと言うではないか。ここから量るに、建業の中から異変も生じよう。いまは武具を整え守りを固めておくべきだ。なし遂げられぬ事を憂うまでもない」
 そして軍を蔡洲に停泊させた。その後盧循は数万の兵を率い南岸に上陸、丹陽郡にまで至り、あわせて京口・金城・姑熟にも兵をやって放火させ、また塗中、江寧、蕪湖を略奪した。盧循は阮賜を豫州刺史とした。劉裕は中軍参軍の尚靖、宣城内史の毛修之に姑熟を攻撃させ阮賜を破った。その輜重を奪い、阮賜を撤退させた。劉裕に太尉・中書監・黄鉞が加えられたが、劉裕は黄鉞のみ受けた。盧循はもはや建康制圧が無理だと悟り、徐道覆に言う。
「師老、尋陽に撤退し拠点と致しましょう。力をあわせ荊州を取れば、なおも3分の2を確保した形成にて長江下流と相対せましょう。ならばまだ勝ち目もございます」
 こうして蔡洲より南に退いた。劉裕は輔国将軍の王懿らに追撃させた。劉裕はまた建威将軍の孫処に兵を率いさせ海伝いで番禺を攻撃させた。劉裕も自ら水軍を率い南伐した。孫処は海路を急行し、番禺に到達した。盧循は海路について警戒をしておらず、このため孫処の出現に番禺の守兵は大いに驚愕した。孫処は上陸すると総力にて攻めかかり、全面より攻撃を仕掛け、その日のうちには陥落させた。盧循の父の盧嘏、および長史の孫建之はともに軽舟にて始興に逃れた。

循與道覆率眾而下,裕眾軍擊之,循等還尋陽。循欲遁於豫章,乃悉力柵斷左里。裕諸軍乘勝而擊之,循單舸徑還廣州,道覆還始興。裕還,為大將軍、揚州牧、班劍二十人,本官如故。徐道覆至始興,猶據山澗,劉蕃等攻之,道覆先鴆妻子,然後自殺。盧循至番禺,收眾攻季高,劉蕃遣沈田子討之,循奔走。餘眾從嶺道襲合浦,克之。進攻交阯,交州刺史杜惠度屢戰克捷,循投水而死。

 盧循と徐道覆は兵を率いて劉裕を避けて長江を下ろうとしたため、劉裕の率いる諸軍にて攻撃を仕掛け、盧循らは尋陽に帰還した。盧循はさらに豫章に逃れようと考え、人手を総動員し左里を柵で封鎖した。劉裕の諸軍は勝ちに乗じ攻撃を仕掛け、盧循は単舸にて広州に、徐道覆は始興に逃れた。劉裕が帰還すると、大将軍・揚州牧・班剣20人となった。それ以外の官位はもとのままであった。
 徐道覆は始興に戻り、なお山や川の守りを頼りに抵抗した。劉藩らが攻め寄せると、徐道覆は妻子を毒殺の上自殺した。盧循は番禺に至ると、率いていた兵と共に孫処を攻撃したが、劉藩が沈田子を遣わせ攻撃させると、盧循は西方に逃れ、嶺道をたどって合浦を攻撃、陥落させた。さらに交阯に進んだが、交州刺史の杜慧度にしばしば打ち破られ、ついには海に身を投げて死んだ。

裕自為太尉、中書監。裕殺尚書左僕射謝混、兗州刺史劉蕃。裕既權重,便懷異志,以荊州刺史劉毅頗有勇略,又據上流之所,心畏惡之,遂自討毅,遣參軍王鎮惡等襲江陵。鎮惡至豫章口,焚毅舟艦。毅兵逆戰不能抗,鎮惡馳入外城。于時毅病,乃阻內城。鎮惡焚諸門攻之,其徒乃潰。毅自北門出走,縊于道側,斬屍於市,誅其子姪。裕至江陵,誅南蠻校尉郗僧施、衞軍諮議謝邵等。裕本寒微,不參士伍,及擅時政,便肆意殺戮,以威懼下。初以刁逵縛之之怨,誅其兄弟;又以王愉、謝混、郗僧施之徒並皆時望,遂悉害之。分荊州為湘州,裕自總督。裕還於東府,召諸葛長民屏人閑語,密令壯士丁旿等出自幔後,於座拉之,長民墜地,死於牀側。亦以才雄見忌也。

 劉裕は自らの官位を太尉、中書監とした。劉裕は尚書左僕射の謝混、兗州刺史の劉藩を殺した。劉裕の権威は重いものであったが、そのために不逞の考えを起こしはじめていた。荊州刺史の劉毅は武勇計略に優れ、しかも長江の上流を拠点としている。この事態を劉裕は恐れ憎しみ、ついにみずから劉毅の征討に動いた。はじめに参軍の王鎮悪らに江陵を襲わせた。王鎮悪は豫章口に至ると劉毅の舟艦を焼き払った。劉毅の兵は抵抗するも敵わず、王鎮悪の外城侵入を許してしまった。このとき劉毅は病に侵されており、内城にて寝込んでいた。王鎮悪は諸門を焼き払って内城に突入、守兵らを壊滅させた。劉毅は北門より脱出すると、道端で首を括って死んだ。その死骸は街中にて切り捨てられ、その子や甥姪も斬られた。劉裕は江陵に到着すると南蛮校尉の郗僧施、衛軍諮議参軍の謝邵らを誅殺した。劉裕はもともと寒微の出であり、軍の士伍との関わり合いもなかった。政権を席巻するにあたり、その殺意を剥き出しとし、その恐怖によって配下を縛りつけた。はじめに刁逵が自身を縛り付けたことを恨み、兄弟もろとも殺した。また王愉・謝混・郗僧施のたぐいはみな当時の名望家であったが、のきなみ殺し尽くしている。荊州から湘州を分けると、自身の管理下に置いた。劉裕が東府に戻れば、諸葛長民を呼び出したわいない話をしたあと、密かに壮士の丁旿らに命じ、座に掛けているところを打ち倒し、諸葛長民が床に落ちたところを、椅子のそばで殴り殺している。これもまたその才の雄なるところを忌み嫌ったのである。

荊州刺史司馬休之頗得眾心,裕內懷忌憚,神䴥二年,率眾討之,遣龍驤將軍蒯恩等為前軍。裕進領荊州刺史,加黃鉞。雍州刺史魯宗之率其子軌會休之于江陵。軌等軍敗,乃與休之俱奔襄陽。裕自領南蠻校尉。休之等奔姚興。裕為太傅、揚州牧;劍履上殿,入朝不趨,讚拜不名;置左右長史、司馬,從事中郎四人;餘如故。裕又領平北將軍、徐兗二州刺史,疇墜鄂曾,尋督中外諸軍事。

 荊州刺史の司馬休之がすこぶる民心を得ていたため、劉裕は忌み憚る思いを抱いた。神䴥二(415)年、兵を率いて討伐に出、龍驤将軍の蒯恩らに先鋒を務めさせた。劉裕は荊州刺史を兼務の上、黄鉞を受けた。雍州刺史の魯宗之は子の魯軌を率い、江陵にて司馬休之と合流した。魯軌らの軍が敗れると、司馬休之とともに襄陽に逃れた。劉裕は南蛮校尉も兼務すると言い張った。司馬休之らは姚興のもとに逃れた。劉裕は太傅・揚州牧となり、剣履上殿・入朝不趨・讃拝不名の特権を授かった。また左右長史および左右司馬と、従事中郎4人を置くことが許された。他の官位は据え置かれた。劉裕はさらに平北将軍・徐兗二州刺史を自身に載せ、督南秦州を載せ、それから間もなくして自らを督中外諸軍事とした。

長安侵掠と失陥

裕志傾僭晉,若不外立功名,恐人望不許,乃西伐姚泓。自領征西將軍、司豫二州刺史,尋領北雍州刺史,加前後部羽葆鼓吹,疊頻為四十人。子義符為中軍將軍,監太尉留府事,給鼓吹一部。右僕射劉穆之為左僕射,領軍、中軍二府軍司,入居東府,總攝內外。穆之謂龍驤將軍王鎮惡曰:「公今委卿以關中,卿其勉之。」鎮惡曰:「吾今不克咸陽,誓不濟江,而公九錫不至者,亦卿之責矣。」裕率眾軍至彭城,加鎮北將軍、徐州刺史。遣中兵參軍沈林子自汴入河,冠軍檀道濟與王鎮惡步出淮肥,裕將王仲汎濟入河。宗封裕十郡為宋公,加相國、九錫,僭擬魏晉故事。王鎮惡進至宜陽,獨取潼關,沈林子自襄邑屯于陝城,姚泓諸將不能抗。始裕入河西上,太宗遣將軍娥清、長孫嵩等屯於河畔。裕遣朱超石、劉榮祖等渡河,長孫道生破之,擒斬其將楊豐等。裕遣將軍王仲、趙倫之率沈田子等入武關,屯軍青泥。沈林子由秦嶺會田子於堯柳城。姚泓率眾數萬,不戰而還。裕至關頭。鎮惡至渭橋,破泓軍於毀隋M技蠶弘臓ぜ衡泓以歸,斬于建業市。裕以其子義真為雍州刺史,鎮咸陽。進裕為宋王,畚酬粥っ嵒幹院ぐ豕主兩。裕還彭城。

 劉裕は僭晋転覆を目論んでいたが、もし外征で手柄を挙げきれなかったならば世論が許さないのでは、と恐れ、ついに西のかた、姚泓を討伐することにした。征西将軍、司豫二州刺史を兼務すると自称し、すぐさま北雍州刺史もそこに加えさらに自身に対する儀礼として前後部羽葆鼓吹を与えさせ、班剣を40人に増やさせた。子の劉義符を中軍将軍として太尉府の留守を任せたが、その際に劉義符に鼓吹一部を与えている。右僕射の劉穆之を左僕射とし、領軍、中軍二府の軍司とした。東府城入りし、内外の取りまとめをさせた。劉穆之と龍驤将軍の王鎮悪は出征前にこのようなやり取りをしている。
「劉公はいま、そなたに関中の趨勢をお委ねになったのだ。そなたよ、よろしく勉められよ」
「おれが咸陽を落とせなかったならば、誓おうとも。二度と長江は渡らぬと。しかし劉公に九錫がもたらされぬことがあったなら、それはそなたの責任となろうな」
 劉裕が大軍を率い彭城に至ると、鎮北将軍、徐州刺史が加えられた。ここから劉裕は中兵参軍の沈林子を汴水づてで黄河入りさせ、冠軍将軍の檀道済には王鎮悪とともに陸路にて淮肥を進ませた。また劉裕の将である王懿は船で黄河入りした。司馬徳宗は劉裕を10郡に封じ宋公とし、相国・九錫を加えること、魏晋の故事を踏襲した。
 王鎮悪は宜陽を進むと単独で潼関を落とした。沈林子は襄邑から陝城に向かった。姚泓の諸将は抵抗できなかった。はじめ劉裕が黄河沿いに出て西進した時、拓跋嗣は将軍の娥清や長孫嵩らを派遣し、黄河河畔に駐屯させた。劉裕は朱超石や劉栄祖らを発して渡河させるも長孫道生らに破られ、将の楊豊らが捕らわれ、斬られた。劉裕は将軍の王懿や趙倫之に沈田子らを率いさせ武関入りし、青泥に駐屯させた。沈林子は秦嶺山脈を越え林田子と堯柳城にて合流した。姚泓は数万の兵を率い迎撃に出たが、戦わず引き返した。劉裕が関頭に至った。王鎮悪は渭橋に出て、姚泓の軍を横門にて破った。劉裕が長安に到着すると姚泓を捕らえ、参陣する。姚泓は建業の市に連行され、斬られた。劉裕は子の劉義真を雍州刺史とし、咸陽に詰めさせた。劉裕は宋王となり、10郡が増やされた。百官を置くことは全て過去の例に倣った。劉裕は彭城に帰還した。

赫連屈丐掠渭陽,義真遣沈田子率軍討之。田子退軍陘上,鎮惡往就田子議之,田子斬鎮惡於幕下,又殺其兄弟羣從七人。田子馳還,云「鎮惡有異志」,義真長史王脩執而斬之。義真與左右多為不法,王脩每裁割之,左右咸怨,白義真曰:「王脩以關中阻險,兵食又足,欲謀反叛,宜早圖之。」義真遂遣左右殺脩。裕聞之,以朱齡石為雍州刺史。義真發自長安,將走江東,諸將競收財貨,次於灞上。赫連昌率眾追之,既至青泥,義真大敗,蒯恩與安西司馬毛脩之並被擒獲,參軍段圈ぬ照塙眩追宣瓠び吐鷲薺楚秦歸。朱齡石亦棄長安,奔就龍驤將軍王敬先于曹公故壘,既而城陷,被執見殺。
宗死,裕立宗弟文,裕又自畚酬粥M妓司馬傅亮赴建業,令徵己入輔。文禪其位。

 赫連屈丐が渭陽を襲撃。劉義真は沈田子に軍を与えて迎撃に出させた。沈田子は軍を陘上にまで下げた。王鎮悪が沈田子のもとに赴き作戦を話し合おうとしたところ、天幕内にて沈田子に斬られた。このとき兄弟や群従7人も共に斬られた。沈田子は急いで帰還し、劉義真に「王鎮悪に謀叛の意思がございました」と報告した。劉義真の長史の王修は沈田子を捕らえ、斬った。劉義真は側仕えと共に無法行為を働いてはそれを毎回王修に叱責されていたため、側仕えらより恨まれていた。側仕えらが劉義真に言う。
「王修は関中の守りが固く、兵も兵糧も十分であることから、謀反を図っておるのです。早めに排除なさった方がよろしいですぞ」
 こうして劉義真は側仕えたちに王修を殺させた。劉裕はこの話を聞き、朱齢石を雍州刺史に任じた。劉義真が長安を出、江東に逃れようとしたとき、諸将は競うように長安の財貨を持ち帰ろうとした。しかし灞上に至ったところで赫連昌が兵を率い襲撃。青泥にて追いつかれ、劉義真は大敗し、蒯恩と安西司馬の毛修之がともに捕らえられた。参軍段宏は単馬にて劉義真を見出して回収、脱出した。朱齢石もまた長安を放棄し龍驤将軍の王敬先が駐屯していた曹公故塁にまで逃れたが、間も無くして陥落、捕らわれ、殺された。
 司馬徳宗が死ぬと、劉裕は司馬徳宗の弟の司馬徳文を皇帝に立て、自らの封郡を10加増した。劉裕は司馬の傅亮に建業に向かわせ、建業にて司馬徳文を補佐するべく呼び寄せさせた。やがて司馬徳文は皇帝位を譲った。

島夷は一瞬で死ぬ

遂自號為宋,改年為永初,時泰常五年也。裕既僭立,頻請和通,太宗許之。六年,裕遣其中軍將軍沈範、索季孫等朝貢。七年五月裕死。

 劉裕は宋を自称、永初と改元した。これは泰常五(420)年のことである。劉裕は皇帝を僭称こそしたが、しきりに北魏に和親通交を願い出てきたため、拓跋嗣も認可した。
 泰常六(221)年、劉裕は中軍将軍の沈範、索季孫らを派遣、朝貢してきた。泰常七(422)年五月、劉裕は死んだ。

史臣曰:桓玄侏張,馮、劉乃厥。疑窮凶極迷,為天下笑,其夷、楚之常性乎?

 編纂者は思う。桓玄は南土にはびこり、劉裕は政権の空白に乗じた。それにしても、その凶暴な資質を剥き出しとし、迷妄の限りを尽くし、天下の笑いものとなるよう振る舞うのは、島夷や楚人のサガなのだろうか?

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