宋高祖武皇帝諱裕,字輿,小字寄奴,彭城縣綏輿里人,姓劉氏,漢楚元王交之二十一世孫也。彭城楚都,故苗裔家焉。晉氏東遷,劉氏移居晉陵丹徒之京口里。皇祖靖,晉東安太守。皇考翹,字顯宗,郡功曹。帝以晉哀帝興寧元年歲在癸亥三月壬寅夜生,神光照室盡明,是夕甘露降于墓樹。及長,雄傑有大度,身長七尺六寸,風骨奇偉,不事廉隅小節,奉繼母以孝聞。 
宋の高祖、武皇帝。諱は裕、字は徳輿、小字は寄奴。彭城県綏輿里の人であり、姓は劉氏。漢の楚元王劉交の21代下の子孫である。彭城は楚国の治所であったため、その苗裔の家ということとしたのであろう。東晋が立つと、劉氏は晋陵郡丹徒の京口に移居した。祖父は劉靖、晋の東安太守である。父は劉翹、字は顕宗。郡功曹で終わった。劉裕は晋の哀帝の興寧元(363)年、三月壬寅の夜に生まれた。産まれたときには神光が室内をことごとく照らし出し、その夕刻には甘露が先祖の墓のそばの木に降った。成長すると雄大にして豪壮、器も広く、身長は7尺6寸、人並み外れた体格をし、細々とした礼儀作法にこだわらなかったが、継母には孝を尽くすことで知られた。
嘗游京口竹林寺,獨臥講堂前,上有五色龍章,眾僧見之,驚以白帝,帝獨喜曰:「上人無妄言。」皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿、丹徒間有天子氣者也。時有孔恭者,妙善占墓,帝嘗與經墓,欺之曰:「此墓何如?」孔恭曰:「非常地也。」帝由是益自負。行止時見二小龍附翼,樵漁山澤,同侶或亦覩焉。及貴,龍形更大。 
かつて劉裕が京口の竹林寺に出向き、ひとり講堂の前で寝そべっていたところ、その上に5色の龍章が浮かんだという。僧たちはそれを見て劉裕に伝えたところ、劉裕は喜び、「ご坊らの言葉は妄言にはならんぞ」と答えた。
劉裕の父の墓は丹徒の候山にあり、そこは秦の時代に「曲阿と丹徒の間に天子の気あり」と語られた地であった。孔恭という墓相占いを得意とするものがおり、かつて劉裕は、孔恭とともに墓に赴き、あえて他人の墓のふりをし「この墓はどんな感じだろうな?」と尋ねた。孔恭は答える。「非常の地です」これを聞き、劉裕はますます自負心をつのらせた。
またある時などは、出先で2体の翼が生えた小さな龍が山や沢で狩りに勤しんでいるのを見た。これは劉裕の同伴者もしっかりと見届けたと言う。この龍は劉裕が貴顕となるに従い、大きくなっていった。
帝素貧,時人莫能知,唯琅邪王謐獨深敬焉。帝嘗負刁逵社錢三萬,經時無以還,被逵執,謐密以己錢代償,由是得釋。後伐荻新洲,見大蛇長數丈,射之,傷。明日復至洲,裏聞有杵臼聲,往覘之,見童子數人皆青衣,於榛中擣藥。問其故,答曰:「我王為劉寄奴所射,合散傅之。」帝曰:「王神何不殺之?」答曰:「劉寄奴王者不死,不可殺。」帝叱之,皆散,仍收藥而反。又經客下邳逆旅,會一沙門謂帝曰:「江表當亂,安之者,其在君乎。」帝先患手創,積年不愈,沙門有一黃藥,因留與帝,既而忽亡,帝以黃散傅之,其創一傅而愈。寶其餘及所得童子藥,每遇金創,傅之並驗。 
劉裕はもともと貧しく、当時の人間で知るものもあまりいなかったのだが、琅邪の王謐のみが深い敬意をもって接していた。かつて劉裕が刁逵より社銭30000銭の借金を負い、いくら経てど返す当てを作れなかったため捕まったことがあった。このとき王謐はひそかに自身の身銭にて借金を返済し、劉裕の身柄を解放させた。
のちに新洲にハギを刈りに出たとき、数丈もの長さの大蛇に出くわしたため、弓にて射て傷をつけた。翌日に改めて新洲に出ると、裏手の方で臼を杵で撞く音が聞こえてくる。劉裕が近寄り、覗いてみると、そこでは青い衣を着た童子数人が、ハシバミの木のたもとで薬を作っていた。劉裕が姿を表し、何をしているのかと尋ねると、童子らは答える。
「我が王が劉寄奴に射られたので、塗り薬を作っているところなのだ」
「王とやらはどうしてそいつを殺さんのだ?」
「劉寄奴は王者たるさだめ、殺そうとしても殺せんのだ」
ここまでを聞くと劉裕は童子らを怒鳴りつけて追い払い、作っていた薬を手に入れ、帰宅した。
またあるときに下邳に旅行した帰り道、ひとりの僧と出会った。僧は言う。
「長江周辺が、まもなく争乱に陥ろう。それを安んぜられるのはきっとあなた様であろう」
この頃劉裕は長らくの戦傷に悩まされていた。僧は持っていた黄色い薬を劉裕に譲ると、たちどころに消え失せる。劉裕が傷口に薬を塗ると、ひと塗りで傷が癒えた。劉裕はその黄色い薬と童子たちから得た薬を宝として抱え、その後戦傷を負うたびにその薬を塗れば、毎度薬はその効果を発揮した。
初為冠軍孫無終司馬。晉隆安三年十一月,祅賊孫恩作亂於會稽,朝廷遣衞將軍謝琰、前將軍劉牢之東討。牢之請帝參府軍事,命與數十人覘賊,遇賊眾數千,帝便與戰,所將人多死,而帝奮長刀,所殺傷甚眾。牢之子敬宣疑帝為賊所困,乃輕騎尋之;既而眾騎並至,遂平山陰,恩遁入海。 
はじめ、冠軍将軍孫無終の司馬となった。晋の隆安三(399)年十一月、五斗米道の教主、孫恩が会稽にて乱を起こしたため、朝廷は衛将軍謝琰、前将軍劉牢之を派出、討伐に向かわせた。劉牢之は劉裕に請い、参軍として引き入れた。数十人にて敵軍の偵察を命じられたところ、数千ほどの軍に遭遇した。劉裕はすぐさま敵軍と戦ったが、多くのものが戦死した。それでも劉裕は長刀を振るい、多くの敵を斬った。劉牢之の子の劉敬宣は劉裕が敵襲にあっているのではないかと疑い、軽騎にて駆けつけた。ここに多くの騎兵たちも駆けつけたため会稽の山陰県は平定され、孫恩は海に逃れた。
五年春,恩頻攻句章,帝屢破之,恩復入海。三月,恩北出海鹽,帝築城于故海鹽,賊日來攻城,城內兵少,帝乃選敢死士擊走之。時雖連勝,帝深慮眾寡不敵,乃一夜偃旗示以羸弱,觀其懈,乃奮擊,大破之。恩知城不可下,進向滬瀆,帝棄城追之。海鹽令鮑陋遣子嗣之以吳兵一千為前驅,帝以吳人不習戰,命之在後,不從。是夜帝多設奇兵,兼置旗鼓,明日戰,伏發,賊退,嗣之追奔陷沒。帝且退且戰,麾下死傷將盡,乃至向處止,令左右解取死人衣以示暇。賊疑尚有伏,乃引去。六月,恩浮海至丹徒,帝兼行與俱至,奔擊大破之。恩至建鄴,知朝廷有備,遂走鬱洲。八月,晉帝以帝為下邳太守。帝又追恩至鬱洲及海鹽,頻破之。恩自是飢饉,奔臨海。 
隆安五(401)年春、孫恩はしきりに句章を攻撃するも、劉裕がのきなみ跳ね返す。孫恩はふたたび海に逃れた。三月、孫恩は北の海塩城に出た。劉裕は以前に海塩城があった箇所に砦を築いた。日々五斗米道軍が襲いかかってくるも、城内の兵は少ない。劉裕は決死隊を編んで攻撃を仕掛け、ついに敵を退かせた。しかし連勝こそするものの衆寡敵せずである。そこである夜に旗を隠して弱り切ったものを前面に出し、敵から油断を引き出し、そこに総攻撃を仕掛け大破した。孫恩は海塩を落とせないと判断し、さらに北の滬瀆に向かった。劉裕も砦を放棄し追った。海塩令の鮑陋は子の鮑嗣之に呉の兵1000を与え先鋒にさせた。劉裕は呉人が戦に慣れていないことを理由に後方に展開するよう命じたが、聞かなかった。夜に劉裕は多くの箇所に伏兵を配し、それぞれに太鼓と旗を持たせた。翌朝に戦いが始まったところで伏兵に立ち上がらせたところ五斗米道軍は撤退した。鮑嗣之が追撃をかけたところ返り討ちとなった。劉裕は戦っては引きを繰り返したが、率いていた兵はほとんどが傷つき、倒れてしまった。そこで初めに戦ったところにまで一気に引き返し、左右のものに死体の装備を解除させ、暇をしているよう見せかけさせた。五斗米道軍は罠を警戒し、引き返した。六月、孫恩は海から長江に入り京口を襲撃した。劉裕は全速力で取って返し、孫恩らを強襲して大破した。孫恩は建鄴に向かったが、すでに守りが固められていたのを見て取り、鬱洲に逃れた。八月、晋の安帝は劉裕を下邳太守とした。劉裕は孫恩を追って鬱洲や海塩にてさらに大破。この頃ともなると孫恩は兵糧不足に喘ぎ、臨海まで逃れた。
元興元年,荊州刺史桓玄舉兵東下,驃騎將軍司馬元顯遣牢之拒之,帝又參其軍事。玄至,帝請擊之,牢之不許,乃遣子敬宣詣玄請和。帝與東海何無忌並固諫,不從。玄剋建鄴,以牢之為會稽內史。牢之懼,招帝於廣陵舉兵,帝曰:「人情去矣,廣陵亦豈可得之?」牢之竟縊于新洲。何無忌謂帝曰:「我將何之?」帝曰:「可隨我還京口。玄必守臣節,當與卿事之;不然,與卿圖之。」 
元興元(402)年一月、荊州刺史桓玄が挙兵し長江を東に下った。驃騎将軍司馬元顕は劉牢之を派遣し防ごうと考えた。劉裕も参戦した。劉裕は攻撃許可を求めたが受け入れられず、それどころか劉牢之は息子の劉敬宣を派遣し桓玄と講和した。劉裕と東海の何無忌が懸命にそれを諌めたが、従わなかった。桓玄は建鄴を落とすと、劉牢之を会稽内史とした。劉牢之はようやく桓玄の意図に気付き、劉裕を広陵での挙兵に誘った。劉裕は言う。
「すでに兵たちの心はみな離れております。これでは広陵すら獲得できるはずもございませぬ」
劉牢之はついに新洲にて首をくくった。何無忌が劉裕に尋ねる。
「私はどうしたらよいのだろう」
「一緒に京口に帰るべきだろう。桓玄がもし臣節を貫くというのであればともに仕えていればよく、そうでなかったらともに打倒を計画すればよい」
桓玄が従兄弟の桓修を撫軍将軍として京口に配属させると、劉裕は桓修の中兵参軍として取り立てられた。
孫恩は敗走の果てに、捕まるのを恐れ、臨海で海に身を投げて死んだ。残された者たちは孫恩の妹の婿である盧循を主として推戴した。桓玄は劉裕に鎮圧を命じた。
十二月,桓玄篡位,遷晉帝於尋陽。桓脩入朝,帝從至建鄴,玄見帝,謂司徒王謐曰:「昨見劉裕,風骨不恒,蓋人傑也。」每游集,贈賜甚厚。玄妻劉氏,尚書令耽之女也,聰明有智鑒,嘗見帝,因謂玄曰:「劉裕龍行虎步,視瞻不凡,恐必不為人下,宜早為其所。」玄曰:「我方平蕩中原,非裕莫可,待關、隴平定,然後議之。」 
脩尋還京口,帝託以金創疾動,不堪步從,乃與無忌同船共還,建興復計,及弟道規、沛國劉毅、平昌孟昶、任城魏詠之、高平檀憑之、琅邪諸葛長人、太原王元、隴西辛扈興、東莞童厚之,並同義謀。時桓脩弟弘為青州刺史,鎮廣陵,道規為弘中兵參軍,昶為州主簿,乃令毅就昶謀共襲弘。長人為豫州刺史刁逵左軍府參軍,謀據歷陽相應,元、厚之謀於建鄴攻玄,剋期齊發。 
元興二(403)年、盧循は永嘉へと逃れたが劉裕は追撃の手を緩めず、更に破った。六月、劉裕には彭城内史の地位が加えられた。
十二月、ついに桓玄は簒奪をなし、安帝を尋陽へと遷した。桓修が入朝すると、劉裕は桓修に従って建鄴に入った。桓玄は劉裕を見ると、司徒の王謐に言う。
「昨日劉裕を見たのだが、いかにも只者でない風貌であった。きっと人傑とはあのような者の事を言うのだろうな」
後日宴会やらで劉裕が招集されたとき、種々の贈り物について膨大な量に上った。桓玄の妻は尚書令劉耽の娘であった。聡明であり観察眼にも優れていた。そんな彼女が劉裕を見るなり、桓玄に言う。
「劉裕はまさしく龍虎の歩むがごときが存在、目つきからしてただ者ではなく、およそ人の下につくとは思えません。早めに動かれたほうがよいのでは?」
桓玄は答える。
「わしは中原も平定したいのだ。劉裕なしではなしえまい。関中の平定がなってからそのことは考ればよい」
桓修が京口へと戻った。劉裕は古傷が痛み出し、桓修に付き従うのが難しいと偽り、何無忌とともに舟で戻り、晋室復興の計画を立ち上げた。この計画には劉裕の弟の劉道規、沛郡の劉毅、平昌の孟昶、任城の魏詠之、高平の檀憑之、琅邪の諸葛長民、太原の王睿、隴西の辛扈興、東莞の童厚之らが参画した。この当時、桓修の弟の桓弘が青州刺史として広陵に赴任していた。そこには劉道規が中兵参軍として、孟昶が州主簿としてそれぞれ幕僚に加わっていた。劉裕は劉毅に命じて孟昶とひそかに連絡を取らせ、桓弘を倒すよう申し伝えた。諸葛長民は豫州刺史刁逵の左軍府参軍となっていたので、暦陽で呼応させる事にした。王睿および童厚之は建康で兵を集め、桓玄を攻めさせるようにした。そしてこれらの挙兵が一斉に起こるよう示し合わせるのだった。
三年二月乙卯,帝託游獵,與無忌、詠之、憑之,毅從弟藩,憑之從子韶、祗、隆、道濟,昶族弟懷玉等,集義徒凡二十七人,願從者百餘人。丙辰,候城門開,無忌等義徒服傳詔服,稱詔居前,義眾馳入齊叫,吏士驚散,即斬脩以徇。帝哭之甚慟,厚加斂卹。昶勸弘其日出獵,未明,開門出獵人,昶、道規、毅等率壯士五六十人,因開門直入。弘方噉粥,即斬之,因收眾濟江。 
元興三(404)年二月乙卯の日、劉裕は狩猟に出かける振りをして何無忌、魏詠之、檀憑之、劉毅の従兄弟の劉藩、檀韶、檀祗、檀隆、檀道済の4兄弟、孟昶のはとこ孟懐玉らなど27人の義徒と、兵士たち100人強を結集した。丙辰に京口城に詣でると、城の門が開く。何無忌ら義徒はみな朝服を身にまとい勅使のそぶりをしていた。城内に入ると一斉に駆け出し、鬨の声をあげた。京口の官吏らは驚き逃げ散り、たちまち桓修の首級を挙げた。劉裕は桓修のために慟哭し、その遺体を手厚く葬ることにした。同日広陵では、孟昶が桓弘に猟に出かけてはどうかと勧めていた。そこで桓弘はその日の未明に門を開け放ち、先に勢子らを出発させた。その空いた門に向け、孟昶、劉道規、劉毅らの率いる50から60名ほどの兵士たちが直ちに府の内部へと入り込んだ。桓弘はそのとき粥を啜っており、抵抗する暇もなく斬られた。その後孟昶達は手勢を引き連れて長江を渡った。
劉裕らが京口の城を落とすと桓修の司馬である刁弘が文官や武官、佐吏などを連れてやって来た。劉裕は城壁から刁弘らを睥睨し、言う。
「すでに天子は郭昶之殿に助けられ、いま尋陽より戻られつつある。我らはみな密かに天子よりの勅を賜り、逆賊どもを打ち果たさんとこの場にやって来た者だ。逆臣桓玄の首ももはや港にて晒し者となっている。諸君らは晋の臣ではなかったはずだな?」
刁弘らはこの空言を信じ込み退散した。劉毅らがはせ参じると、劉裕は直ちに刁弘らを誅滅するよう命じた。
毅兄邁先在建鄴,事未發數日,帝遣同謀周安穆報之,使為內應。邁甚懼,安穆慮事發,馳歸。時玄以邁為竟陵太守,邁便下船,欲之郡。是夜玄與邁書曰:「北府人情云何?卿近見劉裕何所道?」邁謂玄已知其謀,晨起白之。玄驚,封邁為重安侯,又以不執安穆故殺之,誅元、扈興、厚之等。乃遣頓丘太守吳甫之、右衞將軍皇甫敷北拒義軍。 
劉毅の兄劉邁が建鄴にいた。義軍が立つ数日前、劉裕は同志の周安穆にこのことを伝え、内応するよう働きかけさせた。劉邁は激しく恐懼した。周安穆は露見を恐れ馳せ帰った。その頃桓玄は劉邁を竟陵太守に任じようと考えていたのだが、劉邁は船にて故郷に戻りたい、と考えていた。その夜に桓玄よりの書状が届く。
「北府の様子はどのようであろうか。そう言えば、どこかで劉裕が何を語っていたか聞き及んでいるか?」
この書面から、劉邁は桓玄が既にこの謀事に気付いてるのだと思い込み、翌朝には桓玄にすべてを打ち明けてしまった。桓玄は驚愕したが、密告の功から劉邁を重安侯に封じた。しかし周安穆を捕えることができず逃がしてしまったことを知り、すぐさま劉邁を殺した。合わせて王睿・辛扈興・童厚之も殺し、頓丘太守の呉甫之、右衛将軍の皇甫敷を義軍の迎撃に向かわせた。
先是,帝造游擊將軍何澹之,左右見帝光曜滿室,以告澹之,澹之以白玄,玄不以為意,至是,聞義兵起,甚懼。或曰:「裕等甚弱,陛下何慮之深?」玄曰:「劉裕足為一世之雄,劉毅家無儋石之儲,摴蒱一擲百萬,何無忌,劉牢之之外甥,酷似其舅,共舉大事,何謂無成。」時眾推帝為盟主,以孟昶為長史,總後事,檀憑之為司馬,百姓願從者千餘人。軍次竹里,移檄都下曰: 
夫成敗相因,理不常泰,狡焉肆虐,或遇聖明。自我大晉,屢遘陽九,隆安以來,皇家多故,貞良弊於犲狼,忠臣碎於虎口。逆臣桓玄敢肆陵慢,阻兵荊郢,肆暴都邑,天未忘難,凶力實繁,踰年之間,遂傾皇祚。主上播越,流幸非所,神器沈辱,七廟毀墜,雖夏后之離浞、豷,有漢之遭莽、卓,方之於茲,未足為喻。自玄篡逆,于今歷載,彌年亢旱,人不聊生,士庶疲於轉輸,文武困於板築,室家分析,父子乖離,豈惟大東有杼軸之悲,摽梅有頃筐之怨而已哉!仰觀天文,俯察人事,此而可存,孰有可亡!凡在有心,誰不扼腕。裕等所以叩心泣血,不遑啟處者也。 
是故夕寐宵興,搜奬忠烈,潛構崎嶇,過於履虎,乘機奮發,義不圖全。輔國將軍劉毅、廣武將軍何無忌、鎮北主簿孟昶、兗州主簿魏詠之、寧遠將軍劉道規、龍驤參軍劉藩、振威將軍檀憑之等,忠烈斷金,精貫白日,荷戈俟奮,志在畢命。益州刺史毛璩,萬里齊契,掃定荊楚。江州刺史郭昶之奉迎主上,宮于尋陽。鎮北參軍王元等並率部曲,保據石頭。揚武將軍諸葛長人收集義士,已據歷陽。征虜參軍庾賾之等潛相連結,以為內應。同力協契,所在蠭起,即日斬偽徐州刺史安成王脩、青州刺史弘。義眾既集,文武爭先,咸謂不有一統,則事無以輯。裕辭不獲命,遂總軍要,庶上憑祖宗之靈,下罄義夫之節,翦馘逋逆,蕩清京華。公侯諸君,或世樹忠貞,或身荷爵寵,而並俛眉猾豎,無由自效,顧瞻周道,寧不弔乎!今日之舉,良其會也。裕以虛薄,才非古人,受任於既頹之運,接勢於已替之機,丹誠未宣,感慨憤激。望霄漢以永懷,眄山川以痂福づ袍之日,神馳賊庭。 
以前、劉裕が遊撃将軍の何澹之のもとに訪問した。このとき側仕えたちは、劉裕がやってくるなり室内が光に満ちたのを目撃した。側仕えがそれを何澹之に伝えると、何澹之もまた桓玄に伝えた。このとき桓玄は特に何も感じなかったのだが、いざ挙兵の話を聞くとそのことを思い出し、大いに恐れるのだった。あるものが問う。
「劉裕どもの手勢ははなはだ弱くございます。陛下はなぜそうも恐れられるのですか?」
「劉裕は一世の雄と呼ぶに足る男、劉毅は家財もまともに持たぬのに平然と博打で100万銭もの財貨を投じることのできる度胸を持った男。そして何無忌は劉牢之の甥だが、その才覚はひどく叔父譲りである。これらが共に立ち上がったのだ、どうしてなし遂げられぬなどと言うことがあるのだ」
義徒らは劉裕を盟主とし、孟昶を長史として後事を任せ、檀憑之を司馬とした。人々のうち付き従わんと願い出たものは千人あまりであった。
劉裕らは竹裏に至ると、檄文を各地に飛ばした。
「治と乱とは互いを原因とする。世の理として、安定を保つのは難しいものである。狡き者も、ある時は悪として扱われるが、ある時は聖明として扱われもする。我らが大いなる晋国においても陽九がしばしば生じ、今上の陛下がお立ちになってのち、朝廷は司馬道子・元顕により良き者は豺狼のごとき者がらに虐げられ、忠臣は虎口に噛み砕かれてきた。逆臣桓玄は祖先の霊を虐げ、荊州は郢の都に集めた兵力により、建康を荒らして回った。天はいまだ亡び去ってこそおらぬが、凶力は繁興し、そして年が明ければ、遂には簒奪の大逆がなされた。帝は辺鄙な地へと追いやられ、神器の権威は失墜し、皇室の御霊屋は打ち壊された。夏の時代には寒浞やその息子の豷が、漢の時代には王莽や董卓があらわれたものだが、こたびの悪事たるや、これらと比してもまだ足りるものではない。
桓玄の纂逆以降、旱魃がうち続き、民からは生気が失われている。しかも度重なる土木工事にて士庶は疲弊し、文武百官は宮殿建造に苦しめられ、本家分家も結束を断たれ、父と子は離れ離れとなった。このような悲劇、大東に言う杼軸の悲、摽梅に言う傾筐の怨と比喩するのすらなお生温いではないか。天文を仰ぎ見、人事を俯して眺めれば、ここまでは誰もが耐え忍んでこそいるものの、いずれの衰亡は免れ得まい。およそ心あるものであれば、誰もが扼腕せずにおれぬ。我々は叩心泣血し、心やすらう事もなかった。ゆえに宵闇に紛れて忠烈の徒を支援し、伏して大過をしのぎ、いざという時に動けるまで、ことが漏れぬよう慎重に計画を進めた。
輔国将軍の劉毅、広武将軍の何無忌、鎮北主簿の孟昶、兗州主簿の魏詠之、寧遠将軍の劉道規、龍驤参軍の劉藩、振威将軍の檀憑之。彼らの壮烈なる忠義心は鉄をも断ち、その気力は太陽にまで届き、戈を担い袖を振るい、命尽きてもこの志を果たす覚悟である。益州刺史の毛璩は万里を駆け諸士を結び付け、荊楚を掃定した。江州刺史の郭昶之は陛下をお迎えし、尋陽に匿った。鎮北参軍の王睿らは部曲を率い、石頭城を占拠。揚武将軍の諸葛長民は義士を集め、暦陽を奪還した。征虜参軍の庾賾之らは水面下にて相結び、内応の手助けをした。
皆々が協力し合い、己の持ち場にて蜂起し、速やかに徐州刺史・安城王を偽称した桓修、青州刺史を偽称した桓弘の首を斬った。ここに義の徒は集まり、文武が先を争っている。とは言えここに確かな旗印がなければ、ことをなし遂げられないのではないか、と不安に思う者も多かろう。ゆえにこの劉裕が畏れ多くも、此度の義挙を取りまとめる運びとなった。どうか上には祖宗の霊が下には義夫の力が加わることにより、逆徒を討ち取り、都を、陛下の御座を掃き清め果さんことを。
公侯諸君! 忠貞を示すもよし、立身出世の機会にするでも、また物事の道理を弁えぬ愚か者を誅したい、というのでも構わぬ。衰微した周の歴史にこの晋が倣うのは、あまりにも悲しきことではないか! 今日の蜂起は、諸君らが銘々に抱えた志を果たす好機でもある。劉裕は非力で、古人のような才覚は持ち合わせておらぬが、いまこうして晋朝の危地を救う任を果たすべく、義挙の機運を高めた諸君の前に立った。大いなる天のお心は未だ明らかとなってはおらぬ。なれど晋の復興の思いを胸に抱き勇躍し、天の川を仰いではその思いを新たとし、山や川に臨んでは心火を激しく燃やすのである。この檄を見た神は馳せ、賊を追い落とすこととなろう」
三月戊午,遇吳甫之於江乘,帝躬執長刀,大呼,即斬甫之。進至羅落橋,遇皇甫敷,檀憑之戰敗,死之,眾退,帝進戰彌辧に斬敷首。初,帝建大謀,有工相者相帝與無忌等近當大貴,惟云憑之無相。至是,憑之戰死,帝知其事必捷。 
玄聞敷等沒,使桓謙屯東陵口,卞範之屯覆舟山西。己未,義軍進至覆舟東,張疑兵,以油帔冠諸樹,布滿山谷。帝先馳之,將士皆殊死戰,無不一當百,呼聲動天地。因風縱火,煙焰張天,謙等大敗。玄始雖遣軍,而走意已決,別遣領軍殷仲文具舟石頭,聞謙敗,輕船南逸。 
庚申,帝鎮石頭城,立留臺百官,焚桓溫主於宣陽門外,造晉新主於太廟。遣諸將追玄,命尚書王嘏率百官奉迎乘輿。司徒王謐與眾議推帝領揚州,帝固辭,乃以謐為錄尚書事、領揚州刺史,帝為鎮軍將軍、都督八州諸軍事、徐州刺史、領軍將軍。 
三月戊午の日、江乗で呉甫之と遭遇した。劉裕は手ずから長刀を取り、咆哮とともに呉甫之を斬った。羅落橋に進めば、皇甫敷と遭遇した。この会戦にて檀憑之が戦死するや、その手勢が敗走した。一方劉裕はますます奮戦進撃し、皇甫敷の首を取った。これより以前、劉裕と何無忌らが計画を練っていた時、よく当たると評判の占い師が劉裕と何無忌の栄達を見たが、檀憑之については何も見えない、と言った。そして檀憑之が戦死するに及び、劉裕はこの戦いの勝利を確信した。
桓玄は皇甫敷らが倒されたと聞き、桓謙を東陵口に、また卞範之を覆舟山の西に配した。己未の日の朝、劉裕らは覆舟山の東に進軍し、幾人かの兵士を派遣、覆舟山のそこかしこに旗を掲げさせ、疑兵となした。また木々に油をかけ、山谷を布で覆った。劉裕が兵の先頭に立って突撃したため、将兵かかわらず皆この戦いを死戦とみなし、誰もがひとりで100もの敵をも打ち倒さんほど、その咆哮は天地をも揺るがしかねないほどのものとなった。さらに風に乗じ放火、その煙は天を覆い、桓謙らは大敗した。桓玄は軍を派遣したとは言っても、すでに逃走するつもりでいた。殷仲文に別口で石頭城にて船を用意させ、桓謙が敗れたと聞くと軽船にて長江に脱出した。
庚申の日、劉裕は石頭城入りし、留台官100人を選びだした。また桓温の神主を宣陽門の外で燃やし、晋帝らの神主を新たに用意し、太廟に収めた。諸将に桓玄を追わせ、あわせて尚書の王嘏に百官を率い安帝を迎えさせるべく出立させた。司徒の王謐は他の官吏らと協議し、劉裕に揚州刺史を兼務させようとしたが、劉裕は固辞し、王謐を録尚書事・領揚州刺史とさせた。劉裕は鎮軍将軍・都督八州諸軍事・徐州刺史・領軍将軍となった。
初,晉陵人韋叟善相術,桓脩令相帝當得州不,叟曰:「當得邊州刺史。」退而私於帝曰:「君相貴不可言。」帝笑曰:「若中,當相用為司馬。」至是,叟詣帝曰:「成王不負桐葉之信,公亦應不忘司馬之言。今不敢希鎮軍司馬,願得領軍佐。」於是用焉。 
これより以前、人相見に長けた晋陵人の韋叟に、桓修が劉裕の人相を占わせ、州刺史になれるかどうかを尋ねた。すると韋叟が答える。
「まあ、辺境の州の刺史程度でしょう」
桓修の前から退ると、韋叟はこっそりと劉裕に言う。
「貴方様の相の貴さは、正直言い表せませぬ」
劉裕が笑う。
「もし当たったら、司馬にでも取り立てさせていただこうか」
果たして劉裕が貴顕となると、韋叟は劉裕に訪問し、言う。
「成王は桐葉の信に背かれませんでした、公もよもや、司馬の言をお忘れになっておられますまいな? とはいえ鎮軍の司馬になぞなりとうもございませぬ、領軍の佐として頂けませぬか」
その発言に応え、劉裕も韋叟を採用した。
諸葛長民は挙兵する機会を逸し、刁逵に捕えられていた。ただし刑場に送り込まれる前に、桓玄が敗北したため解放されている。
桓玄が尋陽に到着したとき、江州刺史の郭昶之が安帝の乗る輿や仏具などを援助した。ところで、荊州刺史の王綏は江左の名門で、かつ桓玄の甥に当たった。劉裕の家門が低いことを理由に、しばしば侮辱を加えてきていたので、劉裕は今後どのような良からぬことを企むとも限らないと、父の王愉ともども殺した。
四月戊子,奉武陵王遵為大將軍,承制,大赦,惟桓玄一祖後不免。桓玄之篡,王謐佐命,手解安帝璽紱。及義旗建,眾謂謐宜誅,惟帝素謐,保持之。劉毅嘗因朝會,問謐璽紱所在,謐益懼。及王愉父子誅,謐從弟邂硅轉:「王駒無罪而誅,此是翦除勝己,兄既桓氏黨附,求免得乎?」駒,愉小字也。謐懼,奔曲阿。帝牋白大將軍迎還,復其位。 
四月、武陵王の司馬遵が大将軍となり、安帝復帰までの代任となった。大赦が下されたが、桓玄と祖父を同じくするものについての罪は免ぜられなかった。
桓玄がまさに簒奪をせん、と言うときのこと、王謐はその手で安帝から印璽を抜き取り、それによって左命功臣と位置付けられた。劉裕らが決起に成功したことにより、人々はみな王謐にも死が下されるべきであると考えていたが、劉裕は元々王謐の人徳を確信していたため、その地位を保ち置かせていた。しかし、劉毅が朝会にて王謐に印璽のありかを尋ねたため、王謐の恐れは募った。そこに加えて、王愉父子の処断である。王謐のいとこ王遒聾世Α
「王愉は無罪だと言うのに誅された。これは劉裕が自身の名望に勝るものたちを剪定せんと目論んでいるのだ。兄上はもとより桓氏の手勢、果たして赦免を求め、得られるものなのだろうか?」
王謐は恐れ、曲阿へと逃亡した。劉裕が書面にて司馬遵に王謐の地位を保ちおくよう頼み込んだため、最終的には復位した。
桓玄は安帝を拉致し江陵まで逃れたあと、体勢を立て直して長江を下り、劉毅、何無忌、劉道規らと崢洲にて向き合うも、大敗した。桓玄のシンパであった殷仲文も桓玄を見限り、何皇后と王皇后を奉じ、東晋に降伏した。桓玄は安帝を引き連れ江陵にまで戻ったが、安帝を捨て、更に江陵からも脱出した。このため南郡太守の王騰之や荊州別駕の王康産は、安帝を奉じ南郡府にて安帝の帝位復帰を演出した。
初,益州刺史毛璩遣從孫祐之與參軍費恬送弟喪下州,璩弟子脩之時為玄屯騎校尉,誘玄入蜀,至枚回洲,恬與祐之迎射之,益州督護馮遷斬玄,傳首建鄴。玄從子振逃於華容之涌中,招集逆黨,襲江陵城,騰之、康產皆被殺。桓謙先匿沮川,亦聚眾應振。為玄舉哀,立喪庭。謙率眾官奉璽綬于安帝。劉毅、何無忌進及桓振戰,敗績于靈谿。 
益州刺史の毛璩は従孫の毛祐之と参軍の費恬を、弟を葬るため荊州に派遣していた。毛璩の弟の子、毛修之はこのとき桓玄の屯騎校尉であり、桓玄を蜀に誘った。枚回洲に至ると、費恬と毛祐之が桓玄に弓矢を射かけた。益州督護の馮遷が桓玄を斬り、首を建康へ送った。桓玄の従子である桓振は華容の涌中に逃れていたが、手勢を集めて再起し、江陵城を強襲した。王騰之、王康産は殺された。桓謙は沮川に匿われていたが、桓振の挙兵に呼応した。桓玄の死を悼み、喪廷を建てた。桓謙は配下を伴い、安帝に璽綬を返還した。劉毅と何無忌が霊溪にて桓振と遭遇し、戦ったが敗北した。
十月、劉裕には青州刺史が与えられた。甲仗100人を引き連れての入殿が許された。
義熙元(405)年一月、劉毅は江津に進み、桓謙や桓振を破り、江陵を平定した。三月甲午、安帝は江陵より建康に到着。詔勅にて劉裕を侍中・車騎将軍・都督中外諸軍事・録尚書事にしたい、と打診した。劉裕は固譲し、京口に戻った。九月乙巳、兗州刺史が加えられた。
盧循が海伝いで広州を破り、広州刺史の呉隠之をとらえた。朝廷は盧循を広州刺史とし、郎党である徐道覆を始興相に任じた。
義熙二(406)年三月、劉裕は交州、広州の都督になった。十月、晋再興の功績が改めて論じられ、豫章郡公、食邑10000戸に封じられ、絹30000匹が下賜された。他の者にも功績に応じ封爵褒賞が下された。
超大將公孫五樓請斷大峴,堅壁清野以待,超不從。初謀是役,議者以為賊若嚴守大峴,軍無所資,何能自反?帝曰:「不然。鮮卑性貪,略不及遠,既幸其勝,且愛其穀,必將引我,且亦輕戰。師一入峴,吾何患焉。」及入峴,帝舉手指天曰:「吾事濟矣。」眾問其故,帝曰:「師既過險,士有必死之志,餘糧栖畝,軍無匱乏之憂,勝可必矣。」 
義熙五(409)五年二月、南燕の慕容超が淮北で大いに略奪を働いた。三月、劉裕は討伐を発表し、丹陽尹の孟昶に中軍府の留守を任せた。船にて淮水を経て泗水に入り、五月に下邳に至ると、船をとどめ、陸路にて琅邪に出た。通過した先々で砦を築き、守りを固めさせた。
南燕の大将、公孫五楼は慕容超に「大峴山を遮断し、堅壁清野にて待ち構えさせて欲しい」と請うたが、却下された。一方、劉裕がこの戦争の計略を練っていた時に「もし敵が大峴で守りを固めて、そこまでの道で兵糧を得られなかったらどのように帰還なさるのですか」と問うものがあった。劉裕は答えた。
「そのような事態にはならぬ。鮮卑どもは貪欲で、遠謀も持たぬ。過去の勝ちに溺れ、食糧を惜しみ、必ず我らを国内に引き込み、しかも迂闊に戦いを仕掛けてこよう。いったんこちらが大峴山を越えてしまえば、もはや俺は何も勝利に思い煩うまい」
劉裕は大峴山に入ると、天を指差し「吾が事済めり」と言った。兵らがその理由を問うと、劉裕は答えた。
「もはや背後には険しい山だ。我が兵には決死の思いが宿る。食糧にも十分な余裕があり、軍資の不足に思い煩うこともない。もはや勝利は確実である」
大軍分車四千兩為二翼,方軌徐行,車張幰,御者執矟,以騎為游軍,軍令嚴肅。比及臨朐,賊騎交至,帝命兗州刺史劉藩、幷州刺史劉道憐等陷其陣。日向昃,戰猶酣,帝用參軍胡藩策,襲剋臨朐,賊乃大奔。超遁還廣固,獲其玉璽、豹尾、輦等,送于都。丙子,剋廣固大城,超固其小城。乃設長圍以守之,館穀於青土,停江、淮轉輸。 
六月、慕容超は老人病人に広固城を任せ、賀刺盧と公孫五楼に南燕のほぼ全兵力で臨朐城を守らせた。さらに慕容超は城の南40里のところにある巨蔑水に公孫五楼を出向かせ、拠点を築かせようとした。しかしすでに龍驤将軍の孟龍符が確保していたため、公孫五楼はすぐさま退いた。
晋軍は4000両の車を両翼に配置していた。隊列を組んで進み、車には幌が張られ、御者は長柄の武器を携えていた。また軽騎兵が遊軍として周囲を警護していた。軍令は厳粛であった。臨朐近くで南燕の鉄騎が襲撃、交戦となった。劉裕は兗州刺史の劉藩、并州刺史の劉道憐らに命じ敵陣を粉砕させた。
日が暮れようとしても、まだ戦いは激しく続いた。そこで劉裕は参軍の胡藩の策を採用し臨朐城を直接攻撃の上陥落させた。南燕軍は大崩れし、逃亡した。慕容超は広固に籠城した。慕容超の馬、偽輦、玉璽、豹尾を手に入れたので、それらを建康に送った。
翌日晋軍は広固にまで進み、大城を落とした、慕容超は小城で守りを固めた。小城は城壁で守られていた。その城塞は青州の谷間に位置した。劉裕は長江、淮水域の輸送物資の流れを止めた。
七月,超尚書郎張綱乞師於姚興,自長安反,泰山太守申宣執送之。綱有巧思,先是,帝修攻具,城上人曰:「汝不得張綱,何能為也。」及至,升諸樓車以示之,城內莫不失色。超既求救不獲,綱反見虜,乃求稱藩,割大峴為界,獻馬千匹,不聽。 
時姚興遣使,聲言將涉淮左,帝謂曰:「爾報姚興,我定青州,將過函谷,虜能自送,今其時矣。」錄事參軍劉穆之遽入曰:「此言不足威敵,容能怒彼。若鮮卑未拔,西羌又至,公何以待之?」帝乃笑曰:「此兵機也,非子所及。羌若能救,不有先聲,是自強也。」***十月,張綱修攻具成,設飛樓縣梯,木幔板屋,冠以牛皮,弓矢無所用之。劉毅遣上黨太守趙恢以千餘人來援,帝夜潛遣軍會之。明旦,恢眾五千,方道而進,每晉使將到,輒復如之。 
七月、南燕の尚書郎の張綱を泰山太守の申宣がとらえ、劉裕の元に連行した。張綱は長安まで後秦の姚興に援軍を要請しに行った、その帰りであった。張綱には優れた技術力があり、これより前、劉裕が攻城兵器を組み立てていると、城の上より「張綱もいないのに、何ができるのだ!」と言われていた。そのため劉裕は楼車に張綱を上らせて城内に示した。城内で絶望しないものはなかった。慕容超は救援が得られなかった、どころか張綱が晋に寝返ったことを知り、劉裕に宛て称藩を願いたい、大峴山を境界とし、1000頭の馬を献上する、と言い出した。劉裕は却下した。
このとき姚興からの遣使が劉裕に「まさに淮水を渡ろうぞ」と声明をよこした。劉裕は使者に言った。
「貴様は姚興に伝えるがよい。俺は南燕を片付けたら、まさに函谷関を通過してやろうと考えている。胡族よ、その身柄をこちらによこすのであれば、確かに今がまさにその時だ、と」
録事参軍の劉穆之が慌てて劉裕のもとに駆けつけ、言う。
「そのご回答では敵を威圧しきれず、相手を怒らせるのみでありましょう! もし鮮卑も抜けぬうちに西羌にやってこられたら、公はいかにして迎撃なさるのです!」
劉裕は笑い、答える。
「これは戦場の機微、先生の理解の及ぶところではござらぬ。羌が救援を出せるのならば、先に声なぞあげませぬ。ただのハリボテなのですよ」
十月、張綱の攻城兵器が出来上がった。飛楼、木幔などの付属品類にも不備はなかった。上部に張られた牛皮により、弓矢も一切通さなかった。劉毅は上党太守の趙恢に1000人余りを率いさせ救援に駆けつけさせた。劉裕は夜に密かに兵を派出し趙恢に合流させた。翌朝、趙恢は合流した兵と合わせて合計5000名にて劉裕のもとに到着した。以降、晋からの増援がある度、劉裕は同じ手立てを取り続けた。
初,帝之北也,徐道覆勸盧循乘虛而出,循不從,道覆乃至番禺說循曰:「今日之機,萬不可失。若剋京都,劉公雖還,無能為也。」循從之。是月,寇南康、廬陵、豫章諸郡,郡守皆奔走。時帝將鎮下邳,進兵河、洛,及徵使至,即日班師。鎮南將軍何無忌與道覆戰,敗死於豫章,內外震駭,朝議欲奉乘輿北走。帝次山陽,聞敗,卷甲與數十人造江上徵問,知賊尚未至。 
義熙六(410)年二月丁亥、広固を陥落させた。慕容超は城壁を越え逃れようとしたが追いつかれ、捕まり、建康に送られて斬られた。王や公クラスについては殺され、10000あまりを奴隷として捕まえ、馬2000頭を得た。
劉裕が北に出ていた時、徐道覆は盧循にその虚を突くべきと説いていたが、盧循は従わなかった。そこで徐道覆は番禺に出向いて盧循に説く。
「今日の機を万が一にも逃すわけにはまいりません。建康さえ落としてしまえば、本拠地を失った劉裕に何ほどのことができましょう」
盧循はこの言葉に従った。二月に南康・盧陵・豫章の諸郡を襲撃。郡守はみな逃げ去った。このとき劉裕は下邳に滞在したのち洛陽や関中に軍を進めるつもりであったが、この急使を受けすぐさま引き返した。鎮南将軍の何無忌が徐道覆と戦い、豫章で敗死した。国内は震え上がった。朝廷では安帝を奉じて北方に逃れたい、と考えた。
劉裕は山陽に出たところで何無忌の敗死を聞き、鎧も脱ぎ捨て、数十人とともに長江を渡った。このときに人を呼び寄せて状況を問い、敵がまだ到着していないことを知った。四月の癸未の日、劉裕は建鄴に到着した。劉毅が南征を言い出した。劉裕は敵が勝ちに乗じ勢いを増していることから、各軍連携の上で進むべきとし、劉藩に止めさせたが、劉毅は従わなかった。
于時北師始還,傷痍未復,戰士纔數千,賊眾十餘萬,舳艫亘千里。孟昶、諸葛長人懼,欲擁天子過江,帝曰:「今兵士雖少,猶足一戰,若其剋濟,臣主同休;如其不然,不復能草間求活,吾計決矣。」初,帝征慕容超,惟孟昶勸行,丙辰,昶乃表天子,引罪,仰藥而死。 
五月の壬午の日、盧循は劉毅を桑落洲で破ったが、直後に劉裕の南燕平定からの帰還の報せが確定したのを知り、まわりと顔を見合わせ青ざめ、尋陽に戻って江陵を落とし、荊州江州を拠点として朝廷と戦うべきと考えた。しかし徐道覆は勝ちに乗じて長江を下るべきだ、と主張した。両者は10日ほど争議し、最終的には盧循が折れた。
このとき遠征軍もようやく帰還はしていたが、兵士らの怪我は癒やされておらず、戦えるものも数千程度であった。対する五斗米道軍の兵力は10万あまり、船団も1000里に渡る、とのことであった。孟昶や諸葛長民は恐れ、安帝を長江北岸に移送したい、と考えた。それに対し、劉裕が言う。
「今、兵士は少ないが、それでも一戦するには足る。もしここを乗り切れれば、臣下も人主も祝福を同じくできるのだ。たといここを乗り越えられなかったとして、どうして遠い草原に紛れ込んで生きながらえたいと思おうか。やる以外にないのだ」
かつて劉裕が慕容超を攻めようと考えたとき、孟昶のみが出陣すべきだ、と語っていた。丙辰の日、孟昶は上表し、罪を引き受けるとして薬を仰ぎ、死んだ。
時議者欲分兵屯守諸津,帝曰:「賊眾我寡,分其兵則人測虛實,一處失利,則沮三軍之心,若聚眾石頭,則眾力不分。」戊午,帝移鎮石城。乙丑,賊大至,帝曰:「賊若新亭直上,且將避之;若回泊蔡洲,成禽耳。」徐道覆欲自新亭焚舟而戰,循多疑少決,每求萬全,乃泊蔡洲以待軍潰。帝登石頭以望,見之,。庚辰,賊設伏於南岸,疑兵向白石。帝率劉毅、諸葛長人北拒焉,留參軍徐赤特戍查浦,戒令勿戰。帝既北,賊焚查浦而至張侯橋,赤特與戰,大敗,賊進屯丹陽郡。帝馳還石頭,斬徐赤特。解甲久之,乃出陣於南塘。七月庚申,循自蔡洲退,將還歸尋陽,帝遣輔國將軍王仲等追之。使建威將軍孫處自海道襲番禺,戒之曰:「我十二月必破祅寇,卿亦足至番禺,先傾其巢窟也。」 
兵を分け各川港を守らせるべきと提案する者があったが、劉裕は首を振る。
「敵は多く我らは少ない。下手に兵を分けて守りの虚実を見抜かれでもすれば、その1ヶ所の陥落より全軍の士気が沮喪しよう。いったん兵を石頭に集めておくべきである。今は兵力を分けてはならんのだ」
戊午の日、劉裕は石頭城入りした。乙丑の日、五斗米道軍が建康に大挙した。それを見て劉裕は言う。
「やつらがもし新亭をまっすぐ攻め進むなら、どうにかやり過ごすしかない。もし舳先を巡らせ蔡洲に停泊するなら、縛り上げられもしよう」
徐道覆は新亭から船を焼き払い上陸し戦いたいと思っていた。しかし盧循はああでもないこうでもないとこねくり回した末に決断ができない口であり、常に万全を求めてきた。このためいったん蔡洲に停泊し、東晋軍の自壊を待つべし、とした。劉裕は石頭城から五斗米道軍の動きを見て取り、喜んだ。
庚辰の日、五斗米道軍は南岸に伏兵を仕込んだ上で、陽動の兵を北の白石に向かわせた。劉裕は劉毅や諸葛長民を引き連れ防衛のため北に向かい、参軍の徐赤特に査浦を守らせ、決して応戦しないよう命じた。劉裕が北に出ると、五斗米道軍は査浦を焼き張侯橋にまで進み、徐赤特と戦った。徐赤特は大敗し、五斗米道軍は進軍し丹陽郡に陣取った。劉裕は石頭まで急ぎ戻ると、徐赤特を斬った。いったん兵の武装を解除させ休ませたのち、南塘に出陣した。
七月庚申の日、盧循は建康を諦め、蔡洲より退き、尋陽に戻ろうとした。劉裕は輔国将軍の王懿らに追撃させた。また建威将軍の孫処に海づたいで番禺を襲撃させるべく発した。劉裕は孫処に言っている。
「俺は十二月には奴らを破っているだろうし、そなたもまた番禺にたどり着けていることだろう。先にその巣窟を潰しておけるのだ」
十月,帝率舟師南伐,使劉毅監太尉留府。是月,徐道覆寇江陵,荊州刺史劉道規大破之,道覆走還湓口。十一月,孫處至番禺,剋其城,盧循父嘏奔始興,處撫其人以守。十二月己卯,大軍次大雷。庚辰,賊方江而下,帝躬提幡鼓,命眾軍齊力擊之,軍中多萬鈞神弩,所至莫不摧陷。帝自於中流蹙之,因風水之勢,賊艦悉薄西岸,岸上軍先備火具焚之,大敗。循還尋陽,遂走豫章,悉力柵左里。丙申,大軍次左里,將戰,帝麾之,麾竿折,幡沉于水,眾咸懼,帝笑曰:「昔覆舟之役亦如此,今勝必矣。」攻其柵,循單舸走,眾皆降。師旋,晉帝遣侍中黃門勞師于行所。 
十月、劉裕は水軍を率い南伐を開始した。劉毅に太尉府の留守を任せた。徐道覆は江陵を襲撃するも荊州刺史の劉道規によって大破され、湓口まで逃れ落ちた。十一月、孫処は番禺に至り、城を落とした。盧循の父の盧嘏は始興に逃れた。孫処は現地人を慰撫の上、城を守った。
十二月己卯の日、劉裕本軍は大雷池に至った。庚辰の日、五斗米道軍が劉裕軍を避け長江を下ろうとしたので、劉裕は自ら戦鼓を叩き旗を振り、軍に総攻撃を命じた。軍中には万鈞神弩が多く備えられており、射出した先で盧循軍に多くの損害を与えた。劉裕は船団に命じて盧循軍を追い詰め、水や風の流れによって五斗米道軍を西岸に押し込んだ。岸の上にはあらかじめ火計のための道具が揃えられており、大いに船団を焼き払った。盧循は尋陽に戻り、更に豫章にまで逃げ帰らんと、左里に総力で柵を設けた。丙申の日、劉裕軍が左里に到着し、まさに戦おうかというとき、劉裕の振る旗の柄が折れた。水に落ちた旗がそのまま沈む。凶兆なのでは、と皆が恐れたが、劉裕は笑って言う。
「覆舟山の戦いでも同じ事があった、つまり必ず勝つということだ」
柵を攻めると、盧循は単身逃れ、残された者はみな降伏した。劉裕が引き返すと、安帝は侍中や黄門を派遣し、各地で慰問した。
義熙七(411)年正月、劉裕は建康に帰還した。改めて大将軍・揚州牧および班剣20人の加増が打診され、元々の官職はそのまま保持する運びとなったが、すべて固辞した。南燕戦や五斗米道戦での戦没の爵位を並べて特進させた。遺体が戻ってきていないものもあったため、各隊の主将に命じ回収のうえそれぞれの家に引き渡させた。
二月、盧循は番禺にて孫処に破られた。盧循は残党をかき集め、更に南へ逃れた。劉藩と孟懐玉は徐道覆を始興で斬った。
晋が建康に逃れて以来、綱紀は大いに弛み、門閥貴族らが台頭し、多くの家族が流亡の憂き目に遭い、まともな産業もなせないありさまだった。桓玄はこのありさまを正そうとしたがなし得なかった。劉裕が晋国内で実権を握ってからはそのありさまが正され、多くの既得権益者から権勢を剥奪した。会稽郡余姚県の虞亮はこうして行き場を失った亡命者1000人余りを匿っていた。劉裕は虞亮を誅し、あわせて会稽内史の司馬休之を免職させた。
荊州刺史劉道規疾患,求歸,八年四月,改授豫州刺史,以豫州刺史劉毅代之。毅既有雄才大志,與帝俱興復晉室,自謂京城、廣陵功足相抗,雖權事推帝,而心不服也。厚自矜許,朝士素望者並多歸之,與尚書僕射謝混、丹陽尹郗僧施並深相結。及鎮江陵,豫州舊府多割以自隨,請僧施為南蠻校尉。帝知毅終為異端,心密圖之。毅至西,稱疾篤,表求從弟兗州刺史藩以為副貳,帝偽許焉。九月,藩入朝,帝命收藩及謝混,並賜死。自表討毅,又假黃鉞,率諸軍西征。以前鎮軍將軍司馬休之為平西將軍、荊州刺史,兗州刺史道憐鎮丹徒,豫州刺史諸葛長人監太尉留府事,加太尉司馬丹陽尹劉穆之建威將軍,配以實力。壬午,發建鄴,遣參軍王鎮惡、龍驤將軍蒯恩前襲江陵,剋之,毅及黨與皆伏誅。 
安帝は先日の昇進要請をふたたび持ち掛けたが、劉裕は固辞した。そこで太尉・中書監への昇進の打診が持ちかけられたので、受諾した。黄鉞を返却した。交州刺史の杜慧度が盧循を斬り、7つの首を箱に入れて建康に送った。
この当時、秀才や孝廉が形骸化し、推挙に見合う才持てるものが中央に挙げられなくなっていた。劉裕は安帝に上奏し、有名無実化していた策試を復活させた。
征西将軍・荊州刺史の劉道規が病を得、帰還を乞うてきた。このため義熙八(412)年四月、劉道規を豫州刺史とし、代任として豫州刺史の劉毅を派遣した。劉毅は雄才大志の持ち主であり、劉裕とともに桓玄打倒の軍を立ち上げ晋室を復興させるにあたり、自身が京口や広陵で挙げた功績は劉裕に並ぶものである、と自認していた。大権こそ劉裕に委ねていたものの、内心では不服を抱えていた。自らの才覚や功績に矜持も抱いていたので、朝廷では劉毅を主と仰ぐ者も多かった。尚書僕射の謝混、丹陽尹の郗僧施などはその代表格である。劉毅は江陵へ赴任する際、豫州府の官僚たちの多くを自隨させ、更には郗僧施を南蛮校尉の任につけるよう要請してきた。劉裕は劉毅が謀反を意図し始めたことに気づき、心密かに排除の計画を始めた。劉毅は江陵に到着すると病が篤くなったと称し、さらにいとこである兗州刺史の劉藩を補佐につけるよう申請してきた。劉裕は表向きこの申請を許可した。
九月に劉藩が入朝すると、劉藩と謝混を捕えて獄につなげ、共に殺した。そして劉毅征伐を表明した。仮黄鉞を拝領し、諸軍を率いて西征に出た。このとき、先の鎮軍将軍であった司馬休之を平西将軍・荊州刺史とし、兗州刺史の劉道憐を京口の守りに、豫州刺史の諸葛長民を太尉府の留守役に充てた。また太尉府には太尉司馬、丹陽尹の劉穆之もあわせて配置された。このとき劉穆之には建威将軍として実際の兵力も預けていた。壬午の日に建業を出立する際、参軍の王鎮悪、龍驤将軍の蒯恩を先行させて江陵を襲撃し、陥落させた。劉毅及び与党はみな誅された。
十一月己卯の日、劉裕は江陵に到着した。荊州のうち10郡を湘州として分割、劉裕がその監督に当たった。また西陽太守の朱齢石を益州刺史に任じ、蜀討伐の総帥とした。安帝は劉裕に太傅・揚州牧・羽葆鼓吹と班剣20人の加増を諮った。
九年二月乙丑,帝至自江陵。初,諸葛長人貪淫驕圈つ每優容之。劉毅既誅,長人謂所親曰:「昔年醢彭越,今年殺韓信,禍其至矣。」將謀作亂。帝剋期至都,而每淹留不進。公卿以下,頻日奉候於新亭,長人亦驟出。既而帝輕舟密至,已還東府矣。長人到門,引前,却人閑語,凡平生言所不盡者,皆與及之,長人甚。帝已密命左右丁旿自幔後出,於坐拉焉,死於牀側。輿屍付廷尉,幷誅其弟黎人。旿驍勇有力,時人語曰,「勿跋扈,付丁旿」。 
義熙九(413)年二月乙丑の日、劉裕は江陵から建康に戻った。ところでこの頃、諸葛長民は貪淫驕横の限りを尽くしていたが、劉裕は特別に見逃していた。劉毅が滅ぼされたことにより、諸葛長民は近親者に漏らしていた。
「昔は彭越が塩漬けにされ、今年には韓信が誅された。次は俺の番か」
そして乱の計画を練った。劉裕は建康帰還の日にちを定めていたのだが、長江の流れに阻まれてうまく進むことができなかった。朝廷高官らは毎日新亭の港に出向いていた。諸葛長民もまたしばしば出向いていた。そうこうする間に劉裕は軽船を駆って、内密に東府城に帰還していた。諸葛長民は慌てて東府城に向かった。劉裕は諸葛長民の顔を見ると人払いし、しばし語らい合った。諸葛長民は普段よりの不満を思うさま劉裕に打ち明け、それらが聞き遂げられたことに喜んだ。しかし劉裕はこのとき密かに側仕えの丁旿に命じ、カーテンの後ろから飛び出させ、諸葛長民を押さえ込み、床に打ちつけて殺した。死体は輿に乗せ、廷尉に運ばれた。あわせて弟の諸葛黎民も誅した。丁旿は驍勇剛力の者であった。時の人は、口々に語った。「悪さをするなよ、丁旿がついてくるぞ」と。
かねてより山湖川澤の類は盛族の私有地のような扱いであった。庶民らは薪を採ろうが漁に勤しもうが、みな税として巻き上げられてしまうようなありさまだった。このため、そうした振る舞いを禁ずる命を下した。またこの頃北土より移住してきたものは二重戸籍のような状態であった。ここを是正するため、劉裕は上表し、制度を定め、土断を行った。ただし晋陵郡に住む、徐、兗、青州に本貫のある者は例外とされた。これまであった喬県制度は廃止され、江南の土地区画に吸収された。劉裕に鎮西将軍・豫州刺史の地位が加えられた。劉裕は改めて太傅・州牧・班剣については固譲し、黄鉞を返却した。
七月、朱齡石が蜀を平定。譙縦を斬り、その首を建康に持ち帰った。
九月、安帝は劉裕の南燕制圧、盧循鎮圧の功から次子の劉義真を桂陽県公とし、改めて太傅・揚州牧・加羽葆・鼓吹・班剣20人への昇進が諮られた。将軍や官吏100名あまりがしきりにすすめてきたため羽葆・鼓吹・班剣20名の加増については受け入れたが、その他は辞退した。
義熙十(414)年、労役を軽くした。東府城を再建し、府舍を立ち上げた。劉裕は平西将軍、荊州刺史の司馬休之が宗室として重んぜられており、また江漢の人心を得ていたことから、司馬休之に謀反の意図があるのではないかと疑った。そこで司馬休之の息子、譙王の司馬文思が建康で軽俠の徒と連れ立っていたので、司馬文思を捕え、司馬休之の元へ送り込んだ。この不逞の息子をしかるべく裁け、という事である。司馬休之は司馬文思の譙王位を廃し、庶人に落とすことを表明、あわせて劉裕に陳謝の文を送った。
十一年正月,帝收休之子文寶、兄子文祖,並賜死,率眾西討。復假黃鉞,領荊州刺史。以中軍將軍道憐監留府事。休之上表自陳,幷罪狀帝。休之府錄事參軍韓延之有幹用才,帝未至江陵,密書招之。延之報書曰:「承親率戎馬,遠履西偏,闔境士庶,莫不惶駭。辱疏,知以譙王前事,良畸径。司馬平西體國忠貞,款懷待物,以公有匡復之勳,家國蒙髻た糯委誠,每事詢仰。譙王往以微事見劾,猶自表遜位;況以大過而當默邪!來示云,『處懷期物,自有由來』。今伐人之君,啗人以利,真可謂『處懷期物』者矣。劉藩死於閶闔之門,諸葛斃於左右之手,甘言詫方伯,襲之以輕兵,遂使席上靡款懷之士,閫外無自信諸侯,以為得算,良所恥也。吾雖鄙劣,嘗聞道於君子,以平西之至,寧可無授命之臣乎?假天長喪亂,九流渾濁,當與臧洪游於地下。不復多云。」帝視書歎息,以示將佐曰:「事人當如此。」 
義熙十一(415)年正月、劉裕は司馬休之の子の司馬文宝、および甥の司馬文祖を捕えて殺し、司馬休之討伐の軍を起こした。改めて仮黄鉞を授かり、荊州刺史の地位を兼務した。建康を出発すると、中軍将軍の劉道憐に太尉府の諸事を任せた。司馬休之は上表にて自らの想い、そして劉裕の罪状を述べた。
司馬休之の府における録事参軍の韓延之はその才覚を知られていた。劉裕は江陵到達の前に韓延之に向けて招致の密書をしたためた。
韓延之は返信を送る。
「此度、劉公ご自身で軍馬を率い、はるばるこの西方にお越しになったのを見、近辺の士庶はだれもが怯えておりました。いま、かたじけなくも文を頂戴いたしまして、ようやく司馬文思様の件によると知り、深く嘆息いたしました。司馬平西は晋室への深い忠誠を体現され、配下をよく慰撫なされます。劉公が晋室復興をお遂げとなり、皇室や、お国そのものが公のお力を頼りとしておりますことにつきましてもその徳、その忠誠心に、事あるごとに感服なさっておいででした。司馬文思様の微罪に対する弾劾に接しても、まずはおん自らが辞任を申し出られております。そのような方が、仮に司馬文思様の罪が甚大なものであったといたしましたら、どうして黙っておりますでしょうか! 先の手紙にてやってくるものを分け隔てなく受け入れたい、と語っておりましたが、いま我があるじを討ち果たそうとしておきながら、人を欺くのに対して利益でもって吊ろう、と言うわけですか。なるほど、これこそが分け隔てなく受け入れる、いかなる卑劣な手立てであっても、と言うことでありますな。劉藩は天界の門に引き連れられ殺され、諸葛長民は左右の手にて殺された。甘言にて方伯をたぶらかし、軽兵にて始末する。かくしてそなたの宴の席上には仕えることに喜びを抱く士もおらず、各地の方面将をまともに信じられもしない。このような状態で働くことなぞ、誰もが恥と思いましょう。私は拙劣の身なれど、君子の道の何たるかを耳にはしています。平西の至徳があって、どうして天命を補弼する名臣になれないことがありましょうか。この先天に喪乱がもたらされ、天下が混濁してゆくというのであれば、私は臧洪とともに地下にて語り合うのみにございます。これ以上は何も言ってくださいませぬよう」
劉裕はその書を読み終えると嘆息し、配下らに示し、言う。
「人に仕えるとは、まさにこのようなことを言うのだな」
三月,軍次江陵。初,雍州刺史魯宗之負力好亂,且慮不為帝容,常為讖曰:「魚登日,輔帝室。」與休之相結。至是,率其子竟陵太守軌會于江陵。帝濟江,休之眾潰,與軌等奔襄陽,江陵平。加領南蠻校尉。將拜南蠻,遇四廢日,佐史鄭鮮之等白遷日,不許。下書開鄲臟群検 
四月,進軍襄陽,休之等奔姚興。晉帝復申前令,授太傅、揚州牧,劍履上殿,入朝不趨,讚拜不名,加前部羽葆、鼓吹,置左右長史、司馬、從事中郎四人,封第三子義隆為北彭城縣公。八月甲子,帝至自江陵,奉還黃鉞,固辭太傅、州牧、前部羽葆、鼓吹,其餘受命。 
三月、劉裕の軍は江陵に到着した。雍州刺史の魯宗之はその軍事力を背景に乱を好んでおり、また常に劉裕に受け入れらないのではないか、と恐れていた。そして占いの書に載る「魚登日、輔帝室」の記述をしばしば眺めていた。このため息子である竟陵太守の魯軌を率い、司馬休之と江陵にて合流。劉裕軍は長江を渡河、司馬休之軍は大いに敗れ、魯軌らとともに襄陽まで撤退した。江陵は平定され、劉裕には南蛮校尉の官位が加えられた。佐吏の鄭鮮之らは南蛮校尉叙任の日が四廃日であるとして別の日にした方がよいのでは、と建議したが、劉裕は却下した。劉裕は荊州の民に寛大なる統治をもたらす旨の書面を下した。
四月、劉裕は襄陽に進攻した。司馬休之は後秦に出奔した。安帝は劉裕に改めて昇進の打診をした。太傅・揚州牧・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名・前部羽葆・鼓吹・左右長史・司馬・從事中郎4人である。また劉義隆を北彭城県公に封じた。
八月、劉裕は江陵より建康に戻ると、黄鉞を返還。太傅・州牧・前部羽葆・鼓吹については固譲し、その他は受けた。
初,帝平齊,仍有定關、洛意,遇盧循侵逼,故寢。及荊、雍平,乃謀外略。會姚興死,子泓新立,兄弟相殺,關中擾亂。四月乙丑,帝表伐關、洛,乃戒嚴北討,加領征西將軍、司豫二州刺史。以世子為徐、兗二州刺史。帝欲以義聲懷遠,奉琅邪王北伐。五月,廬江霍山崩,獲六鍾,獻之天子。癸巳,加領北雍州刺史,前後部羽葆、鼓吹,疊頻為四十人。八月丁巳,率大眾進發,以世子為中軍將軍,監太尉留府事,尚書右僕射劉穆之為左僕射,領監軍、中軍二府軍司,入居東府,總攝內外。九月,帝至彭城,加領北徐州刺史。十月,眾軍至洛,圍金墉,降之。修復晉五陵,置守衞。 
義熙十二(416)年の正月、劉裕に対し、旧例に基づき、民間からの直接登用の権限が付与された。また平北将軍、兗州刺史にも任ぜられた。また都督に南秦州が加わり、22州の都督となった。劉裕は平北将軍府の属官が少ないことから、あえて平北府を独立した存在とはせず、太尉府としてまとめ上げた。三月、劉裕に中外大都督の座が加えられた。
はじめ劉裕は南燕を平定した際、そのまま関中洛陽も制圧したいと考えていたが、盧循の攻撃を受け、取りやめとなっていた。ここにきて荊州や雍州が平定されたため、ついに外征の再開に踏み出した。このとき後秦では姚興が死亡、姚泓が立つも、兄弟での殺し合いを繰り広げ、関中が荒れ狂った。四月乙丑の日、劉裕は関中、洛陽を討つと上表。征西将軍・司豫二州刺史が加えられた。世子の劉義符が徐兗二州刺史となった。劉裕は大義がはるか遠方にまで示されることを狙い、琅邪王司馬徳文を総大将として奉じ、北伐に出た。
五月、廬江の霍山が崩れ、山肌より6つの鍾が現れたため安帝に献上された。癸巳の日、劉裕に北雍州刺史・前後部羽葆・鼓吹が加えられ、班剣が増やされ40人となった。八月丁巳の日、劉裕が大軍を率い進発。劉義符を中軍将軍として太尉府の留守を任せ、尚書右僕射の劉穆之を左僕射とし、あわせて監軍・中軍二府の軍務を司らせ、東府入りし、内外の総取りまとめをさせた。九月、劉裕は彭城に到着した。北徐州刺史が加えられた。十月、先鋒諸軍は洛陽に至り、金墉城を囲み、降伏させた。晋の5帝ぶんの陵墓を修繕し、守衛を配備した。
朕以寡昧,仰纘洪基,夷羿乘釁,蕩覆王室,越在南鄙,遷于九江。宗祀絕饗,人神無位,提挈羣凶,寄命江浦,則我祖宗之烈,奄墜于地,七百之祚,翦焉既傾,若涉巨海,罔知攸濟。天未絕晉,誕育英輔,振厥弛維,再造區宇,興亡繼絕,俾昏作明,元勳至,朕實攸髻今將授公典策,其敬聽朕命:乃者,桓玄肆僭,滔天泯夏,拔本塞源,顛蹶六位,庶僚俛眉,四方莫恤。公精貫朝日,氣陵虹蜺,奮其靈武,大殲羣慝,剋復皇邑,奉歆神祇。此公之大節始於勤王者也。授律羣后,泝流長騖,薄伐崢,獻捷南郢,大憝折首,羣逆畢夷,三光旋采,舊物反正。此又公之功也。出藩入輔,弘茲保弼,阜財利用,繁殖黎元,編戶歲滋,疆宇日啟,導明刑,四境有截。此又公之功也。鮮卑負眾,僭盜三齊,介恃遐阻,仍為邊害,公蒐乘秣馬,敻入遠疆,衝櫓四臨,萬雉俱潰,拓土三千,申威龍漠。此又公之功也。盧循祅凶,伺隙五嶺,侵覆江、豫,矢及王城,國議遷都之規,家獻徙卜之計,公乘轅南濟,義形于色,運奇攄略,英謨不世,狡寇窮衂,喪旗宵遁,俾我畿甸,拯於將墜。此又公之功也。追奔逐北,揚旍江濆,偏旅浮海,指日遄至,番禺之功,俘級萬數,左里之捷,鳥散魚潰,元凶遠竄,傳首萬里。此又公之功也。劉毅叛換,負釁西夏,陵上罔主,志肆姦暴,公禦軌以刑,消之不日,罪人斯得,荊、衡寧晏。此又公之功也。譙縱怙亂,寇竊一隅,王化阻閡,三巴淪溺,公指命偏帥,授以良圖,陵波憑湍,致屆井絡,僭豎伏鑕,梁、岷草偃。此又公之功也。馬休、魯宗,阻兵內侮,驅率二方,連旗稱亂,公投袂星言,研其上略,江津之師,勢踰風電,回斾沔川,實繁震懾,二叛奔迸,荊、雍來蘇。此又公之功也。永嘉不競,四夷擅華,五都傾蕩,山陵幽辱,祖宗懷沒世之憤,遺甿有匪風之思,公遠齊阿衡納隍之仁,近同小白滅亡之恥,鞠旅陳師,赫然大號,分命羣帥,北徇司、兗,許、鄭風靡,鞏、洛載清,百年榛穢,一朝掃滌。此又公之功也。 
公有康宇內之勳,重之以明。爰初發跡,則奇謨冠古,電擊強祅,則鋒無前對,聿寧東畿,大造黔首。若乃草昧經綸,化融於歲計,扶危靜亂,道固於苞桑。蠲削煩苛,較若畫一,淳風美化,盈塞區宇。是以絕域獻琛,遐夷納賮,王略所宣,九服率從。雖文命之東漸西被,咎繇之邁于種,何以尚茲。 
朕聞先王之宰世也,庸勳尊賢,建侯胙土,褒以寵章,崇其徽物,所以協輔皇室,永隆藩屏。故曲阜光啟,遂荒徐宅,營丘表海,四履有聞。其在襄王,亦魘霸,又命晉文,備物光賜。惟公道冠前烈,勳高振古,而殊典未飾,朕甚懵焉!今進授相國,以徐州之彭城沛蘭陵下邳淮陽山陽廣陵、兗州之高平魯泰山十郡封公為宋公,錫茲玄土,苴以白茅,爰定爾居,用建冢社。昔晉、鄭啟藩,入作卿士,周、召保傅,出總二南,內外之任,公實兼之。今命使持節、兼太尉、尚書左僕射晉寧縣五等男湛授相國印綬,宋公璽紱,使持節、兼司空、散騎常侍、尚書陽遂鄉侯泰授宋公茅土,金虎符第一至第五左,竹使符第一至第十左。相國位無不總,禮絕朝班,居常之名,宜與事革。其以相國總百揆,去錄尚書之號;上送所假節、侍中貂蟬、中外都督太傅太尉印綬、豫章公印策;進揚州刺史為牧,領征西將軍、司豫北徐雍四州刺史如故。 
公紀綱禮度,萬國是式,乘介蹈方,罔有遷志,是用錫公大路、戎路各一,玄牡二駟;公抑末敦本,務農重積,采蘩實殷,稼穡惟阜,是用錫公袞冕之服,赤舄副焉;公閑邪納正,移風改俗,陶鈞品物,如樂之和,是用錫公軒縣之樂、六佾之舞;公宣美王化,導揚休風,華夷企踵,遠人胥萃,是用錫公朱戶以居;公官方任能,網羅幽滯,九臯辭野,髦士盈朝,是用錫公納陛以登;公當軸處中,率下以義,式遏寇讎,滌除苛慝,是用錫公虎賁之士三百人;公明罰恤刑,庶獄詳允,放命干紀,罔有攸縱,是用錫公鈇鉞各一;公龍驤鳳矯,咫尺八紘,括囊四海,折衝無外,是用錫公彤弓一、彤矢百,玈弓十、玈矢千;公溫恭孝思,致虔禋祀,忠肅之志,儀刑四方,是用錫公秬鬯一卣,圭瓚副焉。宋國置丞相以下,一遵舊儀。欽哉,其祗服往命,茂對天休,簡恤庶邦,敬敷顯,以終我高祖之嘉命! 
十二月壬申の日、安帝は劉裕に相国・総百揆・揚州牧を加え、10郡を封じて宋公とし、九錫の礼を備えさせ、璽紱と遠遊冠と刔銅を与え、その地位を諸侯王の上とさせるべく使者を発した。
典策文に言う。
「朕の愚昧により、畏れ多くも宗祖より拝受したこの国の大業に羿のごとき男、桓玄に乗っ取られる隙を与え、いちどこの王室を転覆させてしまった。そしてこの身も南のかたに移された。晋室をまつる祭祀も絶え、祖霊たちは神としての立場を失い、悪人どもに引きずり回され、長江のほとりで命を長らえるのみであった。祖先より承ってきた業、七百もの祚を地の果てへとおとしめ、その思いはさながら深淵のそばを恐る恐る歩むかのよう。いったいどうすれば、この苦境より脱出できるのか。そのようにばかり考えていた。しかし、天は晋を見放してはおらず、晋室を補佐するに値する英傑、劉裕殿を育てておられた。そして英傑により帝室は再建された。暗闇に、ふたたび明かりが差し込まれたのだ。晋室再建の元勲は徳の至りであり、朕はまこと元勲殿を頼りにしている。ここに、公へ典策を授けたく思う。謹んで聞き入れられよ。
桓玄が簒奪の大逆をなし、国家を転覆させた。これによって国の秩序は粉砕され、官僚は眉をひそめ、庶民で嘆かぬ者はなかった。公の精気は朝日をも貫き、公の気は銀河をも凌がん勢い。その霊武にて、あまたなす悪を打ち払われた。こうして晋室は蘇り、公は天帝を奉じ、国の祖霊をも祀り直された。これぞ公の大業、王者の歩みの始まりであったと言えよう。付き従うものたちに命を発し、長江を遡上し、崢洲や江陵で桓玄を破り、その首級を挙げ、謀反者らを平らげた。3人の英雄が国体の祭祀者を奪還したわけであるが、これもそもそもは、公の手柄であろう。いざ宮城入りすれば、広く我がまつりごとを助け、宮城の資産を用い、庶民らの生活を改善された。民の戸籍が明らかとなるにより、税収もまたうるおい、国土も栄えた。信賞必罰の徹底により、国内の風紀もまた粛然とした。これもまた、公の功績である。鮮卑どもがおのが兵力を頼みとし、辺境にて我が物顔で振る舞い、地域の民が虐げられ続けていた。そこへ公は軍資を背負い遠征、広固城を包囲、鮮卑を撃滅。中でもより罪深き首謀者どもに厳格なる裁きをくだされ、3000里四方の地を、見事解放された。これもまた公の功績である。凶賊盧循が番禺より公の不在を狙い、攻め上れば、たちまち江陵や豫章にて将軍たちが打ち破られ、その矢はついに王城にまで届かんばかりの勢い。誰しもが凶賊の前に打ちひしがれ、宮中では遷都すべきではないか、とまで囁かれていた。しかし公は神速にて北土より帰還され、その断固たる意志で撃滅を表明、そして見事打ち払われたこと、まこと英略の極みであられた。凶賊共はたちまち尻尾を巻いて逃げ出したわけであるが、その直前までの絶望からの逆転、まさに公の功績、というべきである。逃げ延びんとする盧循に対し、旗を掲げ、公は迅速なる追撃をおかけになった。番禺では10000にも及ぼうかと言う首級や捕虜を得、左里では賊徒を魚を潰し鳥を散らすかのように大破された。盧循は逃げこそしたものの、その首級は万里の向こうよりもたらされ、海南は掃き清められ、南方よりも喜びの声が上がった。これもまた公の功績である。劉毅が反旗を翻し、荊州に盤踞。お国を軽んじる態度に出、横暴の限りを尽くすようになった。そして仲間を引き立て、建康に牽制してきた。公は電光石火のごとく打って出られ、たちまちにこの者を処罰された。こうして荊州は清められた。これもまた公の功績である。譙縦がいち地方の緩みを突き、益州の統治を紊乱した。公は配下将に命じ、また素晴らしき作戦をも授け、水軍でもって成都にまで進まれた。譙縦はたちまち刑に伏され、益州にも公の威風が及ぶに至った。まこと、公の功績と言えよう。司馬休之、魯宗之の両名が兵力を頼みに結託し反乱。公はすぐさま打倒に決起され、戦略をお立てになった。長江を進む軍の勢いは、風や雷すら超えるものであった。沔水にもまた翻された旗はふたりを追い払うことに成功。荊州雍州は平穏を取り戻した。これもまた、公の功績である。蛮族どもには永嘉の乱にてなすすべもなく破られ、中原を荒らし回された。5つの都は荒らされ、先祖代々の墓は陵辱を受けた。先祖の霊は住処を荒らされて怒り、残された民は救いを望んだ。公は、遠くは殷の伊尹のごとき民の苦しみへの憐れみを抱かれ、また近くには斉の桓公が味わった滅亡に陥る屈辱をも存じておられた。かくて旧都奪回の軍を立ち上げられ、意気盛んに出陣された。先遣隊に司州兗州を進ませれば、許、鄭、鞏、洛の各地は即、降伏。洛陽にはびこっていた蛮族も帰順し、その罪を乞うてきた。蛮族の蹂躙による100年の汚辱が1日にして掃き清められた。まこと、公の功績である。
公は天下を収めた功により、明徳持てる重鎮としての存在感を示された。その歩んできた軌跡には古今類を見ぬ妙計奇計があり、恐るべき凶賊を討ち果たしてきたその武威に立ち向かえる者などおらぬ。かくしてこの江東の地を安んじ、庶民の身から上り詰められた。そうしてずさんな政府の財政をふたたび潤沢なるものとし、危うきより我が身を助け、また多くの争乱を鎮められ、この国の道筋をお固めになった。朝廷内に秩序をもたらし、煩瑣苛烈なるルールを撤廃し、法令には一本筋の通った基準がもたらされた。整えられた芳醇なる風紀は、この天下にあまねく満ちた。ゆえにこそ秘境の蛮夷は珍宝を献上し、辺境の胡族も朝貢をなしてきた。この国の威風が、あまねく行き渡った証である。夏の禹王や、初めて法律を作ったとされる皋繇ですら、ここまでの規律は生み出せなかったことであろう。朕は聞いている。過去、王たちが世を司るに、勲貴を抱え、賢者を抱え、諸侯には封爵地を授け、また彼らの栄誉をよく称えた、と。これにより彼らは帝の家を助け、藩屏として長く栄えたのだ、と。このため国土は拡大し、また荒れ地も人々の住まう地へと変わっていった、と。思い出すのは、東周の襄王である。王はいちど王の座を追われかけたが、晋の文公の功績により、王位を守ることが叶った。そして王は、文公に大いなる栄誉を授けたものである。
思えば、公の功績は万古にも類を見ないものであるのに、それを讃えるだけの顕彰をなせておれずにいた。これは朕の不明であるとしか言えぬ。そこで公には相国の地位を授け、また10郡を宋国とし、公の新たな封地とする。10郡とはすなわち彭城・沛・蘭陵・下邳・淮陽・山陽・広陵(以上徐州)、高平・魯・泰山(以上兗州)である。これらの地を公の徳で輝かせ、公の住まう地として定め、先祖代々の墓地、霊廟を建てられよ。昔、晋公や鄭公は封土を得つつも周王の下に馳せ参じ、扶翼した。周公旦や邵公奭は周王の後見人となりつつも周の地、邵の地を統べた。公はこれら内外を統べる重責を、一手に司ってこられた。いま、使持節・兼太尉・尚書左僕射・晋寧県五等男の袁湛に相国の印綬と宋公の璽紱を持たせ、使持節・兼司空・散騎常侍・尚書・陽遂郷侯の范泰に宋の地の祭壇に盛るべき土、金虎符の左半分を第1〜第5、竹使符の左半分を第1〜第10まで持たせた。相国とは全ての者を統べるべき地位。その扱いは他の朝臣とは隔絶する。常日頃より、朕の政務にともに与っていただきたい。相国位にて万民を統べるのであるから、録尚書号は重複するため、省く。あわせて仮節、侍中の貂蝉、中外都督・太傅・太尉の印綬、豫章公の印策についても返却されよ。位を揚州刺史より牧に進め、征西将軍を兼務、司・豫・北徐・雍の四州刺史は現状のままとする。
公が定めたルール、儀礼は万国が従うところ。皆がそれに則り、違えることもない。よって公には馬車と戦車1台ずつと、黒毛の牡牛4頭2組を賜う。公は末端を抑え、根本を重んぜられた。これによって収穫力は高まり、税収は改善された。よって公には天子の礼服および冕冠と、あわせて赤き靴を賜う。公は悪しきを鎮め正しきを納め、風俗を改善された。こうして治まった天下は、調和の取れた音楽のごとし。よって公には、天子にのみ許された音楽、6名6列の舞踊団を賜う。公は天下に王の徳を広め、幸いの風を吹かせた。国内外の者はひざまずき、遠くよりも人がこぞり来た。よって公には、朱塗りの門を賜う。公は政府を有能なものに任せ、隠れていた問題、滞っていた問題を解消して回られた。遠方の地、片田舎にも有能な者が配されることになった。よって公には天子の座にも特段の許可無しに登壇しても構わぬ権利を賜う。公は政権の中枢において義を以て臣下を束ねられ、迫り来る外敵を討ち果たし、国内の病巣を取り除かれた。よって公には近衛兵300を賜う。公は刑罰の基準を明らかとされ、獄吏もその基準をよく遵守し、かくして放逸の徒が退けられた。よって公には鈇、鉞を1ずつ賜う。公は龍がごとく飛び鳳がごとく羽ばたかれ、天下各地を抑え、その軍略を違えることもなかった。よって公には彤弓を1、彤矢を100、盧弓を10、盧矢を1000賜う。公は温厚にして孝行の思いを懐き、祭祀を敬虔に執り行い、忠心を誰よりも明らかとし、天下万民の規範となった。よって公には秬鬯を1卣、圭瓚を添えて賜う。
公が統べる宋国には丞相以下、ひと通りの官職を晋と変わらずそろえるようにされよ。あぁ、なんとも敬服すべきお方よ! 公が天命によく従われたからこそ、天も応えになったのであろう。常に国を、国民を思われ、敬意を、徳行をあらわとされた。我が先祖もまた公をよく祝福してくださったことであろう」
十三年正月,帝以舟師進討,留彭城公義隆鎮彭城。軍次陳留城,經張良廟,下令以時修飾棟宇致薦焉。晉帝追贈帝祖為太常,父為特進、左光祿大夫,讓不受。二月,冠軍將軍檀道濟等軍次潼關。三月庚辰,帝率大軍入河。五月,帝至洛陽,謁晉五陵。七月,至陝,龍驤將軍王鎮惡舟師自河浮渭。八月,扶風太守沈田子大破姚泓軍於藍田,王鎮惡剋長安,禽姚泓。始義熙九年,歲、鎮、熒惑、太白聚東井,至是而關中平。九月,帝至長安。長安豐稔,帑藏盈積,帝先收其彝器、渾儀、土圭、記里鼓、指南車及秦始皇玉璽送之都;其餘珍寶珠玉,悉以班賜將帥。遷姚宗于江南,送泓斬于建康市。謁漢長陵,大會文武於未央殿。 
義熙十三(417)年正月,劉裕は水軍を率い征討に向った。劉義隆に彭城を守らせた。軍が留に進み、張良廟にさしかかると、廟の修復を命じた。安帝は劉裕の祖父に太常を、父に特進・左光禄大夫を追贈したいと言ってきたが、固譲した。二月、冠軍将軍の檀道済らの軍が潼関を攻めた。三月庚辰、劉裕が大軍を率い黄河入りした。五月、劉裕は洛陽入りし、晋の5陵を修繕した。七月、陝にさしかかった。龍驤将軍の王鎮悪は水軍を率い黄河から渭水入りした。八月、扶風太守の沈田子が姚泓の軍を藍田にて破った。王鎮悪が長安を落し、姚泓を捕らえた。これより以前の413年に木星・土星・火星・金星が東井の星宿に集まっていた。これが関中平定のきざしであったと言われる。九月、劉裕が長安に到着した。長安で略奪行為などは一切行われておらず、財物がうずたかく積み上がっていた。劉裕はその中から彝器・渾儀・土圭・記里鼓・指南車や秦始皇の玉璽などを都に送った。残った財宝については全てを将帥らに分配した。姚氏の一族は江南に送致し、姚泓については建康市中で斬った。漢の長陵を詣で、文武とともに未央殿にて会見した。
十月,晉帝詔進宋公爵為王,加十郡益宋國,並前為二十郡。其相國、揚州牧、領征西將軍、司豫北徐雍四州刺史如故。帝欲息駕長安,經略趙、魏,十一月,前將軍劉穆之卒,乃歸。十二月庚子,發自長安,以桂陽公義真為雍州刺史,鎮長安,留腹心將佐以輔之。 
十月、安帝は劉裕を宋公から宋王に進爵させ、10郡を加え宋国とさせ、もともとの封爵地に加えた合計20郡とさせた。相国・揚州牧・領征西將軍・司豫北徐雍四州刺史の官位はもとのままとした。劉裕は兵らを長安で休息させたあと趙や魏を攻略する心づもりであったが、十一月に前将軍の劉穆之が死亡したため、すぐさまの帰還を決定した。十二月庚子、長安を発し、桂陽公の劉義真を雍州刺史として長安を守らせ、腹心の将佐らに補佐をさせた。
十四年正月壬戌,帝至彭城,解嚴息甲。以輔國將軍劉遵考為幷州刺史,領河東太守,鎮蒲坂。帝解司州,領徐、冀二州刺史,固讓進爵。時漢中成固縣漢水崖際有異聲如雷,俄頃岸崩,有銅鍾十二,出自潛壤。鞏縣人宗曜於其田所獲嘉禾,九穗同莖,帝以獻,晉帝以歸于我。帝沖讓,乃止。 
義熙十四(418)年正月壬戌、劉裕は彭城に至り、ようやく警戒体制を解いた。輔国将軍の劉遵考を并州刺史、領河東太守として蒲阪を守らせた。劉裕は司州刺史の任を解き、領徐、冀二州刺史となって、王への進爵は固譲した。この頃、漢中郡成固県の漢水に面した崖際で雷のような轟音が鳴ったかと思うと、やがて崖が崩れ落ち、そこから銅鍾12個が出土した。また鞏県の人、宗曜が自身の田にて嘉禾を得た。劉裕が安帝に献上したところ、これは劉裕が持つべきものである、と言い出した。劉裕が固辞したため、安帝の元に収められた。
六月、劉裕は相国・宋公・九錫の命を受けた。宋国に命を下し、殊死よりも低い罪の者に関しては免罪とした。豫章公太夫人を宋公太妃、世子中軍将軍劉義符を相国府の副官とさせた。以下の百官もすべて晋と同様の形式で官位が当てはめられた。更に宋国として封じられていた10郡での任免権も授かった。
安西中兵参軍の沈田子が、安西司馬の王鎮悪を殺した。諸将軍らはまた安西長史の王修をも殺した。にわかに関中の統率は乱れた。十月、劉裕は右将軍の朱齢石を劉義真に代わる雍州刺史として派遣した。劉義真が帰還しようとしたところに夏の赫連勃勃が強襲、大敗し、劉義真はかろうじて身ひとつで免れた。多くの将軍たちと、朱齢石が失われた。
十二月、安帝が死に、司馬徳文が恭帝として即位した。
元熙元年正月,晉帝詔徵帝入輔,又申前令,進公爵為王,以徐州之海陵北東海北譙北梁、豫州之新蔡、兗州之北陳留、司州之陳郡汝南潁川滎陽十郡,畫徭◆七月,乃受命。赦國內五歲刑以下,遷都壽陽。九月,解揚州。十二月,晉帝命帝冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂儛八佾,設鍾虡宮縣。進王太妃為太后,王妃為王后,世子為太子,王子、王孫爵命之號,一如舊儀。 
元熙元(419)年正月、劉裕は恭帝よりの召喚を受け、建康宮城にて恭帝の補佐を命じられ、また過去にもたらされた命が再度提示された。こうして劉裕は爵位を宋公より宋王に進め、また徐州の海陵・北東海・北譙・北梁・豫州の新蔡・兗州の北陳留・司州の陳郡・汝南・潁川・滎陽の10郡が既存の宋国10郡に加えられた。七月、恭帝よりの命を受け、五年以下の禁固刑の服役者に大赦がなされた。都を寿陽に移した。九月、揚州牧の座が解任された。十二月、恭帝は劉裕にまつわる諸制度を冕十二旒、天子旌旗を建て、出警入蹕、金根車に乗り、駕は六馬とし、五時の副車を備え、旄頭雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鍾虡宮県を設けさせた。王太妃を太后とし、王妃を王后とし、世子を太子とし、王子、王孫の爵位をそれぞれ引き上げること、旧来のとおりとした。
二年正月,帝表讓殊禮。竟陵郡江濱自開,出古銅禮器十餘枚,帝獻之晉帝,讓不受,於是歸諸瑞物,藏於相府。四月,詔遣敦勸,兼徵帝入輔。六月壬戌,帝至都。甲寅,晉帝禪位于宋。有司草詔既成,請書之,天子即便操筆,謂左右曰:「桓玄之時,天命已改,重為劉公所延,將二十載。今日之事,本所甘心。」 
元熙二(420)年正月、劉裕は殊礼を固譲する旨上表した。
このとき竟陵郡の長江のそばで崖崩れがあり、古い銅の礼器が10枚あまり出土した。劉裕は恭帝に献上しようとしたが受け取られず、劉裕の元にもたらされたそれらを、相国府に収めた。四月、恭帝は禅位を伝える使者をふたたび送り、あわせて劉裕に参内するよう命じた。六月壬戌、劉裕は建業入りした。甲寅、晋帝は宋に禅譲の意を表明した。詔の草稿は既に作成されており、恭帝は送られてきた草稿を書き写すに過ぎなかった。恭帝は草稿を書き写しながら、側仕えに「桓玄の時に、天命は既に改まっていた。それが20年もの間、劉公によって生きながらえた。今日この日が来ることも甘んじるより他なかろう」と呟いた。
咨爾宋王,夫玄古權輿,悠哉邈矣,其詳靡得而聞。爰自書契,降逮三、五,莫不以上聖君四海,止戈定大業。然則帝王者,宰物之通器,君道者,天下之至公也。昔在上葉,深鑒茲道,是以天祿既終,唐、虞弗得傳其嗣,符命來格,舜、禹不獲全其謙。所以經緯三才,澄序彝化,作範振古,垂風萬葉,莫尚於茲。自是厥後,歷代彌劭。漢既嗣於放漫を暇鯤軌於重華,諒以協謀乎人鬼,而以百姓為心者也。 
昔我祖宗欽明,辰居其極,而明晦代序,盈虧有期,翦商兆禍,非惟一世,曾是弗剋,矧伊在今,天之所廢,有自來矣。惟王體上聖之姿,包二儀之,明齊日月,道合四時。乃者,社稷傾覆,王拯而存之,中原蕪梗,又濟而復之。自負固不賓,干紀放命,肆逆滔天,竊據萬里,靡不潤之以風雨,震之以雷霆。九伐之道既敷,八法之化自理,豈伊博施於人,濟斯黔庶,固已義洽四海,道盛八荒者矣。至於上天垂象,四靈效徵,圖讖之文既明,人神之望已改,百工歌於朝,庶人頌乎野,億兆抃踴,傾佇惟新。自非百姓樂推,天命攸集,豈伊在予所得獨專。是用仰祗皇靈,俯順羣議,敬禪神器,授帝位于爾躬。大祚其窮,天祿永終。於戲!王其允執其中,敬遵典訓,副率土之嘉願,恢洪業於無窮,時膺休祐,以答三靈之眷望。 
典策文に言う。
「ああ、汝、宋王よ。もとよりいにしえの時代の興りなぞ、余りにも彼方のこと。その詳細なぞ、知りようもない。しかし文字が生まれてより、三皇五帝の時代に下るまで、至高の聖人が天下に君臨し、戦の調停者こそが大業をなした。これに、例外はなかった。すなわち帝王とは物事の主宰、君の振る舞いとは最も公平たる事である。偉大なる祖先らはこれらを深く鑑みた。自らの天命が終端に至ったと気付いた堯は子に王位を継承させず、天命が授けられたと知った舜や禹ははじめに示していた謙譲の心を最終的には全うしきれず、やむを得ず王位を継承した。堯、舜、禹のなされようこそが世にあるべき規範を示され、これはいにしえより今に至るまで続く。ならばここで、その伝統をないがしろとなぞできようか? その証として、3王の振る舞いは、近世にも見ることができる。漢は後世の王に徳を継がせることを堯に倣い、魏もまた漢の例に従うこと、舜が堯の振る舞いに倣ったがごとく。では、我が振る舞いを先祖の霊、あるいは民草の心に諮れば、いかなる答えが示されようか。
昔、我が宗祖はまさに天意の代行者であった。しかるに時が下り、その資格が減退していったようである。災いの兆しとは、一代の人主にのみ示されるものではない。過去に解消できなかった過ちが、いまにまで引き継がれてきたのだ。すなわち天意が禅代を求め来るは、由来あることであった、と言える。
思うに、宋王はこれまでにも聖王たるべき振る舞いを示してこられた。天地が示すべき徳を、自ずと内包しておられた。その徳の明らかなるは太陽や月にも等しく、その道理はあらゆる時宜にも適っておられた。ゆえにこそ建康を脅かすものが現れても見事に建康を保ち置かれ、中原が長らく徳化されなかった状態をも救いえられた。無法者は自ずと処罰され、反逆者どもは遠方でひっそりとこちらを伺うより他なくなった。風雨が天下を潤さぬことはなく、雷鳴も天下を震わせぬことがない。なるほど、斯くのごとく、王がなされた9つの討伐や8つの改革により、天下には道理が示された。これらの偉業による変革が、広く民庶にもたらされぬことなどあり得ようか。なればこそ、道義は国内に広く行き渡り、威儀は国外に大いに轟いたのだ。
これらにより、天帝や霊獣らが瑞兆を示し、予言書が大いに語り始めた。何をか? 皇帝の姓の交代である。百官らは城内で、民草らは市井で歌っている。誰もが手を叩き、踊っている。新たな人主の出現を。無論これらは、単純に民らが心の底から王を推戴し、また天意が示されたからと、ただ予が従っているわけではない。それらを受け、改めて歴代の王らの霊にお伺いを立て、また群臣らとも綿密な協議をなし、その上で、いま、王の身にこそ天命が宿り、神器や帝位を授けるに相応しい状態となっている、そのように判断したのである。大いなる天命は、すでに示された。ここに晋の天命は終わりを告げたのだ。
ああ! 王よ、よくよく中道を守られ、古来よりの定めに畏まりて従われよ。この地に住まう皆々の思いに沿い、その偉業を、ますます大いなるものとされよ。時代は大いに兆しを示した。それこそが、まさに天地人の神々の望みであるのだ。いま王の元へ、兼太保、散騎常侍、光祿大夫の謝澹と、兼太尉、尚書の劉宣範を遣わせる。皇帝の印綬を持たせ、継承の儀式をお済ませになられよ。そう、堯や舜、漢や魏のごとく」
帝奉表陳讓,晉帝已遜于琅邪王第,表不獲通。於是陳留王虔嗣等二百七十人及宋臺羣臣並上表勸進,猶不許。太史令駱達陳天文符應曰:「案晉義熙元年至元熙元年,太白晝見經天凡七,占曰:『太白經天,人更主,異姓興。』義熙七年,五虹見于東方,占曰:『五虹見,天子黜,聖人出。』九年,鎮星、歲星、太白、熒惑聚于東井。十三年,鎮星入太微。占曰:『鎮星守太微,有立王,有徙王。』元熙元年冬,醂胸妖佩嘉掘ぐ徘曰:『冬,龍見,天子亡社稷,大人受命。』冀州道人釋法稱告其弟子曰:『嵩神言,江東有劉將軍,漢家苗裔,當受天命,吾以璧三十二、鎮金一餅與之,劉氏卜世之數也。』漢建武至建安末一百九十六年而禪魏,魏自黃初至咸熙末四十六年而禪晉,晉自泰始至今百五十六年,三代揖讓,咸窮於六。又漢光武社于南陽,漢末而其樹死,劉備有蜀,廼應之而興;及晉季年,舊根始萌,至是而盛矣。」若此者有數十條。羣臣又固請,乃從之。 
劉裕は上表を奉じ固譲の意思を伝えようとしたが、恭帝はすでに玉座より退き、琅邪王第に戻ってしまっていた。このため上表は受取人が不在の状況となった。ここに陳留王の曹虔嗣をはじめとした270人と、宋の朝廷に所属している群臣らが揃って勧進の上表をなす。劉裕はそれをはじめ受け入れなかったものの、そこに太史令の駱達が劉裕の即位を示す天文や符瑞の数十条を示した。以下のような内容である。
「いま、ここでは9の符瑞をお伝え申し上げましょう。ひとつ。義熙元年より元熙元年に至るまでの間、金星が7度、昼間に輝いておりました。これは占いにて太白天を経るに人は主人を更う、異姓興らん、と言われます。すなわち皇帝の姓が変わる兆しにございます。
ふたつ。義熙七年、盧循が鎮圧された年、東の空に、同時に5本の虹が現れました。占いでは五虹見ゆるに天子黜され聖人出づらん、とされる兆しにございます。
みっつ。義熙九年には土・木・金・火星が東井の星宿にて集合いたしました。これは大乱ののちに新たなる人主が立つ兆しとされております。
よっつ。十三年には土星が太微垣に入りました。占いでは鎮星の太微を守るに王立てる有り、王うつれる有り、とされております。
いつつ。元熙元年の冬、4体の黒龍が天に向かい、登って行きました。易では言っております。冬に黒龍が出現するのは、これまでの天子が神を祀る廟を守りきれなかったために、新たな偉人に天命を受けるのだ、と。
ななつ。冀州に住まう高僧、釈法称は弟子に告げております。仏がよりのお言葉があった、江東の劉将軍は漢の家の末裔であり、新たな天命を授かろうとしている。そこでわしは32個の璧を鋳つぶし、ひとかたまりの金塊とし、そなたに与えよう。32は高帝劉邦より劉裕殿までの世代の数である、と。
やっつ。漢の光武帝即位から後漢滅亡までが196年。魏の文帝即位から滅亡までが46年。晋武帝即位から今年までが156年。近代3氏の王朝は、いずれも6のつく年に天命が尽きておるのです。
そして、ここのつ。光武帝が過去、南陽にてお植えになった木は、漢滅亡に際し、枯れたそうです。その後劉備が蜀にて政権を立ち上げようするも、志果たせずに終わっております。しかるに晋の末年たる今日、枯れ果てたはずの木の根より、新しい芽が顔を出した、との由。ならばこれは劉氏の天運がふたたび高まることを示しておりましょう」
また群臣もさらに即位を請うてきたため、劉裕もついに皇帝即位を受け入れた。
晉以卜世告終,歷數有歸,欽若景運,以命于裕。夫樹君宰世,天下為公,充帝王,樂推攸集。越俶唐虞,降暨漢魏,靡不以上哲格文祖,元勳陟帝位,故能大拯黔首,垂訓無窮。晉自東遷,四維不振,宰輔焉依,為日已久。難棘隆安,禍成元興,遂至帝主遷播,宗祀堙滅。裕雖地非齊、晉,眾無一旅,仰憤時難,俯悼堽,投袂一起,則皇祀剋復。及危而能持,顛而能扶,姦宄具殲,僭偽亦滅,誠興廢有期,否終有數。至於大造晉室,撥亂濟時,因藉時來,實尸其重。加以殊俗慕義,重譯來庭,正朔所暨,咸服聲教。至乃三靈垂象,山川告祥,人神協祉,歲月滋著。是以羣公卿士,億兆夷人,僉曰:「皇靈降鑒於上,晉朝款誠於下,天命不可以久淹,宸極不可以暫曠。」遂逼羣議,恭茲大禮。猥以寡,託于兆人之上,雖仰畏天威,略是小節,顧深永懷,祗懼若霣。敬簡元日,升壇受禪,告類上帝,用酬萬國之情,克隆天保,永祚于有宋。惟明靈是饗! 
永初元(420)年六月丁卯の日、南郊に祭壇が設けられ、柴の煙が焚かれ、劉裕の即位が天に報告された。この儀式にて捧げられた典策文は以下の通りである。
「皇帝たる臣、裕が上古よりの儀礼に従って黒毛の牛を捧げ、明らかに天帝に申し上げます。晋の皇帝は裕へと天命が移行したとお気付きとなられ、つつしみて天命に従い、裕に即位をお命じになられました。君子を立てて世を統べるにあたり、子でなく臣下に継承をなさるは、徳に満ちた帝王を民が喜んで推挙し、その声が募るからである、と聞き及んでおります。遙かな昔の、堯や舜。時が下れば、漢や魏。こうした時代を振り返るに、最も優れた哲人、元勲が帝位についております。ならばこそ彼らは民を大いに助け、偉大なる教訓をもたらすことが叶いました。
晋がこの建康に移って以来、道徳は退潮となり、宰相らがこれを支える形で補って参りました。しかし安帝即位直後に難局は極まり、ついに桓玄による簒奪と、帝の城外追放を招きました。これにより、ひとたび晋の祭祀は絶えてしまいました。この劉裕、斉公や晋公がごとき地縁もなければ、100人ほどの隷下すら持たぬ立場でこそございましたが、仰ぐに主上が味わわれた苦難に憤激し、俯くに世の中に災いが横溢するのに悲しみ、旗1本を振るって立ち上がり、晋室の回復を果たしました。苦難が迫れば帝を守り、混乱がもたらされればよく補佐しても参りました。法を犯し、乱を興さんとする者はみな討ち滅ぼし、王位の僭称者もまた討伐いたしました。
それにつけても、まこと天運の衰亡とは否応なしに生じてしまうもののようにございます。ふたたび晋室を盛り立て、乱を平らげ、民を救ううち、徐々に世の重心が傾き始めてしまったように感ぜられました。また異郷の民も通訳を伴い、宮廷に謁見に訪れるようになって参りました。晋室を大いに盛り立てんと心するうち、この借り物の権威がやたらと重くなったと感ぜられてなりませぬ。天空の神霊の慶賀や、山や川の神や祖先の霊たちからも祝福の兆しがもたらされ、それは歳月を追うごとに募って参りました。これらの現象を目の当たりとし、公爵以下多くの臣民から、塞外の地に住まう蛮族に至るまでが、みな口を揃え、言い出したのです。天上では天帝が見守られており、地上では晋の主宰者が王に誠を尽くしている、これ以上天命を疎かとはできず、これ以上極位の不在を続けさせるわけにはゆかぬのです、と。彼らの声をこれ以上退けるわけにもゆかず、かくて裕は、かたじけなくも即位の大礼を実施するに至りました。
畏れ多くも、この徳少なき者に民草を統べる役が与えられました。天よりの霊威を恐れつつも、もはや朕が臣節などというものになどこだわってはおれぬと思い知ったのでございます。身に余る立場たらねばならぬことを思えば思うほど、雷を恐れるかのような思いが我が身を覆います。よって何よりもまずは良き日取りを定め、壇上に登りて受禅の旨を天帝にご報告申し上げたく考えました。天下万民の声に応えた、と。下された天命をより盛んとし、宋に永らくの福がもたらされるよう、ここに神霊のため、祭祀をなさんと志したる次第でございます」
禮畢,備法駕,幸建康宮,臨太極前殿,大赦,改元。賜人爵二級。鰥寡孤獨不能自存者,人穀五斛,逋租宿責勿收。其犯鄉論清議,贓污淫盜,一皆蕩滌。長徒之身,特皆原遣。亡官失爵、禁錮奪勞,一依舊準。封晉帝為零陵王,全食一郡,載天子旌旗,乘五時副車,行晉正朔,郊祀天地,禮樂制度,皆用晉典,上書不為表,答表不稱詔,宮于故秣陵。追尊皇考為孝穆皇帝,妣為穆皇后,尊王太后為皇太后。詔曰:「夫微禹之感,歎深後昆,愛人懷樹,猶或勿翦。雖在異代,義無廢絕,降殺之儀,一依前典。可降始興公為縣公,廬陵公為柴桑縣公,始安公為荔浦縣侯,長沙公為醴陵縣侯,康樂公即降為縣侯,奉王導、謝安、溫嶠、陶侃、謝玄之祀,其宣力義熙者,一仍本秩。」 
即位の礼が終わると、法駕にて建康宮に移動、太極前殿にて百官の前に立ち、大赦、改元を宣言した。民にはそれぞれ爵位を2階級昇進とした。家族と死別した者のうち、自力での生活が難しい者にはひとりあたり5斛の穀物を与えた。生活苦のため租税を納めきれないでいた者たちについても、ここまでの未納分は解消した。郷論清議に背き、諸犯罪を犯して発生した罰も放免、遠流を受けている者も故郷に帰し、失脚者や失爵者、幽閉者などについても過去の例に基づき解放させた。もと晋の恭帝は零陵王とされ、すべての戸籍よりの納入が零陵王の食邑とされた。車に乗るには天子の旌旗が掲げられ、五時の副車に乗り、晋の正朔が用いられ、天地の郊祀や礼楽、制度についてはみな晋の基準で執り行わせた。上書するにも上表とはせず、答表についても詔とはされなかった。劉裕の父、劉翹には孝穆皇帝と、生母の趙安宗には穆皇后とそれぞれ追贈され、継母の蕭文寿には皇太后位がもたらされた。
「禹なかりせば、と子々孫々は深く嘆じたものである。民を愛しお国をよく建てた者の徳が失われることはなく、ならば国の天命が移ったとて、その祭祀も途絶えさせるわけにゆかぬ。ただしその食邑削減については過去の礼に則るものとする。始興郡公は県公に、廬陵郡公は柴桑県公に、始安郡公は荔浦県侯に、長沙郡公は醴陵県侯に、康楽郡公は県侯とする。各人、王導・謝安・温嶠・陶侃・謝玄を奉じ、その祭祀を執り行うようにせよ。なお義熙年間に朕と艱難を同じくした者については現状の秩禄を保持し、減封降爵は生じぬものとする」
庚午,以司空道憐為太尉,封長沙王,立南郡公義慶為臨川王。又詔論戰亡追贈及酬賞除復之科。乙亥,封皇子桂陽公義真為廬陵王,彭城公義隆為宜都王,義康為彭城王。丁丑,使使巡行四方,旌賢舉善,問人疾苦,獄訟虧濫、政刑乖愆、傷化擾俗、未允人聽者,皆具以聞。戊寅,詔疉幹永堯8扮,改晉泰始歷為永初歷,社以子,臘以辰。 
秋七月丁亥,原放劫賊餘口沒在臺府者,諸流徙之家,並聽還本。又以市稅繁苦,優量減降。從征關、洛,殞身不反者,贍賜其家。己丑,陳留王曹虔嗣薨。辛卯,復置五校三將官,疆唾耨魴外二十人,餘在員外。戊戌,征西大將軍、開府儀同三司楊盛進號車騎大將軍。甲辰,鎮西將軍李歆進號征西大將軍,平西將軍乞伏熾盤進號安西大將軍,征東將軍高句麗王高運慕棒東大將軍,鎮東將軍百濟王扶餘映進號鎮東大將軍。置東宮冗從僕射、旅賁中郎將官。戊申,遷神主於太廟,車駕親奉。壬子,詔改權制,率從邊福 
八月辛酉,詔舊郡縣以北為名者悉除之,寓立於南者,聽以南為號。戊辰,詔曰:「彭城桑梓,敦本斯隆,宜同豐、沛。其沛郡、下邳各復租布三十年。」辛未,追諡妃臧氏為敬皇后,陵曰永寧。癸酉,立王太子義符為皇太子。乙亥,赦見罪人。 
庚午、司空の劉道憐を太尉とし、長沙王に封じた。亡き司徒の劉道規を臨川王に追封した。また詔勅を下し、ここまでの軍役で戦死した者に対する追贈や褒賞等の検討が命じられた。乙亥、桂陽郡公の劉義真を盧陵王に、彭城郡公の劉義隆を宜都王に、劉裕の4男の劉義康を彭城王に封じた。丁丑、各地に大使を派遣、各地の賢人善人を推挙し、各地の苦労している点の報告、訴訟ごとに関する手違い、政治刑罰に関する手落ち、教化統治に関する妨げ、訴訟ごと裁判ごとに対する不備や職権濫用、まつりごとと刑罰まわりに関する基準の不一致、治安擾乱のもくろみごと、府が満足に民の訴え入れを聞き入れない、と言った内容を聞き取らさせた。戊寅、詔を下し百官の俸禄を増やした。己卯、晋の泰始暦を永初暦に改めた。社の祭祀を子の日に、臘の祭祀を辰の日に行った。
七月丁亥、強盗ばたらきをして処断されたものの家族で各府に収監されていたものや、遠流の処分を受けていた家門のものなどの罪が皆不問とされ、もとの土地に戻された。また市税が生活を苦しめていたため、減税を行った。関中や洛陽への遠征において戦死したり行方不明になったものが出た家に対しての補償を下した。己丑、陳留王の曹虔嗣が死亡した。辛卯、五校及び三将官を置き、殿中将軍を20人増員、他の者も員外とした。戊戌、征西大将軍、開府儀同三司の楊盛を車騎大将軍とした。甲辰、鎮西将軍の李歆を征西将軍とした。平西将軍の乞伏熾盤を安西大将軍とした。征東将軍の高韻鮴東大将軍とした。鎮東将軍の扶餘映を鎮東大将軍とした。東宮には冗從僕射、旅賁中郎将官を置いた。戊申、神主を太廟に移すと、劉裕は車駕に乗って参拝した。壬子、詔にて戦時中の仮措置を諸処改め、寛容簡易なものに変更させた。
八月辛酉、旧郡県制で地名に北が冠されていた地名については北を除き、南に新たに設置されていた地名に南と付ける形に改めた。戊辰に詔を下した。
「彭城は我が父祖の生まれ故郷であるから、特に優遇とすること豊・沛と同じくせよ。沛郡および下邳については租布30年とする」
辛未、臧愛親に敬皇后と追贈した。陵墓を永寧と号した。癸酉、劉義符を王太子から皇太子とした。乙亥、罪人を赦免した。閏月壬午、晋の皇帝らの陵墓を守る守衛の配備をあらためて命じ、また前代の賢人哲人の墓所についても掃き清め、管理するよう命じた。丁酉、林邑国より遣使、朝貢があった。九月壬子、東宮に殿中将軍10人、員外20人を配置した。壬申、都官尚書を設置した。
この年は北魏拓跋嗣の泰常五年に当たる。西涼が滅んだ歳でもある。
永初二(421)年正月辛酉、劉裕は南郊の祠を参拝、大赦を行った。丙寅、金銀の塗装を禁じた。揚州刺史、廬陵王の劉義真を司徒とし、尚書僕射、鎮軍将軍の徐羨之を尚書令、揚州刺史とした。己卯、喪事に銅釘を用いるのを禁じた。会稽郡府を解散させた。
二月己丑、劉裕は延賢堂で諸州郡の秀才、孝廉選抜試験を観覧した。倭国よりの遣使朝貢があった。三月乙丑、荊州府には将が2000人、吏が10000人を超えないよう制定していたが、さらに将500人、吏5000人以下とした。兵士についてはこの限りではなかった。四月己卯、淫祠を諸廟を撤去すべく命じた。ただし前代の賢人や、際だった徳行をなしたものを讃える祠は例外とした。戊申、華林園で聴訟した。五月己酉、東宮に屯騎・歩兵・翊軍三校尉官を置いた。七月、地震があった。
月、劉裕は華林園で聴訟した。
九月、零陵王司馬徳文が死んだ。宋の意向によるものである。劉裕は百僚を率いて朝堂にて哀悼の念を示すこと、魏の明帝が山陽公の喪に服した際の内容に則った。兼太尉に持節監護を執り行わせ、葬儀は晋の礼によって執り行われた。十月己亥、涼州胡の長たる沮渠蒙遜を鎮軍大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じた。十一月辛亥、晋恭帝を沖平陵に葬った。劉裕は百官を率い見送った。
三月,上不豫,太尉長沙王道憐、司空徐羨之、尚書僕射傅亮、領軍將軍謝晦、護軍將軍檀道濟並入侍醫藥。羣臣請祈禱神祇,上不許,惟使侍中謝方明以疾告廟而已。丁未,以廬陵王義真為侍中、車騎將軍、開府儀同三司、南豫州刺史。己未,上疾瘳,大赦。 
五月,上疾甚,召太子,戒之曰:「檀道濟雖有幹略,而無遠志,非如兄韶有難御之氣。徐羨之、傅亮當無異圖。謝晦屢從征伐,頗識機變,若有異,必此人也。小却,可以會稽、江州處之。」又為手詔:「朝廷不須復有別府,宰相帶揚州,可置甲士千人。若大臣中任要,宜有爪牙,以備不祥人者,可以臺見留隊給之。有征討,悉配以臺見軍隊,行還復舊。後世若有幼主,朝事一委任宰相,母后不煩臨朝。仗既不許入臺殿門,要重人可詳給班劍。」癸亥,上崩于西殿,時年六十。七月己酉,葬丹陽建康縣蔣山初寧陵。羣臣上諡曰武皇帝,廟號高祖。 
三年正月甲辰、大赦を行った。癸丑、尚書令・揚州刺史の徐羨之を司空・録尚書事とし、刺史の地位はそのままとした。撫軍将軍・江州刺史の王弘を衛将軍・開府儀同三司とし、太子藥の傅亮は尚書僕射に、中領軍の謝晦は領軍将軍につけられた。
二月丙戌、流星が虚宿・危宿を横切った。三月、劉裕が病を得た。太尉・長沙王の劉道憐、司空の徐羨之、尚書僕射の傅亮、領軍将軍の謝晦、護軍将軍の檀道済らが医師、薬師を伴って侍った。群臣は神祇への祈祷を行おうとしたが、劉裕は許さなかった。ただし侍中の謝方明を太廟に発し、病の報告だけはさせた。丁未、司徒、盧陵王の劉義真を車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史とした。劉裕の病状が一時回復した。己未、大赦がなされた。四月乙亥、仇池公の楊盛を武都王とした。
五月、劉裕の病状はさらに悪化した。劉義符を招き、訓戒を示す。
「檀道済に幹略はあるが、大きな戦略を描けるような人間ではない。兄の檀韶のように統御しがたい人間ではない。徐羨之や傅亮にはまず叛意などないだろう。謝晦は何度か従軍させたが、非常に機略に通じている。叛意が芽生えるとしたら、おそらくこの男からだ。会稽か江州辺りに左遷しておいた方がいいだろう」
また、手ずから詔勅を著し、示した。
「朝廷のほかに幾つも府がある必要はない。宰相には揚州刺史を兼ねさせ、甲士1000人を配備するように。要職を負う大臣に護衛が必要であれば、台より派遣させよ。征討をなす際には同じく台の兵を用い、事が済めばふたたび台に戻すこと。後世に幼主が立つようであれば、まつりごとは宰相に委ね、くれぐれも母后を臨朝させ政務を煩わせることがないように。帯刀のまま宮中に入れぬように。要職に就くものには班剣を支給せよ」
癸亥、劉裕は西殿で死んだ。60歳であった。七月、丹陽郡建康県の蔣山にある初寧陵に葬られた。群臣は諡を武皇帝と奉り、廟号を高祖とした。
上清簡寡欲,嚴整有法度,未嘗視珠玉輿馬之飾,後庭無紈綺絲竹之音。初,朝廷未備音樂,長史殷仲文以為言,帝曰:「日不暇給,且所不解。」仲文曰:「屢聽自然解之。」帝曰:「政以解則好之,故不習耳。」寧州嘗獻虎魄枕,光色甚麗,價盈百金。時將北伐,以虎魄療金創,上大,命碎分賜諸將。平關中,得姚興從女,有盛寵,以之廢事,謝晦諫,即時遣出。財帛皆在外府,內無私藏。宋臺建,有司奏東西堂施局腳牀,金塗釘,上不許。使用直腳牀,釘用鐵。廣州嘗獻入筒細布,一端八丈,帝惡其精麗勞人,即付有司彈太守,以布還之,幷制嶺南禁作此布。帝素有熱病,幷患金創,末年尤劇,坐臥常須冷物,後有人獻石牀,寢之,極以為佳,乃歎曰:「木牀且費,而況石邪。」即令毀之。制諸主出適,遣送不過二十萬,無錦繡金玉。內外奉禁,莫不節儉。性尤簡易,嘗著連齒木屐,好出神武門內左右逍遙,從者不過十餘人。時徐羨之住西州,嘗思羨之,便步出西掖門,羽儀絡驛追隨,已出西明門矣。諸子旦問起居,入閤脫公服,止著裙帽,如家人之禮焉。 
微時躬耕於丹徒,及受命,耨耜之具頗有存者,皆命藏之,以留於後。及文帝幸舊宮,見而問焉,左右以實對,文帝色慚。有近侍進曰:「大舜躬耕歷山,伯禹親事土木,陛下不覩列聖之遺物,何以知稼穡之艱難,何以知先帝之至乎。」及孝武大明中,壞上所居陰室,於其處起玉燭殿,與羣臣觀之,牀頭有土障,壁上挂葛燈籠、麻繩拂,侍中袁收鴻幣縣素之,孝武不答,獨曰:「田舍公得此,已為過矣。」故能光有天下,克成大業,盛矣哉。 
劉裕は己を厳しく律し、法度をもまた厳正に整えた。彼の馬には余計な飾り物などなく、けばけばしい楽奏などにうつつを抜かすこともなかった。その昔、朝廷に音楽が流されていなかった頃、長史の殷仲文がそのことを劉裕に告げた。「そんなものを用意する暇もなければ、そもそもわからん」と答えた。殷仲文が「聴いていればそのうち分かるようになりましょう」と説けば、劉裕は更に「まつりごとを理解し始めたところで好ましく感じるようになった。ならば音楽まで習うこともない」と答えた。
あるとき寧州から琥珀の枕が献上されたことがあった。非常にきらびやかなもので、100金分の価値はゆうにあるものだった。このとき劉裕は北伐を期していた。琥珀が刀傷によいと聞いていたため、劉裕は大喜びで枕を砕き、諸将に配った。後秦討伐の折には姚興のいとこの女性に大いに入れあげ、諸事をおろそかにこそしかけたが、謝晦に諫められると、すぐに暇を出した。財貨はすべて外府に預けており、私藏することはなかった。皇帝となったのちにも、有司より調度品に銀の塗装をなすべきであると提案されたが却下し、鉄の釘にて作成させた。広州が筒に入った細布を献上してきた。1端で8丈もの長さになる代物である。劉裕はその精緻な装飾に対して多くの労力が割かれたことを憎み、即座に有司に命じ太守を弾劾し、布についても広州に送り返させ、あわせて嶺南の地にこうした布を編むことを禁じる命を下した。劉裕はもともと熱病持ちであったが、そこに過去の刀傷が患いをもたらしていた。晩年には発熱も激しくなり、座るにも寝転ぶにも常に冷やしておかねばならない有様だった。それを知ったものが劉裕に石でできた寝床を献上した。そこに寝転んでみれば、まさしく劉裕の熱を逃がすにふさわしいものであった。しかし劉裕は「木の寝床ですら経費がかさむと言うのに、石ともなれば経費がどうなってしまうのだ」と嘆じ、その寝床を破砕させた。
劉裕は娘たちを他家に嫁がせる際にも20万銭以上の出費はしなかったし、無論錦繡金玉にて飾り立てるなどと言ったこともしなかった。内外に劉裕をいちいち奉ろうとしてくることを禁じさせ、あらゆる物事に対して節約倹約を貫かせた。そもそも何事にも簡素であることを好み、履物は常に木ゲタ、神虎門から散歩に出ることを好んだが、従者は多くとも十数人ほどであった。徐羨之が西州に住んでいたため徐羨之の家までひょっこり歩いて出たりなどもした。追従が慌てて追ったが、その時はすでに西明門から城外に出ていってしまった後だった。朝の目覚めは諸子が部屋に赴いて、と言うものだった。ひとたび公務を離れ自室に戻れば公服をなげうち、裙帽をかぶる程度、ほとんど一般人のような出立ちで家族らと親しんだ。
立身するよりもはるか以前、自ら京口にて畑を耕す生活をしていたのだが、天命を授かったのちにあってもその頃に用いていたスキやクワについてはよく手入れがなされており、そのいずれをも保管しておき、後の世にもとどめ置くよう命じていた。文帝劉義隆が劉裕の過ごした宮殿に赴いた際、残されていたスキやクワを見て、いったいどのようないわれがあるのかを質問した。側仕えたちが劉裕の意向を包み隠さず伝えると、劉義隆は大いに恥じ入ったという。そこにひとりの近似が近寄り、こう語っている。
「大いなる舜はみずから曆山を耕され、禹は方伯の立場にあって土木工事に取り組まれました。陛下におかれましては、諸聖人がたがお遺しになった諸物を目の当たりとせずして、どのようにして日銭稼ぎの難しさを、どのようにして先帝の至徳を知ること叶いましょうか」
のちの世の大明年間、孝武帝劉駿が劉裕の居室を取り壊して、その跡地に玉燭殿を建築しようと考えた。そこで群臣らとともに入ってみれば、土がむき出しの壁に、挂葛の粗末な燈籠や、麻の繩拂が掛かるのみであった。侍中の袁擇藁裕の倹素の徳をしきりに褒め称えたが、劉駿はそれには応じず、ぼそりと「田舍じじいがこのような立場を得たのか、よほどご過分であったらしいな」とつぶやいた。しかし、このようであったからこそ劉裕は天下を照らし出し、大業を成し遂げたのである。なんとも盛んなることではないか。
論曰:晉自社稷南遷,王綱弛紊,朝權國命,遞歸台輔,君道雖存,主威久謝。桓溫雄才蓋世,勳高一時,移鼎之業已成,天人之望將改。自斯以後,帝道彌昏,道子開其禍端,元顯成其釁末。桓玄乘時藉運,加以先資,革命受終,人無異望。宋武地非齊、晉,眾無一旅,曾不浹旬,夷凶翦暴,誅內清外,功格上下。若夫樂推所歸,謳歌所集,校之魏、晉,可謂收其實矣。然武皇將涉知命,弱嗣方育,顧有慈顏,前無嚴訓。少帝體易染之質,稟可下之姿,外物莫犯其心,所欲必從其志,嶮縱非學而能,危亡不期而集,其至顛沛,非不幸也。 
論を申し上げる。
晋が江南に逃げ込んでより、帝による統治は緩み廃れ、宰相たちが天命を支えねばならない状況が続いた。確かに君主は尊重こそされてはいたが、それはあくまで権臣の顔色伺いの上に成立していた。中でも、桓温の雄才は天下を覆わんばかりであり、その功績の高さのゆえに、ひとときは国の鼎が移りかけ、天も人も禅代を受け入れかけさえした。ここを起点として晋の命運はいよいよ暗雲の只中に入り、司馬道子が禍の端緒をひらけば、司馬元顕が君臣の紐帯を大いに引き裂いた。こうした情勢に桓玄が付け入った。ただでさえ桓玄には父より継承した勢力があり、この革命が起こることそのものに対し、あり得ぬことと思うものはいなかったであろう。
宋高祖に斉桓公や晋文公のような勢力基盤はなく、その隷下にはまともな兵力もなかった。そんな高祖がいちど決起すれば10日とたたずして凶徒を平らげ暴君を討ち、内悪を誅し外敵を粛清した。その功績は、まさに天地の神にすら轟いた、と言えよう。民よりの心よりの推戴を受け、また歌にもその功績が讃えられた。魏や晋の建立と較べれば、そこには確かな実功を収めていた、と言える。
しかしながら武皇は天命を承りながらも、幼子の育成にあたってはただ甘やかすのみであり、未来を見据えた厳しき訓示をもたらすことがなかった。少帝はまわりに染まりやすく、中でも低流の者たちのありようを良しとした。この姿勢を誰も矯正することができず、結果その望むところが全て叶う環境下にしかおれなかった。危地は学ばぬものをこそ襲い、破滅は警戒せぬものにこそ集う。やがて劉義符は廃し殺されるのだが、これをどこまで単なる不幸である、と片付けられようか。
ただ、悲しいことだ、と言うしかないのである。

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