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宋書武帝紀 上

出自〜400年

高祖武皇帝諱裕,字輿,小名寄奴,彭城縣綏輿里人,漢高帝弟楚元王交之後也。交生紅懿侯富,富生宗正辟彊,辟彊生陽城繆侯,生陽城節侯安民,安民生陽城釐侯慶忌,慶忌生陽城肅侯岑,岑生宗正平,平生東武城令某,某生東萊太守景,景生明經洽,洽生博士弘,弘生瑯邪都尉悝,悝生魏定襄太守某,某生邪城令亮,亮生晉北平太守膺,膺生相國掾熙,熙生開封令旭孫。旭孫生混,始過江,居晉陵郡丹徒縣之京口里,官至武原令。混生東安太守靖,靖生郡功曹翹,是為皇考。高祖以晉哀帝興寧元年歲次癸亥三月壬寅夜生。及長,身長七尺六寸,風骨奇特。家貧,有大志,不治廉隅。事繼母以孝謹稱。

 南朝宋の建立を果たした高祖、武皇帝。姓は劉、諱は裕。字は徳輿、小名は寄奴である。徐州彭城郡彭城県綏輿里を本籍とする。漢の高帝劉邦の弟、楚元王劉交の子孫である。劉裕に至るまでの系譜は以下のとおりである。紅懿侯・劉富、宗正・劉辟彊、陽城繆侯・劉徳、陽城節侯・劉安民、陽城釐侯・劉慶忌、陽城粛侯・劉岑、宗正・劉平、東武城令の某人、東萊太守・劉景、明経・劉洽、博士・劉弘、瑯邪都尉・劉悝、魏の定襄太守の某人、邪城令・劉亮、西晋の北平太守・劉膺、相国掾・劉熙、開封令・劉旭孫、そして劉混。劉混の時代にはじめて長江を渡り、揚州晋陵郡丹徒県京口里に住まい、武原令となった。以降東安太守劉靖、郡功曹劉翹と続く。劉翹が劉裕の父である。劉裕は晋の哀帝の時代、興寧元(363)年三月壬寅の夜に生まれた。成長すると身長7尺6寸となり、その体格は人並みはずれていた。家は貧しかったが大志を抱き、細やかな礼儀作法にはこだわらなかった。義母にはよく孝行を尽くすということで評判であった。

初為冠軍孫無終司馬。安帝隆安三年十一月,妖賊孫恩作亂於會稽,晉朝衞將軍謝琰、前將軍劉牢之東討。牢之請高祖參府軍事。十二月,牢之至吳,而賊緣道屯結,牢之命高祖與數十人覘賊遠近。會遇賊至,眾數千人,高祖便進與戰。所將人多死,而戰意方辧ぜ衒劃硬瓠そ蟷傷甚眾。牢之子敬宣疑高祖淹久,恐為賊所困,乃輕騎尋之。既而眾騎並至,賊乃奔退,斬獲千餘人,推鋒而進,平山陰,恩遁還入海。

 はじめ、冠軍将軍孫無終の司馬となった。隆安三(399)年十一月、五斗米道の教主である孫恩が会稽にて乱を起こすと、晋は衛将軍謝琰、前将軍劉牢之を鎮圧のため派遣した。劉牢之は劉裕に参軍となるよう要請した。十二月、劉牢之が呉に到着すると、敵軍が道沿いに陣を張っていた。劉牢之は劉裕に数十人をつけ、偵察を命じた。五斗米道軍は数千人ほどの規模であった。偵察の途中で発見されてしまったため、劉裕は進み出、戦った。手勢の多くがこの戦いで殺されたが、劉裕の戦意は衰えず、むしろますます盛んとし、手ずから長刀を振るい、多くの敵を斬り倒した。劉牢之の子の劉敬宣は劉裕の偵察が長引いていることを不審に思い、「これは敵軍に襲撃されているのではないか」と、軽騎を率いて偵察先に赴いた。劉敬宣の手勢がやってきたのを見ると五斗米道軍は逃走を開始した。劉敬宣は追撃をかけ、斬った者や捕獲した者は1000人余りを数えた。劉裕らはそのまま突き進み、会稽郡山陰県を平定。孫恩は海上の島に逃れた。

四年五月,恩復入會稽,殺衞將軍謝琰。十一月,劉牢之復率眾東征,恩退走。牢之屯上虞,使高祖戍句章城。句章城既卑小,戰士不盈數百人,高祖常被堅執銳,為士卒先,每戰輒摧鋒陷陣,賊乃退還浹口。于時東伐諸帥,御軍無律,士卒暴掠,甚為百姓所苦。唯高祖法令明整,所至莫不親鰡瓠

 隆安四(400)年五月、孫恩は会稽を襲撃し、謝琰を殺害した。十一月、劉牢之がふたたび鎮圧に動いたため、孫恩は撤退した。劉牢之は上虞に駐屯し、海沿いの防備を固めた。劉裕は句章に配置された。句章城は小さく、配下兵も100人にも届かない。このため劉裕は常に自ら武器防具で身を固め、兵らの先頭に立ち、敵陣を次々と落としていった。五斗米道軍は浹口まで引き返した。このとき五斗米道軍の鎮圧に出向いた官軍は軍紀も徹底されておらず、兵らによる略奪行為も起こっていた。地元の民はむしろ官軍に苦しめられる有様であったが、劉裕の部隊のみは軍法、命令系統も徹底されており、出向いた各所で歓迎を受けないことがなかった。


401(隆安5)年

五年春,孫恩頻攻句章,高祖屢摧破之,恩復走入海。三月,恩北出海鹽,高祖追而翼之,築城于海鹽故治。賊日來攻城,城內兵力甚弱,高祖乃選敢死之士數百人,咸脫甲冑,執短兵,並鼓噪而出,賊震懼奪氣,因其懼而奔之,並棄甲散走,斬其大帥姚盛。雖連戰剋勝,然眾寡不敵,高祖獨深慮之。一夜,偃旗匿眾,若已遁者。明晨開門,使羸疾數人登城。賊遙問劉裕所在。曰:「夜已走矣。」賊信之,乃率眾大上。高祖乘其懈怠,奮擊,大破之。恩知城不可下,乃進向滬瀆。高祖復棄城追之。海鹽令鮑陋遣子嗣之以吳兵一千,請為前驅。高祖曰:「賊兵甚精,吳人不習戰,若前驅失利,必敗我軍。可在後為聲援。」不從。是夜,高祖多設伏兵,兼置旗鼓,然一處不過數人。明日,賊率眾萬餘迎戰。前驅既交,諸伏皆出,舉旗鳴鼓。賊謂四面有軍,乃退。嗣之追奔,為賊所沒。高祖且戰且退,賊盛,所領死傷且盡。高祖慮不免,至向伏兵處,乃止,令左右脫取死人衣。賊謂當走反停,疑猶有伏。高祖因呼更戰,氣色甚猛,賊眾以為然,乃引軍去。高祖徐歸,然後散兵稍集。五月,孫恩破滬瀆,殺吳國內史袁山松,死者四千人。是月,高祖復破賊於婁縣。

 隆安五年春、孫恩は句章城をしきりに攻め立てるも、劉裕はその全てを跳ね返した。孫恩はふたたび逃亡した。
 三月、孫恩は句章の北の海塩に向かった。劉裕もまた海塩に出向き、守備の援護に回った。海塩は治所を移していたため、もと治所があった場所に別に砦を築いた。五斗米道軍は日々砦に襲いかかるも、城内の兵力ははなはだこころもとない。やがて劉裕は決死隊数百人を選び出し、みなで甲冑を脱ぎ、剣のみを携え、太鼓を叩き、雄叫びを上げながら敵軍に踊りかかった。勢いを恐れた五斗米道軍は腰砕けとなり、あるいは鎧を捨てて逃げ出すものも現れた。この戦いにて劉裕軍は五斗米道の大幹部たる姚盛を討ち取った。ただし勝ち続けているとはいえ敵は多勢であり、いつまでも持ち堪えられるものではない。劉裕はどう打開したものかと思案に暮れた末、ある夜、旗を下ろさせ、兵たちを隠れさせ、敵前逃亡があったと見せかけた。さらに明け方に城門を開け放ち、城壁の上には負傷者や病人を配置した。五斗米道のものが遠方より「劉裕はどうしたのだ」と問えば、砦のものには「夜に逃げ出しました」と答えさせる。五斗米道軍はその言葉を信じ、砦に向け進軍した。劉裕は敵軍の戦意が弛緩し切ったのを見て取り打って出、大破した。孫恩は海塩攻めを諦め、北の滬瀆に向かった。劉裕も砦を捨て、孫恩を追った。
海塩令の鮑陋は息子の鮑嗣之に地元民で構成された兵1000を預けて劉裕に同行させた。鮑嗣之が劉裕に先鋒を任せてほしい、と頼み込んできたので、劉裕は答える。
「奴らは精兵である。呉のひとは戦慣れしていない、もし先鋒が破られでもしようものなら、我が軍は負ける。後ろに付き、応援をしていただきたい」
鮑嗣之が聞き入れなかったため、劉裕は五斗米道軍との接敵前夜に多くの伏兵を配備し、合わせてそれぞれに旗と太鼓とを持たせた。ただし1ヶ所に配する兵は多くて数人ほどであった。翌朝、五斗米道軍は数万もの規模で現れた。先鋒が接敵したところで劉裕は各所の伏兵たちに旗を掲げ、太鼓を叩かせた。五斗米道軍は四方を囲まれていると思い込み、軍を引いた。鮑嗣之は追撃を試みたが、却って討ち取られた。これで勢いを取り戻した五斗米道軍は反転、攻勢に出る。劉裕は戦っては退き、を繰り返したが、敵軍の勢いは増すばかり。劉裕が預かった兵たちも次々に傷つき倒れてゆく。劉裕はこのままでは逃れきれないと悟り、はじめに接敵した場所まで駆け戻り、その場に転がっていたいくつかの死体の装備を解かせた。五斗米道軍たちは逃げようとしていた者たちがその場に留まり続けているのを見て、なおもこの場に伏兵がいるのではないか、と疑った。果たして劉裕が鬨の声を上げ、反攻に出る。その勢いの凄まじさを見て、五斗米道軍はその予断が正しかったのだと判断し、撤収した。劉裕は敵の撤収を見届けたあと、散り散りとなった兵力を回収して回った。
 滬瀆は結局五月に陥落し、呉国内史袁山松が殺された。死者は4000人にのぼった。一方の劉裕は婁県にて五斗米道軍を打ち破っている。

六月,恩乘勝浮海,奄至丹徒,戰士十餘萬。劉牢之猶屯山陰,京邑震動。高祖倍道兼行,與賊俱至。于時眾力既寡,加以步遠疲勞,而丹徒守軍莫有鬭志。恩率眾數萬,鼓噪登蒜山,居民皆荷擔而立。高祖率所領奔擊,大破之,投巘赴水死者甚眾。恩以彭排音敗自載,僅得還船。雖被摧破,猶恃其眾力,徑向京師。樓船高大,值風不得進,旬日乃至白石。尋知劉牢之已還,朝廷有備,遂走向鬱洲。八月,以高祖為建武將軍、下邳太守,領水軍追討至鬱洲,復大破恩。恩南走。十一月,高祖追恩於滬瀆,及海鹽,又破之。三戰並大獲,俘馘以萬數。恩自是饑饉疾疫,死者太半,自浹口奔臨海。

 六月、袁山松を敗死させた勢いに乗り、孫恩は10万あまりからなる兵力にて京口を包囲した。このとき劉牢之はいまだ会稽に駐屯しており、救援に駆けつけられる状態ではなかった。この報せに建康の士庶は恐れおののいていた。劉裕は寝る間も惜しんで急行し、京口に五斗米道軍とほぼ同じタイミングで到着した。とはいえ敵は多勢であり、ただでさえ少なかった劉裕の配下も、ここまでの戦いによって削られていた。しかも兵士たちの疲労は頂点にあり、京口の守備隊もほぼ防衛を諦めるような状況にあった。孫恩は数万の配下を従え、鼓を打ち、鬨の声を上げながら蒜山に登る。京口の人々も、孫恩に否応なく荷物を担がされ、付き従わされた。劉裕は配下に号令をかけ、五斗米道軍を強襲。その手勢を大破し、孫恩の軍に駆け寄りざま瞬く間に撃破、このとき崖から川に身を投げて死んだ者が多く出た。孫恩は人々が水面に激突する音を聞いて敗北を悟り、僅かな手勢とともに船へと逃げ帰った。しかし孫恩は敗れてもなお兵力が持つ勢いを恃みに建康へと向かった。孫恩の乗るやぐら船は非常に大きかったため、向かい風にあってうまく進めなくなり、10日ばかりしてようやく白石に到着した。その頃にはすでに劉牢之も都へと帰還し、防備体制を整えていた。孫恩は都への進撃をあきらめ、鬱洲へと逃亡した。
 八月、劉裕は建武将軍・下邳太守に任命された。水軍を率いて鬱洲へ出向き、孫恩を散々に打ち負かし南方へと追いやった。劉裕は追撃の手を緩めず、十一月には滬瀆と海塩でそれぞれ大打撃を与えた。3度の戦いで多くの捕虜を得、多くの首級を挙げた。逃亡を続ける孫恩の手勢には飢えや疫病などの追い討ちも加わり、半ば以上のものが死んだ。孫恩は浹口を経て臨海へと逃れた。


402(元興元)年

元興元年正月,驃騎將軍司馬元顯西伐荊州刺史桓玄,玄亦率荊楚大眾,下討元顯。元顯遣鎮北將軍劉牢之拒之,高祖參其軍事。次溧洲。玄至,高祖請擊之,不許,將遣子敬宣詣玄請和。高祖與牢之甥東海何無忌並固諫,不從。遂遣敬宣詣玄。玄剋京邑,殺元顯,以牢之為會稽內史。懼而告高祖曰:「便奪我兵,禍其至矣。今當北就高雅於廣陵舉事,卿能從我去乎?」答曰:「將軍以勁卒數萬,望風降服。彼新得志,威震天下。三軍人情,都已去矣,廣陵豈可得至邪!裕當反服還京口耳。」牢之叛走自縊死。何無忌謂高祖曰:「我將何之?」高祖曰:「鎮北去必不免,卿可隨我還京口。桓玄必能守節北面,我當與卿事之;不然,與卿圖之。今方是玄矯情任算之日,必將用我輩也。」桓玄從兄脩以撫軍鎮丹徒,以高祖為中兵參軍,軍、郡如故。

 元興元年一月、驃騎将軍司馬元顕が荊州刺史桓玄を討つため兵を挙げた。桓玄もまた荊州および江陵の軍勢を率い長江を下り、司馬元顕の迎撃に乗り出した。司馬元顕側の大将は劉牢之だったが、このとき劉裕も劉牢之軍の幕佐に加わっていた。両軍は溧洲にて相対した。劉裕は攻撃許可を求めたが受け入れられず、それどころか劉牢之は桓玄との講和を考えた。劉裕と劉牢之の甥の何無忌が懸命にそれを諌めたが、結局劉牢之は劉敬宣を桓玄の元に使者として派遣した。桓玄は建康を落とし、司馬元顕を殺した。この後劉牢之は会稽内史に任ぜられた。ここに来て劉牢之はようやく桓玄の意図に気付き、劉裕に言う。
「こうもすぐさまわしの兵が奪われたのだ、間も無く災いが降り掛かろう。高雅が広陵で挙兵するというので、それにつこうと思っている。劉裕よ、わしについてきてくれるか?」
 劉裕は答える。
「将軍は数万もの精兵とともに桓玄に降りました。桓玄はこれによって大きな力を得て野望を達成し、天下を震わせるに至ったのです。すでに兵たちの心はみな、将軍より離れております。これでは広陵にたどり着くこととて叶いますまい! この劉裕、もはや将軍の元より離れ、京口に戻りたく考えております」
 劉牢之は叛旗こそ掲げたものの結局兵力もろくに集めることかなわず逃げ出し、そして首を吊って死んだ。
 何無忌が劉裕に尋ねる。
「私はどうしたらよいのだろう」
「劉牢之将軍が亡くなったとはいえ、桓玄がそなたを見逃すとも思えん。そなたは俺と一緒に京口に帰るべきだろう。桓玄がもし北面の節を貫くというのであれば仕えていればよく、そうでなかったら打倒を計画すればよい。いま桓玄がこの先どのように動くかをさまざまに計算していることだろうが、どのみち我らの力は必須となるのだ」
 桓玄が従兄弟の桓修を撫軍将軍として京口に配属させると、劉裕は桓修の中兵参軍として取り立てられた。建武将軍・下邳太守の地位は保たれたままだった。

孫恩自奔敗之後,徒旅漸散,懼生見獲,乃於臨海投水死。餘眾推恩妹夫盧循為主。桓玄欲且緝寧東土,以循為永嘉太守。循雖受命,而寇暴不已。五月,玄復遣高祖東征。時循自臨海入東陽。

 孫恩は敗走し南下するうち付き従う者も徐々に散り散りとなり、遂には見つかって捕まるのを恐れ、臨海で海に身を投げて死んだ。残された者たちは孫恩の妹婿盧循を主として推戴した。桓玄は建康以東の地の動乱をどうにか鎮静化させようと、盧循を永嘉太守に任じた。しかし盧循は拝命しながらも反乱を収めようとはしなかった。そこで桓玄は五月、劉裕に鎮圧を命じた。このとき盧循は臨海から東陽に進出していた。

403(元興2)年

二年正月,玄復遣高祖破循於東陽。循奔永嘉,復追破之,斬其大帥張士道,追討至于晉安,循浮海南走。六月,加高祖彭城內史。

 元興二年一月、桓玄はふたたび劉裕を派遣し、東陽で盧循を破った。盧循は永嘉へと逃れたが劉裕は追撃の手を緩めず、軍団長のひとり張士道を斬った。追撃の手は晋安にまで伸び、盧循は船に乗って南へと逃れた。六月、劉裕には彭城内史の地位が加えられた。

桓玄為楚王,將謀篡盜。玄從兄衞將軍謙屏人問高祖曰:「楚王勳隆重,四海歸懷。朝廷之情,咸謂宜有揖讓,卿意以為何如?」高祖既志欲圖玄,乃遜辭答曰:「楚王,宣武之子,勳蓋世。晉室微弱,民望久移,乘運禪代,有何不可。」謙喜曰:「卿謂可爾,便當是真可爾。」十二月,桓玄篡帝位,遷天子於尋陽。桓脩入朝,高祖從至京邑。玄見高祖,謂司徒王謐曰:「昨見劉裕,風骨不恒,蓋人傑也。」每遊集,輒引接慇懃,贈賜甚厚。高祖愈惡之。或說玄曰:「劉裕龍行虎步,視瞻不凡,恐不為人下,宜蚤為其所。」玄曰:「我方欲平蕩中原,非劉裕莫可付以大事。關、隴平定,然後當別議之耳。」玄乃下詔曰:「劉裕以寡制眾,屢摧妖鋒。汎海窮追,十殄其八。諸將力戰,多被重創。自元帥以下至于將士,並宜論賞,以敍勳烈。」

 桓玄は楚王となり、いよいよ簒奪の意図を明らかとした。桓玄の従兄弟である桓謙が人払いをした後劉裕に問う。
「楚王はいまや天下一の徳をそなえ、もはや彼のお方に従わぬものはない。朝廷内でも皆そろそろ晋帝も帝位を楚王に譲るべきではないか、と考え始めているようだ。この件についてそなたはどのように思う?」
 このとき劉裕はすでに桓玄打倒の意図を固めていたのだが、その問いには恭しく答える。
「楚王は宣武公のお子として、その威徳もあまねく世に浸透しております。対して晋室の威厳ははなはだ微弱であります。民とて禅位の儀がなるのを久しく待ち望んでおりましょう。王がその流れに乗るのに、何の不都合がありましょうか」
 桓謙は喜び、言う。
「貴公が大丈夫だと思うのであれば、これはもうまことのこと、と言うべきであるな」
 十二月、ついに桓玄は簒奪をなし、安帝を尋陽へと遷した。桓修が入朝すると、劉裕は桓修に従って建康に入った。桓玄は劉裕を見ると、司徒の王謐に言う。
「昨日劉裕を見たのだが、いかにも只者でない風貌であった。きっと人傑とはあのような者の事を言うのだろうな」
 後日宴会やらで劉裕が招集されたとき、つねに桓玄の態度は慇懃であり、また種々の贈り物についても膨大な量となった。しかし劉裕はそういった桓玄の態度にいよいよ嫌悪を募らせた。ある者が桓玄に言う。
「劉裕はまさしく龍虎の歩むがごときが存在、目つきからしてただ者ではなく、およそ人の下につくとは思えません。早めに動かれたほうがよいのでは?」
 桓玄は答える。
「わしは中原も平定したいのだ。劉裕なしでこの大事業はなしえまい。関中の平定がなってから考えればよい」
 桓玄は以下のように劉裕に詔勅を下す。
「貴公は少を以て多を制し、五斗米道をことごとく打ち破った。しかも海にまで追い詰め、十のうち八もを葬った。諸将も力戦し、怪我などを負ったものも多かろう。貴公以下部下たちの功績を検証の上、厚く讃えるものである」

先是高祖東征盧循,何無忌隨至山陰,勸於會稽舉義。高祖以為玄未據極位,且會稽遙遠,事濟為難,俟其篡逆事著,徐於京口圖之,不憂不剋。至是桓脩還京,高祖託以金創疾動,不堪步從,乃與無忌同船共還,建興復之計。於是與弟道規、沛郡劉毅、平昌孟昶、任城魏詠之、高平檀憑之、琅邪諸葛長民、太原王元、隴西辛扈興、東莞童厚之,並同義謀。時桓脩弟弘為征虜將軍、青州刺史,鎮廣陵。道規為弘中兵參軍,昶為州主簿。乃令毅潛往就昶,聚徒於江北,謀起兵殺弘。長民為豫州刺史刁逵左軍府參軍,謀據歷陽相應。元、厚之謀於京邑聚眾攻玄,並剋期齊發。

 桓玄による簒奪がなされるより以前のこと、劉裕が盧循を征伐するため何無忌とともに山陰へといたったとき、何無忌が会稽で挙兵してはどうか、と持ちかけてきた。劉裕は桓玄がいまだ簒奪をなしていないこと、また会稽が建康から遠いこと、といった理由を挙げ、ここで事を起こしても成し遂げるのは難しいと答えた。桓玄が簒意を明らかとしたところで京口でいきなり決起すれば、失敗する恐れも無いだろう、というのである。ここにきて桓修が都へと戻った。すかさず劉裕は古傷が痛み出し、桓修に付き従うのが難しいと偽り、何無忌とともに舟で京口へと戻り、晋室復興の計画を立ち上げた。この計画には劉裕の弟の劉道規、沛郡の劉毅、平昌の孟昶、任城の魏詠之、高平の檀憑之、琅邪の諸葛長民、太原の王睿、隴西の辛扈興、東莞の童厚之らが参画した。この当時、桓修の弟の桓弘が征虜将軍・青州刺史として広陵に封ぜられていた。そこには劉道規が中兵参軍として、孟昶が州主簿としてそれぞれ幕僚に加わっていた。そこで劉裕は劉毅に命じて孟昶とひそかに連絡を取らせ、長江の北岸で兵力を集め、起兵して桓弘を倒すよう申し伝えた。諸葛長民は豫州刺史刁逵の左軍府参軍となっていたので、暦陽で挙兵させる事にした。王睿および童厚之は建康で兵を集め、桓玄を攻めさせるようにした。そしてこれらの挙兵が一斉に起こるよう示し合わせるのだった。

404(元興3)年

三年二月己丑朔,乙卯,高祖託以遊獵,與無忌等收集義徒,凡同謀何無忌、魏詠之、詠之弟欣之、順之、檀憑之、憑之從子韶、韶弟祗、隆、道濟、道濟從兄範之、高祖弟道憐、劉毅、毅從弟藩、孟昶、昶族弟懷玉、河內向彌、管義之、陳留周安穆、臨淮劉蔚、從弟珪之、東莞臧熹、從弟寶符、從子穆生、童茂宗、陳郡周道民、漁陽田演、譙國范清等二十七人;願從者百餘人。丙辰,詰旦,城開,無忌服傳詔服,稱詔居前。義眾馳入,齊聲大呼,吏士驚散,莫敢動,即斬脩以徇。高祖哭甚慟,厚加殯斂。孟昶勸弘其日出獵。未明開門,出獵人,昶、道規、毅等率壯士五六十人因開門直入。弘方噉粥,即斬之,因收眾濟江。

 元興三年二月初日、己丑の日、劉裕は狩猟に出かける振りをして何無忌とともに兵を召集した。なおこの謀議に加わったのは劉裕と何無忌のほか、以下の26名が挙げられている。魏詠之・魏欣之・魏順之の3兄弟。檀憑之とその甥である檀韶・檀祗・檀隆・檀道済の4兄弟、別筋の甥、檀範之。劉裕の弟、劉道憐。劉毅とその従兄弟、劉藩。孟昶とそのはとこ、孟懐玉。向靖。管義之。周安穆。劉蔚及びその従兄弟、劉珪之。臧熹およびその従兄弟の臧宝符、甥の臧穆生。童茂宗。周道民。丙辰の日の朝に集団は京口府の前に姿を現した。集団の中で何無忌は朝服を身にまとい「勅使である」と称して衛兵に門を開けさせた。そこに兵たちがなだれ込み、場内で一斉に大声を張り上げた。すると城内にいた官吏たちは驚き、散り散りに逃げ出した。抵抗を試みる者もなく、たちまち桓修は斬って捨てられた。敵味方になったとはいえ劉裕に取り桓修はいちど仕えた主、殺さねばならなかったことに対し劉裕は深く悲しみ、その遺体を手厚く葬ることにした。
 同日広陵では、孟昶が桓弘に猟に出かけてはどうかと勧めていた。そこで桓弘は未明に門を開け放ち、先に勢子らを出発させた。その空いた門に向け、孟昶、劉道規、劉毅らの率いる50から60名ほどの兵士たちが府の内部へと入り込んだ。桓弘はそのとき粥を啜っており、抵抗する暇もなく斬られた。その後孟昶達は手勢を引き連れて長江を渡った。

義軍初剋京城,脩司馬刁弘率文武佐吏來赴。高祖登城謂之曰:「郭江州已奉乘輿反正於尋陽,我等並被密詔,誅除逆黨,同會今日。賊玄之首,已當梟於大航矣。諸君非大晉之臣乎,今來欲何為?」弘等信之,收眾而退。毅既至,高祖命誅弘。

 劉裕らが京口の城を落とすと桓修の司馬である刁弘が文官や武官、佐吏などを連れてやって来た。劉裕は城壁から刁弘らを睥睨し、言う。
「すでに天子は郭昶之殿に助けられ、いま尋陽より戻られつつある。我等はみな密かに天子よりの勅を賜り、逆賊どもを打ち果たさんとこの場にやって来た者だ。逆臣桓玄の首ももはや船にてここへと運ばれている最中。諸君らは晋の臣ではなかったはずだな。何のためにこんなところにやってきた?」
 刁弘らはこの空言を信じ込み、手勢を連れて退散した。劉毅らが広陵からはせ参じると、劉裕は直ちに刁弘らを誅滅するよう命じた。

毅兄邁先在京師,事未發數日,高祖遣同謀周安穆報之,使為內應。邁外雖酬許,內甚震懼。安穆見其惶駭,慮事必泄,乃馳歸。時玄以邁為竟陵太守,邁不知所為,便下船欲之郡。是夜,玄與邁書曰:「北府人情云何?卿近見劉裕何所道?」邁謂玄已知其謀,晨起白之。玄驚懼,封邁為重安侯;既而嫌邁不執安穆,使得逃去,乃殺之。誅元、扈興、厚之等。召桓謙、卞範之等謀拒高祖。謙等曰:「亟遣兵擊之。」玄曰:「不然。彼兵速銳,計出萬死。若行遣水軍,不足相抗,如有蹉跌,則彼氣成而吾事敗矣。不如屯大眾於覆舟山以待之。彼空行二百里,無所措手,銳氣已挫,既至,忽見大軍,必驚懼駭愕。我案兵堅陣,勿與交鋒,彼求戰不得,自然散走。此計之上也。」謙等固請,乃遣頓丘太守吳甫之、右衞將軍皇甫敷北拒義軍。玄自聞軍起,憂懼無復為計。或曰:「劉裕等眾力甚弱,豈辦之有成,陛下何慮之甚。」玄曰:「劉裕足為一世之雄;劉毅家無擔石之儲,摴蒲一擲百萬;何無忌,劉牢之甥,酷似其舅。共舉大事,何謂無成。」

 劉毅の兄劉邁が建康にいた。義軍が立つその数日前、劉裕は同志の周安穆にこのことを伝え、内応するよう働きかけさせた。劉邁はいったん応じるそぶりこそしたものの、内心では激しく動揺していた。周安穆はその様子を見て、これは劉邁から露見するだろうと確信し、すぐさま京口へと帰還した。その頃桓玄は劉邁を竟陵太守に任じようと考えていたのだが、劉邁は桓玄の思考も、周辺の状況も把握しきれなかったため不安に陥り、とにかく故郷に戻りたい、と考えていた。そうしたところに桓玄よりの書状が届く。
「北府の様子はどのようであろうか。そう言えば、そなたはどこかで劉裕殿が何を語ったか聞き及んでおるか?」
 この書面から、劉邁は桓玄が既にこの謀事に気付いてるのだと思い込み、翌朝には桓玄にすべてを打ち明けてしまった。桓玄は驚愕したが、密告の功から劉邁を重安侯に封じた。しかし周安穆を捕えることができず逃がしてしまったことを知り、すぐさま劉邁を殺した。また、合わせて王睿・辛扈興・童厚之も殺した。
 桓玄は桓謙、卞範之らを招集し、どう劉裕を防ぐかを協議する。
「速やかに派兵して攻めるべきです」
「駄目だ。劉裕軍は精強だ。打って出れば万余が死ぬことになる。もし水軍を派兵しても、まともに抵抗もできるまい。あまりにも情勢が、やつらに味方しすぎている。ならば我らは、覆舟山に大軍を配し、劉裕の軍を待ち受けるほうがまだマシなのであろう。奴らに二百里をいたずらに進ませ、その鋭気をくじいた先に、いきなり大軍が現れれば、奴らも慌てふためこう。堅固な陣を敷き、交戦せず、戦いを挑まれても応じずにおれば、やつらとていつまでも旗を振り続けてはおれまい。これが上計である」
 しかし桓謙らがしきりに要請をかけたので、頓丘太守の呉甫之および右衛将軍の皇甫敷を派出した。
 桓玄は劉裕の決起以来、怯え上がり、まともな算段も取れずにいた。
「劉裕どもの手勢ははなはだ弱く、到底その野心をなし遂げられるとも思えませぬ。陛下はなぜそうも恐れられるのですか?」
「劉裕は一世の雄と呼ぶに足る男、劉毅は家財もまともに持たぬのに平然と博打で百万もの財貨を投じることのできる度胸を持った男。そして何無忌は劉牢之の甥だが、その才覚はひどく叔父譲りである。これらが共に立ち上がったのだ、どうしてなし遂げられぬなどと言うことがあるのだ」

眾推高祖為盟主,移檄京邑,曰:
夫治亂相因,理不常泰,狡焉肆虐,或值聖明。自我大晉,陽九屢構,隆安以來,難結皇室,忠臣碎於虎口,貞良弊於豺狼。逆臣桓玄,陵虐人鬼,阻兵荊郢,肆暴都邑。天未亡難,凶力繁興,踰年之間,遂傾皇祚。主上播越,流幸非所,神器沉淪,七廟毀墜。夏后之罹浞、豷,有漢之遭莽、卓,方之於玄,未足為喻。自玄纂逆,于今歷年,亢旱彌時,民無生氣。加以士庶疲於轉輸,文武困於造築,父子乖離,室家分散,豈唯大東有杼軸之悲,摽梅有傾筐之塈而已哉。仰觀天文,俯察人事,此而能久,孰有可亡。凡在有心,誰不扼腕。裕等所以叩心泣血,不遑啟處者也。是故夕寐宵興,援獎忠烈,潛搆崎嶇,險過履虎。輔國將軍劉毅、廣武將軍何無忌、鎮北主簿孟昶、兗州主簿魏詠之、寧遠將軍劉道規、龍驤將軍劉藩、振威將軍檀憑之等,忠烈斷金,精貫白日,荷戈奮袂,志在畢命。益州刺史毛璩,萬里齊契,掃定荊楚。江州刺史郭昶之,奉迎主上,宮于尋陽。鎮北參軍王元等,並率部曲,保據石頭。揚武將軍諸葛長民,收集義士,已據歷陽。征虜參軍庾賾之等,潛相連結,以為內應。同力協規,所在蜂起,即日斬偽徐州刺史安城王脩、青州刺史弘首。義眾既集,文武爭先,咸謂不有一統,則事無以輯。裕辭不獲已,遂總軍要。庶上憑祖宗之靈,下罄義夫之力,剪馘逋逆,蕩清京輦。公侯諸君,或世樹忠貞,或身荷爵寵,而並俛眉猾豎,自効莫由,顧瞻周道,寧不弔乎!今日之舉,良其會也。裕以虛薄,才非古人,勢接於已踐之機,受任於既頹之運。丹誠未宣,感慨憤躍,望霄漢以永懷,眄山川以癨辧授檄之日,神馳賊廷。
以孟昶為長史,總攝後事;檀憑之為司馬。百姓願從者千餘人。

 人々は劉裕を盟主とした。檄文にはこのように記されている。
「治と乱とは互いを原因とする。世の理として、常に安定を保つのは難しいものである。狡き者も、ある時は悪として扱われるが、ある時は聖明として扱われもする。我らが大いなる晋国においても陽九がしばしば生じ、今上の陛下がお立ちになられてより、皇室は司馬道子、元顕にほしいままとされ、忠臣は虎口に噛み砕かれ、貞良なる者は豺狼のごとき者がらに虐げられてきた。中でも、逆臣桓玄。祖先の霊を虐げ、荊州は郢の都に集めた兵力により、建康を荒らして回っている。天はいまだ亡び去ってこそおらぬが、凶力は繁興し、そして年が明ければ、遂には簒奪の大逆がなされた。帝は辺鄙な地へと追いやられ、神器の権威は失墜し、皇室の御霊屋は打ち壊された。夏の時代には寒浞やその息子の豷が、漢の時代には王莽や董卓があらわれたが、桓玄の悪事たるや、これらを足してもまだ足りるものではない。
 桓玄が纂逆して後の日々、旱魃がうち続き、民からは生気が失われている。しかも度重なる土木工事にて士庶は疲弊し、文武百官は宮殿建造に苦しめられ、父と子は離れ離れとなり、本家分家も結束を断たれた。このような悲劇、大東に言う杼軸の悲、摽梅に言う傾筐の塈と比喩するのすら生温いではないか。天文を仰ぎ見、人事を俯して眺めれば、ここまでは耐え忍んでこそいるものの、やがての衰亡は免れ得まい。およそ心あるものであれば、誰もが扼腕せずにおれぬ。我々は叩心泣血し、心やすらう事もなかった。ゆえに宵闇に紛れて忠烈の徒を支援し、伏して大過をしのぎ、事が漏れぬよう慎重にことを進めた。
 輔国将軍の劉毅、広武将軍の何無忌、鎮北主簿の孟昶、兗州主簿の魏詠之、寧遠将軍の劉道規、龍驤将軍の劉藩、振威将軍の檀憑之ら。その壮烈なる忠義心は鉄をも断ち、気力は太陽にまで届き、戈を担い袖を振るい、命尽きてもこの志を果たす覚悟である。益州刺史の毛璩は万里を駆け諸士を結び付け、荊楚を掃定した。江州刺史の郭昶之は陛下をお迎えし、尋陽に匿った。鎮北参軍の王睿らは部曲を率い、石頭城を占拠。揚武将軍の諸葛長民は義士を集め、暦陽を奪還した。征虜参軍の庾賾之らは水面下にて相結び、内応の手助けをした。
 皆々が協力し合い、己の持ち場にて蜂起し、速やかに徐州刺史・安城王を偽称した桓修、青州刺史を偽称した桓弘の首を斬った。ここに義の徒は集まり、文武が先を争っている。しかしそこに確かな旗印がなければ、ことはなし遂げられないのではないか、と不安に思う者も多かろう。ゆえにこの劉裕が畏れ多くも、此度の義挙を取りまとめる運びとなった。どうか上には祖宗の霊が、下には義夫の力が加わることにより、逆徒を討ち取り、都を、陛下の御座を掃き清め果さんことを。
 公侯諸君! 忠貞を示すもよし、立身出世の機会にするでも、また物事の道理を弁えぬ愚か者を誅したい、というのでも構わぬ。衰微した周の歴史にこの晋が倣うのでは、あまりにも悲しきことではないか! 今日の蜂起は、諸君らが銘々に抱えた志を果たす好機である。この劉裕は非力で、古人のような才覚は持ち合わせていないが、今こうして義挙の機運を高めた諸君の前に立った以上、この晋朝の危地を救う任を果たして参る。大いなる天のお心は未だ明らかとなってはおらぬが、晋の復興の思いを胸に抱き勇躍し、天の川を仰いではその思いを新たとし、山や川に臨んでは心火を激しく燃やすのである。この檄を見た神は馳せ、賊を追い落とすこととなろう」
 孟昶を長史として後方のことを任せ、檀憑之を司馬とした。人々の中で付き従ったものは千人少々であった。

三月戊午朔,遇吳甫之於江乘。甫之,玄驍將也,其兵甚銳。高祖躬執長刀,大呼以衝之,眾皆披靡,即斬甫之。進至羅落橋,皇甫敷率數千人逆戰。寧遠將軍檀憑之與高祖各御一隊,憑之戰敗見殺,其眾退散。高祖進戰彌辧ち宛緤擊,應時摧破,即斬敷首。初高祖與何無忌等共建大謀,有善相者相高祖及無忌等並當大貴,其應甚近,惟云憑之無相。高祖與無忌密相謂曰:「吾等既為同舟,理無偏異。吾徒咸皆富貴,則檀不應獨殊。」深不解相者之言。至是而憑之戰死,高祖知其事必捷。

 月が変わり三月戊午の日、江乗で呉甫之と遭遇した。呉甫之は桓玄軍の驍将で、将兵ともに強力であった。劉裕は手ずから長刀を取り、咆哮とともに自ら敵陣に切り込んだ。敵兵が劉裕に恐れおののき瓦解したので、劉裕はたちまち呉甫之を斬った。羅落橋に進むと、皇甫敷が数千の手勢をもって反撃してきた。寧遠将軍檀憑之と劉裕がそれぞれ1隊を率いていたが、檀憑之が戦死するや、その手勢が敗走した。一方劉裕はますます奮戦進撃し、敵兵を次々撃破、皇甫敷の首を取った。
 これより以前、劉裕と何無忌らが今回の計画を練っていた時、よく当たると評判の占い師に占ってもらったことがあった。占い師は劉裕と何無忌がともに富と栄誉を手に入れる、しかもそれはすぐ先のことだ、と見た。しかし、檀憑之については何も見えない、と言った。劉裕と何無忌はひそかに「我々はすでに同じ船に乗っているのだから、結果に差が出るのはおかしなことではないか。我らがみな栄達するというのに、檀憑之ひとりの結果が違うことなどあろうか」と、結局占い師の言葉を本気では受け止めなかった。檀憑之が戦死するに及び、劉裕はようやく占いの意味を悟り、この戦いの勝利を確信した。

玄聞敷等並沒,愈懼。使桓謙屯東陵口,卞範之屯覆舟山西,眾合二萬。己未旦,義軍食畢,棄其餘糧,進至覆舟山東,使丐士張旗幟於山上,以為疑兵。玄又遣武騎將軍庾禕之,配以精卒利器,助謙等。高祖躬先士卒以奔之,將士皆殊死戰,無不一當百,呼聲動天地。時東北風急,因命縱火,煙爓張天,鼓噪之音震京邑。謙等諸軍,一時土崩。玄始雖遣軍置陣,而走意已決,別使領軍將軍殷仲文具舟於石頭,仍將子姪浮江南走。

 桓玄は皇甫敷らがともに倒されたと聞き、いよいよ恐れた。桓謙を派遣し東陵口に、また卞範之を覆舟山の西に、合わせて20000の兵で布陣させた。己未の日の朝、劉裕らは食事を終えると、余った食料を捨て去った。覆舟山の東に進軍し、幾人かの兵士を派遣、覆舟山のそこかしこに旗を掲げさせ、疑兵となした。桓玄は更に武騎将軍・庾禕之に精兵、上質な武具を持たせ、桓謙らを助けるため派遣した。劉裕が兵たちの先頭に立って突撃したため、将兵かかわらず皆この戦いを死戦とみなし、誰もがひとりで100もの敵をも打ち倒さんほど、その咆哮は天地をも揺るがしかねないほどのものであった。このとき東北の風が強く吹いていたため、覆舟山に火を放った。その煙は天を覆い、鼓噪の音は建康を揺るがした。桓謙らの諸軍は、ひとときのうちに崩壊した。桓玄は軍を派遣したとは言っても、すでに逃走するつもりでいた。更に領軍将軍・殷仲文に石頭城にて船を用意させると、子や姪を船に乗せ、南方へと逃れた。

庚申,高祖鎮石頭城,立留臺官,焚桓溫神主於宣陽門外,造晉新主,立于太廟。遣諸將帥追玄,尚書王嘏率百官奉迎乘輿。司徒王謐與眾議推高祖領揚州,固辭。乃以謐為錄尚書事,領揚州刺史。於是推高祖為使持節、都督揚徐兗豫青冀幽并八州諸軍事、領軍將軍、徐州刺史。

 庚申の日、劉裕は石頭城に赴くと留台官を立て、宣陽門の外で桓温の神主を焼き捨て、晋の太廟を再建、改めて晋の歴代皇帝の位牌をまつった。また諸将を桓玄追討のため派遣した。その際には尚書の王嘏に百官を率いさせ、安帝還御の際に乗せる輿を持たせた。司徒の王謐は宮中の百官らと審議し、劉裕に揚州刺史の地位を授与したい、と申し出たが、劉裕は固辞した。代わりに王謐を録尚書事、揚州刺史に推挙した。そして劉裕には、改めて持節・都督揚・徐・兗・豫・青・冀・幽・并八州諸軍事・領軍将軍・徐州刺史が与えられた。

先是朝廷承晉氏亂政,百司縱弛,桓玄雖欲釐整,而眾莫從之。高祖以身範物,先以威禁內外,百官皆肅然奉職,二三日間,風俗頓改。且桓玄雖以雄豪見推,而一朝便有極位,晉氏四方牧守及在朝大臣,盡心伏事,臣主之分定矣。高祖位微於朝,眾無一旅,奮臂草萊之中,倡大義以復皇祚。由是王謐等諸人時失民望,莫不愧而憚焉。

 過日、桓玄が晋の乱政を承けて即位したとき、朝廷で奉職する百官は弛み切っていた。桓玄が綱紀を正そうとしたが従う者はいなかった。しかし劉裕が入朝するや綱紀を身をもって示し、威厳をもって内外を引き締めたため、みな粛然と職務につき、2、3日のうちに風紀は改められた。また桓玄がその武力を背景に自らの身を瞬く間に皇帝位に押し上げたとはいえ、晋に奉職していた地方長官や大臣らは、ことごとく本心を隠しつつも、桓玄に臣節を誓ってしまっていた。そのような中、はるか低位の存在に過ぎなかった劉裕が、まともに兵力を帯びもせずに片田舎より腕を振るい、大義を唱え晋室復興を成し遂げたのである。このため王謐ら諸人は民からの声望を失い、恥じ入り、まともに劉裕と顔を合わせられない状態となった。

諸葛長民失期不得發,刁逵執送之,未至而玄敗。
玄經尋陽,江州刺史郭昶之備乘輿法物資之。玄收略得二千餘人,挾天子走江陵。冠軍將軍劉毅、輔國將軍何無忌、振武將軍劉道規率諸軍追討。
尚書左僕射王愉、愉子荊州刺史綏等,江左冠族。綏少有重名,以高祖起自布衣,甚相凌忽。綏,桓氏甥,亦有自疑之志。高祖悉誅之。

 ところで諸葛長民は挙兵する機会を逸し、刁逵に捕えられていた。刑場に送り込まれる前に、桓玄が敗北したため解放されている。
 桓玄が尋陽に到着したとき、江州刺史の郭昶之が安帝の乗る輿や仏具などを援助した。桓玄は郭昶之より2000人あまりの人手を奪い、安帝を引き連れて江陵へと逃走した。冠軍将軍の劉毅、輔国将軍の何無忌、振武将軍の劉道規の諸軍が追った。尚書左僕射の王愉やその息子である荊州刺史の王綏らは江左の名門である。特に王綏は小さな頃からその名を重んぜられていたのだが、劉裕の出身家門が低いと言う事で、手ひどく侮蔑していた。また王綏は桓氏の甥でもあったので、ふたたび桓玄に協力するであろうことが疑われ、みな殺された。

四月,奉武陵王遵為大將軍,承制。大赦天下,唯桓玄一祖後不在赦例。
初高祖家貧,嘗負刁逵社錢三萬,經時無以還。逵執錄甚嚴,王謐造逵見之,密以錢代還,由是得釋。高祖名微位薄,盛流皆不與相知,唯謐交焉。桓玄將篡,謐手解安帝璽紱,為玄佐命功臣。及義旗建,眾並謂謐宜誅,唯高祖保持之。劉毅嘗因朝會,問謐璽紱所在,謐益懼。及王愉父子誅,謐從弟邂硅轉:「王駒無罪,而義旗誅之,此是剪除勝己,以絕民望。兄既桓氏黨附,名位如此,欲求免得乎?」駒,愉小字也。謐懼,奔于曲阿。高祖牋白大將軍,深相保謐,迎還復位。光祿勳卞承之、左衞將軍褚粲、游擊將軍司馬秀役使官人,為御史中丞王禎之所糾察,謝牋言辭怨憤。承之造司宜藏。高祖與大將軍牋,白「粲等備位大臣,所懷必盡。執憲不允,自應據理陳訴,而垓襲縋檗ぽ賭詬司。宜加裁當,以清風軌」。並免官。

 四月、武陵王の司馬遵を奉じて大将軍となし、承制とした。大赦が布告されたが、桓玄と祖父を同じくする者たちについては例外とされた。
 劉裕の家は貧しく、かつて刁逵に30000銭もの借金を負ったことがあった。返済の見込みが立たなかったため刁逵は劉裕を捕らえ、厳しく尋問を行った。王謐はこれを見て、密かに借金を返済し、劉裕を助け出した。当時無名にして低官位の劉裕は盛流の者らとの交流はなかったが、唯一王謐とは交流があったのである。桓玄がまさに簒奪をせん、と言うときのこと、王謐はその手で安帝から印璽を抜き取り、それによって功臣と位置付けられた。劉裕らが決起に成功したことにより、人々はみな王謐にも死が下されるべきであると考えていたが、劉裕はそうしなかった。かつて劉毅が朝会にて王謐に印璽のありかを尋ねたため、王謐はさらに恐れた。そこに加えて、王愉父子の処断である。王謐のいとこである王遒言う。
「王愉は無罪だったというのに、義旗のもとに誅された。これは劉裕が自身の名望に勝るものたちを剪定し、民よりの栄誉を独り占めせん、と目論んでいるものに違いない。兄上はすでに桓氏の手下として見られている。名声や地位については言うまでもない。果たしてやつに赦免を求めたところで、得られるだろうか?」
 王謐は恐れ、曲阿へと逃亡した。すると劉裕は書面にて、司馬遵に王謐の地位を保ちおくよう深く頼み込んだ。このため王謐には迎えがよこされ、元の地位に復帰させられた。光祿勲の卞承之、左衛将軍の褚粲、游撃将軍の司馬秀が官僚らを私的に使役したかどで御史中丞の王禎之より糾弾を受けた。この糾弾に対する返答書ははなはだ恨みと憤りに満ちたものであった。卞承之は有司のもとに赴き、この糾弾を隠匿して欲しいと依頼した。それを知った劉裕はふたたび司馬遵に書面を送る。
「褚粲らは大臣の立場を利用し、自らに都合のいいよう物事を動かそうとしております。こうした監察機能がまともに成り立たないのであれば、訴訟ごとまわりには不条理がまかり通り、多くの怒りや怨みを積もらせましょう。そしてこうした恨みごとが、全て有司に押し付けられることとなります。かの者らを公正に裁くことで、風通しを良くすべきです」
 彼らはみな罷免された。

桓玄兄子歆,聚眾向歷陽,高祖命輔國將軍諸葛長民擊走之。無忌、道規破玄大將郭銓等于桑落洲,眾軍進據尋陽。加高祖都督江州諸軍事。玄既還荊郢,大聚兵眾,召水軍造樓船、器械,率眾二萬,挾天子發江陵,浮江東下,與冠軍將軍劉毅等相遇於崢洲,眾軍下擊,大破之。玄棄眾,復挾天子還復江陵。玄黨殷仲文奉晉二皇后還京師。玄至江陵,因西走。南郡太守王騰之、荊州別駕王康產奉天子入南郡府。初征虜將軍、益州刺史毛璩,遣從孫祐之與參軍費恬送弟喪下,有眾二百。璩弟子脩之時為玄屯騎校尉,誘玄以入蜀。至枚回洲,恬與祐之迎射之。益州督護馮遷斬玄首,傳京師。又斬玄子昇於江陵市。

 桓玄の兄の子である桓歆は、手勢を引き連れて暦陽に向かっていた。劉裕は輔国将軍の諸葛長民に撃退させた。何無忌と劉道規が桓玄軍の大将である郭銓らを桑落洲で破ると、軍はそのまま尋陽に陣を張った。劉裕に都督江州諸軍事が加えられた。桓玄は江陵に帰還すると、手勢を増やし、水軍に楼船を製造させ、船上兵器を作った。合計20000余の軍勢で安帝をとらえたまま江陵より進発、船にて長江を東下したが、劉毅らと崢洲でまみえ、惨敗を喫した。桓玄は兵を見捨て、ふたたび安帝とともに江陵に帰還した。桓玄の配下である殷仲文が皇后ふたりを奉じて建康に帰還した。桓玄は江陵に至ると、更に西へと逃亡した。南郡太守の王騰之、荊州別駕の王康産が安帝を奉じて南郡府に入った。
 征虜将軍・益州刺史の毛璩は従孫の毛祐之と参軍の費恬を、既に死んでしまっていた弟を葬るため荊州に派遣していた。その一団の数は200名である。毛璩の弟の子、毛修之は桓玄の屯騎校尉であったが、桓玄に蜀入りを誘った。枚回洲に至ると、費恬と毛祐之が桓玄に弓矢を射かけた。益州督護の馮遷が桓玄の首を斬り、建康へ送った。また桓玄の子、桓昇は江陵の市場にて斬首された。

初玄敗於崢洲,義軍以為大事已定,追躡不速。玄死幾一旬,眾軍猶不至。玄從子振逃於華容之涌中,招聚逆黨數千人,晨襲江陵城,居民競出赴之。騰之、康產皆被殺。桓謙先匿於沮川,亦聚眾以應。振為玄舉哀,立喪廷。謙率眾官奉璽綬于安帝。無忌、道規既至江陵,與桓振戰于靈溪。玄黨馮該又設伏于楊林,義軍奔敗,退還尋陽。
兗州刺史辛禺懷貳。會北青州刺史劉該反,禺求征該,次淮陰,又反。禺長史羊穆之斬禺,傳首京師。十月,高祖領青州刺史。甲仗百人入殿。
劉毅諸軍復進至夏口。毅攻魯城,道規攻偃月壘,皆拔之。十二月,諸軍進平巴陵。

 桓玄が崢洲にて敗走した時、義軍としてはすでに桓玄打倒を確定できていたため、追撃も大急ぎで、と言うほどでもなくなっていた。桓玄の死後十数日が経ってもいまだ江陵に到着しなかったほどである。このとき桓玄の従子・桓振は華容の涌中に逃れ、数千人の手勢を集めて再起し、早朝に江陵城を強襲した。このとき桓氏を慕うものたちもまた競うように桓振軍に合流した。王騰之、王康産は殺された。桓謙は沮川に匿われていたが、桓振の挙兵に呼応して挙兵した。桓振は桓玄の死を悼み、喪廷を建てた。桓謙は配下を伴い、安帝に璽綬を返還した。何無忌や劉道規がようやく江陵に到着すると、桓振と霊溪にて戦った。桓玄の郎党である馮該が楊林に潜んでおり、伏兵として襲い掛かったため何無忌らは敗北、尋陽まで撤退した。
 兗州刺史の辛禺は謀反を企んでいた。北青州刺史の劉該の謀反を受け、辛禺は劉該を討つ素振りをして淮陰に入り、叛意を明らかとした。しかし辛禺の長史であった羊穆之が辛禺を斬り、首を建康に送った。十月、劉裕には青州刺史の座が与えられた。甲仗百人を引き連れての入殿が許された。
 劉毅らの軍は夏口までふたたび進軍した。劉毅は魯城を攻め、劉道規は偃月塁を攻め、ともに落とした。十二月には巴陵まで進軍した。


405(義熙元)年

義熙元年正月,毅等至江津,破桓謙、桓振,江陵平,天子反正。三月,天子至自江陵。詔曰:
古稱大者天地,其次君臣,所以列貫三辰,神人代序,諒理本於造昧,而運周於萬葉。故盈否時襲,四靈通其變,王道或昧,貞賢拯其危,天命所以永固,人心所以攸穆。雖夏、周中傾,鴦咫⊃叔契咫よ蓮⇔兀榱罅ふ蘰鸞綫О檗0塵資藉號,或業隆異世,猶詩書以之休詠,記策用為美談。未有因心撫民,而誠發理應,援神器於已淪,若在今之盛者也。朕以寡昧,遭家不造,越自遘閔,屬當屯極。逆臣桓玄,乘釁縱慝,窮凶恣虐,滔天猾夏。遂誣罔人神,肆其篡亂。祖宗之基既湮,七廟之饗胥殄,若墜淵谷,未足斯譬。皇度有晉,天縱英哲,使持節、都督揚徐兗豫青冀幽并江九州諸軍事、鎮軍將軍、徐青二州刺史,忠誠天亮,神武命世,用能貞明協契,義夫響臻。故順聲一唱,二溟卷波,英風振路,宸居清翳。暨冠軍將軍毅、輔國將軍無忌、振武將軍道規,舟旗遄邁,而元凶傳首,回戈疊揮,則荊、漢霧廓。俾宣、元之祚,永固於嵩、岱,傾基重造,再集於朕躬。宗廟歆七百之祜,皇基融載新之命。念功惟,永言銘懷。固已道冠開闢,獨絕終古,書契以來,未之前聞矣。雖則功高靡尚,理至難文,而崇庸命,哲王攸先者,將以弘道制治,深關盛衰。故伊、望膺殊命之錫,桓、文饗備物之禮,況宏徵不世,顧邈百代者,宜極名器之隆,以光大國之盛。而鎮軍謙虛自衷,誠旨屢顯,朕重逆仲父,乃所以愈彰美也。鎮軍可進位侍中、車騎將軍、都督中外諸軍事,使持節、徐青二州刺史如故。顯祚大邦,啟茲疆宇。

 義熙元年一月、劉毅は江津に進み、桓謙や桓振を破り、江陵を平定、安帝を迎え入れた。三月、安帝は建康に帰還し、以下のように詔した。
「いにしえより、最も偉大なものが天地であり、その次に君主や家臣が来る、とされる。それは太陽、月、星の序列であったり、神と人との序列にも等しい。この世が混沌の中にあった頃からその理屈は明らかであったし、万年に渡り世は巡ってきた。ゆえに大いなる邪悪の襲来を霊獣たちは察知したし、王室の権威が揺らぐ時、良く賢き人々は王室を助けんと立ち上がった。こうして天命は永く堅固なものとなり、人心は平和に帰趨したのである。夏が衰えた時にも伯靡が、周が衰えた時に申侯が功績を挙げたものである。のちの時代に簒奪をなした王莽や司馬倫の野心とて、かの二代の故事と同じ結末となった。
 義士らはかりそめの地位に基づき戦った。その業績の赫々たる事は明らかであるが、しかしこれまでの世に見受けられた業績とは、その性格を大いに異としている。とは言えなお詩や書はそなたらを讃えようし、木簡や竹簡にも美談として記されよう。いまだ民を安んじ切れてはおらぬが、そなたらの忠誠心の発露により、正しき道理が改めて示された。すでに傾いてしまった権威をそなたらが支えてくれたため、ふたたび盛んなものとなったのである。
 朕の不徳により、国家に苦難がもたらされた。この苦難は父帝の死以来、極まってしまった、と言うべきである。逆臣桓玄は国家の動乱に乗じ、凶逆の限りを尽くし、天を侮り、ついに天をも傾け、簒奪の大逆をなした。我が祖先が築き上げられた基礎はあらかたが埋め尽くされ、七代の祖先らを祀る廟すら打ち壊されてしまった。このような絶望の淵に叩き落されたことを、どうまともに言い表せようか。
 しかし、幸いなるかな、晋国に英雄はいた。あるいは、天が遣わしたのであろうか。使持節・都督揚・徐・兗・豫・青・冀・幽・并・江九州諸軍事・鎮軍将軍・徐青二州刺史、劉裕殿よ。そなたの忠義心は天にも届かん勢い、その勇武は広く天下に知られ、忠良なる仲間らを率いられ、多くの義徒もまたそれに応じた。大義を愛されるその声がひとたび響けば、その勢いは怒涛のごとし。英雄らは威風堂々と進軍し、そして帝の住まう地は掃き清められた。
 また劉毅殿、何無忌殿、劉道規殿は鋭く水軍を率いられ、桓玄の首を取り、残党をも一掃、荊州や漢水流域の霧を振り払われた。宣帝や元帝が永劫の繁栄を嵩山、泰山にて固く誓われたこの国は、先ごろあらためて傾きこそしたものの、今ふたたび朕の身を守ってくれておる。先祖の霊は七百の福に喜ばれ、お国の権威は新たに結ばれた。その功績はまさに徳に満ちたもの。永く祝い、思いを胸に懐き続けよう。
 その道義心の気高さは天地開闢以来のあらゆる道義に冠じ、また未来を見渡しても類を見ないものであろう。少なくともこれまで、文字にてこのような功績があったと書かれたのを見たことがない。その功がどれだけ高かろうとも、敬おうとするものは多からざろう。理屈で言えば、その功績を文で表すのが至難なためである。しかし物事の道理を深く知るいにしえの哲王らは、大道の理屈を正確に用いることで、国家の盛衰を深く見抜かれた。こうしたことにより伊尹や太公望は特任を得る証の錫杖を得、斉の桓公、晋の文公は周を奉じるための礼を万全に整えた。ましてやみかどの号令が広く天下に届かぬなど、はるか百代を見返しても、あり得ぬことだったではないか。此度の義挙に参じた者は明器の極みと言うべきであり、この大晋国の隆盛を照らさんとした。こうした大功にもかかわらず、劉裕殿は謙虚にその誠意をしばしば顕とした。朕はここに孔子を出迎えるかのごとく、ますますその美点を顕彰したく思う次第である。よって劉裕殿を侍中・車騎将軍・都督中外諸軍事とし、使持節・徐青二州刺史については元のとおりとしたい。その大功を、広く世に知らしめたく思うのである」

高祖固讓。加錄尚書事,又不受,屢請歸藩。天子不許,遣百僚敦勸,又親幸公第。高祖惶懼詣闕陳請,天子不能奪。是月,旋鎮丹徒。天子重遣大使敦勸,又不受。乃改授都督荊、司、梁、益、寧、雍、涼七州,并前十六州諸軍事,本官如故。於是受命解青州,加領兗州刺史。
盧循浮海破廣州,獲刺史吳隱之。即以循為廣州刺史,以其同黨徐道覆為始興相。

 劉裕は昇進を辞退した。録尚書事の地位の加増も辞退し、京口に戻りたい旨をしばしば乞うたが受理されなかった。安帝は多くの官僚を遣わせてねんごろに昇進を持ちかけ、また劉裕のためにあてがわれた寮にも直接足を運んだ。劉裕は畏れ多いことである、と安帝の来訪を止めるべく、謁見して陳情した。このため安帝は劉裕の辞退の思いを押しとどめることができなかった。後日丹徒に劉裕が赴任すると、安帝はそちらにも大使を遣わせて、あらためてねんごろに昇進を諮ってきたが、やはり受けなかった。都督荊・司・梁・益・寧・雍・涼七州諸軍事が加えられ、十六州都督となった。もともとの官位は保たれた。青州刺史の任務は解かれたが、代わって兗州刺史を兼務した。
 三月、盧循が海伝いで広州を破り、広州刺史の呉隠之をとらえた。盧循を広州刺史とし、郎党である徐道覆を始興相に任命した。


406(義熙2)年

二年三月,督交、廣二州。十月,高祖上言曰:「昔天禍皇室,巨狡縱篡,臣等義惟舊隸,豫蒙國恩,仰契信順之符,俯區与断景亜り社稷之靈,抑亦事由眾濟。其翼獎忠懃之佐,文武畢力之士,敷執在己之謙,用虧國體之大。輒申攝眾軍先上,同謀起義,始平京口、廣陵二城,臣及撫軍將軍毅等二百七十二人,并後赴義出都緣道大戰,所餘一千五百六十六人,又輔國將軍長民、故給事中王元等十人,合一千八百四十八人,乞正封賞。其西征眾軍,須論集續上。」於是尚書奏封唱義謀主鎮軍將軍裕豫章郡公,食邑萬戶,賜絹三萬匹。其餘封賞各有差。鎮軍府佐吏,降故太傅謝安府一等。
十一月,天子重申前令,加高祖侍中,進號車騎將軍、開府儀同三司。固讓。詔遣百僚敦勸。

 義熙二年三月、劉裕は交州、広州の都督にもなった。
 十月、劉裕は上奏する。
「過日の皇室の苦難、巨悪による簒奪事件発生の折、臣らは忝くもお国よりの恩を賜る身であることを思い、天を仰ぎ忠誠を新たとし、地に俯き人臣らの憤りを目の当たりとしました。たとえ社稷の加護の賜物だとして、臣らの尽力もまた事態の収拾に資したのではないか、と考えております。陰に日向に義挙をお支えくださった方々のお力、そして力を尽くした文武の士たち。彼らは皆、己の差し出がましさをも自覚しつつ、なおも国政の大いなる欠損を補わんと働きました。ならば彼らの働きを率いたものとして、しかと陛下に申し伝えねばなりませぬ。臣と謀議の立ち上げに関わり、はじめて京口、広陵の2城の平定に関わったものが臣及び撫軍将軍の劉毅ら272名。その後我らが義挙に合流し、道沿いで、建康でともに戦ったものが1566人。また決起に協賛したものとしては輔国将軍の諸葛長民、亡き給事中の王睿ら10人。合計1848人に、その働きに見合った封賞をお下し賜りたく存じます。また現在の征西軍に関しても、別途ご検証願います」
 尚書は謀主である鎮軍将軍の劉裕に豫章郡公、食邑10000戸、絹30000匹を封じるべし、と上奏した。他の封爵報賞については、功績に応じて差がついた。鎮軍府および佐吏には、謝安が開府した府および官僚たちがそのままもたらされた。
 十一月、安帝は改めて劉裕に侍中、車騎将軍、開府儀同三司の昇進を打診したが、劉裕は辞退した。安帝は更に百官を派遣、その進号を受け入れるよう説得にあたった。


407(義熙3)年

三年二月,高祖還京師,將詣廷尉,天子先詔獄官不得受,詣闕陳讓,乃見聽。旋于丹徒。
閏月,府將駱冰謀作亂,將被執,單騎走,追斬之。誅冰父永嘉太守球。球本東陽郡史,孫恩之亂,起義於長山,故見擢用。初桓玄之敗,以桓冲忠貞,署其孫胤。至是冰謀以胤為主,與東陽太守殷仲文潛相連結。乃誅仲文及仲文二弟。凡桓玄餘黨,至是皆誅夷。
天子遣兼太常葛籍授公策曰:「有扈滔天,夷羿乘釁,亂節干紀,實橈皇極。賊臣桓玄,怙寵肆逆,乃摧傾華、霍,倒拔嵩、岱,五嶽既夷,六地易所。公命世英縱,藏器待時,因心資敬,誓雪國恥,慨憤陵夷,誠發宵寐。既而歲月屢遷,神器已遠,忠孝幽寄,實貫三靈。爾乃介石勝機,宣契畢舉,訴蒼天以為正,揮義旅而一驅。奔鋒數百,勢烈激電,百萬不能抗限,制路日直植城。遂使衝鯨潰流,暴鱗江漢,廟勝遠加,重氛載滌,二儀廓清,三光反照,事遂永代,功高開闢,理微稱謂,義感朕心。若夫道為身濟,猶縻厥爵,況乃誠俱深,勳冠天人者乎。是用建茲邦國,永祚山河,言念載懷,匪云足報。往欽哉!俾屏余一人,長弼皇晉,流風垂祚,暉烈無窮。其降承嘉策,對敭朕命。」
十二月,司徒、錄尚書、揚州刺史王謐薨。

 義熙三年二月、劉裕が建康に出、廷尉に詣でようとすると、安帝は先に獄官に受けないよう命じていた。このため、安帝のもとに赴き、固辞したい旨を改めて伝え、ようやく受け入れられた。劉裕は京口に戻った。
 閏月、府将の駱冰が乱を企んだが、露見した。捕らわれそうになったところを単騎にて逃れたが、まもなく捕まり、斬られた。あわせて駱冰の父である永嘉太守の駱球も誅殺された。駱球はもともと東陽郡の官吏だったが、孫恩の乱に際して長山にて抵抗のために決起していた。このため抜擢を受け永嘉太守への昇進を遂げていたのである。以前に桓玄が破れた際、桓沖が忠貞であったことから、その孫の桓胤だけは特別な赦免を受けていた。しかしその結果駱冰に乱の首謀者として担ぎ出され、東陽太守の殷仲文とともに密かに計画が練られていた。このため殷仲文とその弟ふたりも処刑された。これによって桓玄の余党はみな誅滅された。

 安帝は劉裕に太常の葛籍を遣わせ、以下のように詔した。
「遙かな昔、有扈氏が夏王に対し楯突いたところ、夷羿がその隙に乗じ、皇統を捻じ曲げた。賊臣桓玄もまたその代々の寵を元手として凶逆をなし、長安のすぐ側にある華山から遙か南の衡山、洛陽そばの嵩山、霊山たる泰山に至る霊山の霊威を踏みにじった。五岳は潰され、天地四方もまた転倒した。
 そのような中、世に英雄たらんと命を受けたる、劉公よ。そなたは決起の意志をひた隠しとし、時を待ち、その内心にはお国への敬意を抱き、お国が受けた恥をそそがんと誓われ、陵墓の破損に憤激し、ついに払暁、立ち上がられた。なれど逆賊の簒奪より時が経ち、神器は既に遠方に持ち去られ、忠者孝者はどこぞへと隠れ、三霊の霊威も損なわれかけていた。
 斯様な中、公はそれでも堅固なる忠節を保ち勝機を待ち、そうして高らかに義挙を宣言し、蒼天に正しき統治者を取り戻すことを誓われ、義兵らの前に躍り出られた。数百の義兵たちは激電のごとく勝ち進み、百万の楚兵たちはまともに抵抗することも、行く手を阻むことも叶わなかった。こうして一両日と経たず、義兵らは建康城にたどり着いた。かくて長江を荒らした鯨と、鯨が引き連れる魚どもは討ち果たされ、霊廟に霊が帰還し、重苦しき暗雲が払われ、天地が清められ、太陽や月や星々は輝きを取り戻した。これらは永代に称えられる事柄であり、あるいは国家創建よりも高き功績であろう。確かにこの決起はこれまでの道理には適わぬものでこそあったが、その義はまこと朕の心を打つものであった。
 いまだそなたの功績にふさわしき爵位をもたらすことができたとも思ってはおらぬが、誠の思いや徳、そのどちらもの深さが天人すら上回っておることは誰にとっても周知のことである。ならばそなたが国を建て、その本貫の地の山水を祀る主催者となる特権を与えたとしても、なおもその功績に報いることができたとは言えまい。まこと敬服に値するお方である。余ただひとりにて長らく大いなる晋を支えんとしてきたが、公という佳き風が吹き付け、いま大晋の威光は無窮のものとなった。この良ききざしが余の元にもたらされたことに応じるのが、余の責務と考えている」

 十二月、司徒、録尚書、揚州刺史の王謐が死亡した。


408(義熙4)年

四年正月,徵公入輔,授侍中、車騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史、錄尚書,徐兗二州刺史如故。表解兗州。先是遣冠軍劉敬宣伐蜀賊譙縱,無功而返。九月,以敬宣挫退,遜位,不許。乃降為中軍將軍,開府如故。

 義熙四年正月、劉裕は建康に召し出され、侍中、車騎将軍、開府儀同三司、揚州刺史、録尚書の地位を授与された。徐兗二州刺史の地位は保たれたままだったが、上表により兗州刺史の座が解任となった。
 この授与よりも前に、冠軍将軍の劉敬宣が蜀を拠点とする譙縦の討伐に出ていた。しかし失敗、撤退した。九月に帰還した劉敬宣は退官の意を示したが、許可されなかった。劉裕は中軍将軍に降格となったが、開府はそのまま認められた。


409(義熙5)年

初偽燕王鮮卑慕容僭號於青州,死,兄子超襲位,前後屢為邊患。五年二月,大掠淮北,執陽平太守劉千載、濟南太守趙元,驅略千餘家。三月,公抗表北討,以丹陽尹孟昶監中軍留府事。四月,舟師發京都,泝淮入泗。五月,至下邳,留船艦輜重,步軍進琅邪。所過皆築城留守。鮮卑梁父、莒城二戍並奔走。
慕容超聞王師將至,其大將公孫五樓說超:「宜斷據大峴,刈除粟苗,堅壁清野以待之。彼僑軍無資,求戰不得,旬月之間,折棰以笞之耳。」超不從,曰:「彼遠來疲勞,勢不能久,但當引令過峴,我以鐵騎踐之,不憂不破也。豈有預芟苗稼,先自䠞弱邪。」初公將行,議者以為賊聞大軍遠出,必不敢戰,若不斷大峴,當堅守廣固,刈粟清野,以絕三軍之資,非唯難以有功,將不能自反。公曰:「我揣之熟矣。鮮卑貪,不及遠計,進利剋獲,退惜粟苗。謂我孤軍遠入,不能持久,不過進據臨朐,退守廣固。我一得入峴,則人無退心,驅必死之眾,向懷貳之虜,何憂不剋。彼不能清野固守,為諸君保之。」公既入峴,舉手指天曰:「吾事濟矣!」

 この頃青州では、鮮卑の慕容徳が燕王を僭称していた。慕容徳が死ぬと、兄の子、慕容超が跡を継ぎ、国境付近でしばしば略奪行為を働いていた。
 義熙五年二月、淮北における大規模な略奪があった。陽平太守の劉千載、済南太守の趙元が捕らえられ、1000あまりの家が被害に遭った。三月に劉裕は燕を討伐することを表明、丹陽尹の孟昶に中軍府の執務の代行を任じた。四月、水軍は建康を出発し、淮水より泗水に入った。
 五月、下邳に至り、船艦輜重を停泊させ、陸路にて琅邪に進んだ。途中で戦闘はなかった。南燕の梁父、莒の2城の城主はともに逃走していた。

 劉裕軍の侵攻を受け、南燕の大将である公孫五楼が慕容超に説く。
「ここは大峴山に陣を布いて待ち構え、その侵攻を阻むべきです。大峴に至るまでの粟の苗を刈り取り、堅壁清野にて待ち受けるのです。かの者はすでにはるばる敵国領内に進軍しております。その途上の食料を徴発によって賄えず、戦いを求めても得ず、ともなれば、10日と経たずに鞭打ちなしでまともに動けぬ有様と成り果てましょう」
 しかし、慕容超は拒否する。
「晋軍には遠征の疲労があり、その勢いがいつまでも保つものではない。大峴は通過させて構わぬ、わが軍の鉄騎で踏み躙れば、どうして打ち破れぬことがあろう。多少の食料を抱え込めたところで、ひとりでに弱り切ろう」

 劉裕が遠征に出ようかと言うときに注進するものがあった。
「晋軍の到来を南燕が聞き、あえて大峴山までは抜かせて広固にて守りを固め、そこまでの道のりの糧秣となるものをすべて焼き払ってしまっていたら、軍に行き渡らせるための資源に窮し、勝利はおろか、撤退もままならなくなりませぬでしょうか」
 劉裕は答える。
「熟慮の上だ。鮮卑どもに遠望はない。奴らは進めば乱獲ばかりをし、退くにしても粟苗を惜しむ。奴らは、我らが奴らと同じくちの輩だと思いこんでいる。孤軍にて突っ込み、まともな軍糧も用意できていない、とな。その思い込みに基づき、こちらが臨朐に着くか着かないかのところで広固に閉じ籠もろう。ひとたび大峴山を抜いてしまえばもはやまともな撤退も叶わず、あとは敵を倒すしかないと言うのにな。こちらは死地に飛び込んだ兵、向こうはこちらの不退転も見抜けぬぼんくらだ。どこに攻め落とせぬことを憂慮する必要がある。彼らはまともに糧秣も回収せず、貴公らのためにしっかりと用意してくれていることだろうとも」
 実際に進軍をしてみれば、なんの抵抗も、抗戦もなく大峴山を通過できた。劉裕は天を指し、言う。
「俺の仕事は終わったぞ!」

六月,慕容超遣五樓及廣寧王賀鰲裟蒭[朐城。既聞大軍至,留羸老守廣固,乃悉出。臨朐有巨蔑水,去城四十里。超告五樓曰:「急往據之,晉軍得水,則難擊也。」五樓馳進。龍驤將軍孟龍符領騎居前,奔往爭之,五樓乃退。
眾軍步進,有車四千兩,分車為兩翼,方軌徐行,車悉張幔,御者執矟。又以輕騎為遊軍。軍令嚴肅,行伍齊整。未及臨朐數里,賊鐵騎萬餘,前後交至。公命兗州刺史劉藩、弟并州刺史道憐、諮議參軍劉敬宣、陶延壽、參軍劉懷玉、慎仲道、索邈等,齊力擊之。日向昃,公遣諮議參軍檀韶直趨臨朐。詔率建威將軍向彌、參軍胡藩馳往,即日陷城,斬其牙旗,悉虜超輜重。超聞臨朐已拔,引眾走,公親鼓之,賊乃大奔。超遁還廣固。獲超馬、偽輦、玉璽、豹尾等,送于京師。斬其大將段暉等十餘人,其餘斬獲千計。

 六月、慕容超は公孫五楼と賀頼盧を臨朐城に駐屯させた。東晋軍が到着すると、慕容超は老人病人に広固城を任せ、打って出た。臨朐の前には巨蔑水が、城の南40里のところにある。慕容超は公孫五楼に言う。
「すぐさま川を抑えよ、奴らに渡られたらことだ」
 公孫五楼は馳せ進んだ。龍驤将軍の孟龍符が劉裕より騎兵を預かり迎撃に向かい、川をめぐり激突。公孫五楼はすぐさま退いた。晋軍は徒歩での進軍と、また4000両の車がともにあった。車は両翼に配置されていた。各車とも物資を満載しており、御者は長柄の武器を携えていた。また軽騎兵が遊軍として周囲を警護していた。軍令はよく行き渡り、その行軍は厳粛であった。臨朐まで数里のところで南燕の鉄騎兵10000あまりが襲撃、交戦となった。劉裕は兗州刺史の劉藩、并州刺史の劉道憐、諮議参軍の劉敬宣および陶延寿、参軍の劉懐玉、慎仲道、索邈らに命じ迎撃した。夕方頃、劉裕は諮議参軍の檀韶を臨朐城に急行させた。檀詔は建威将軍の向靖、参軍の胡藩を率いて攻撃、城を落とし、輜重を獲得した。慕容超は臨朐が抜かれたと聞くと撤退を開始した。そこへ劉裕が意気も盛んに鬨の声を上げたので、南燕軍は大いに逃乱した。慕容超は広固に籠城した。慕容超の馬、偽輦、玉璽、豹尾を手に入れたので、それらを建康に送った。大将の段暉ら十数人の将軍をはじめ、斬ったものや捕らえたものは1000名ほどであった。

明日,大軍進廣固,即屠大城,超退保小城。於是設長圍守之,圍高三丈,外穿三重塹。停江、淮轉輸,館穀於齊土。撫納降附,華戎歡,援才授爵,因而任之。七月,詔加公北青、冀二州刺史。超大將垣遵、遵弟苗並率眾歸順。公方治攻具,城上人曰:「汝不得張綱,何能為也。」綱者,超偽尚書郎,其人有巧思。會超遣綱稱藩於姚興,乞師請救。興偽許之,而實憚公,不敢遣。綱從長安還,泰山太守申宣執送之。及升綱於樓車,以示城內,城內莫不失色。於是使綱大治攻具。超求救不獲,綱反見虜,轉憂懼。乃請稱藩,求割大峴為界,獻馬千疋。不聽,圍之轉急。河北居民荷戈負糧至者,日以千數。

 翌日晋軍は広固に進み、大城を落とした、慕容超は小城に退き、守りを固めた。小城には3丈の城壁と、外には3重の塹が穿たれていた。劉裕は長江、淮水域の物資を南燕領内に回すと、降伏してきた南燕人に振る舞った。これに領内の華人、鮮卑はみな喜んだ。七月、朝廷より劉裕に北青、冀二州刺史の地位が与えられた。慕容超の将軍である垣遵、垣苗兄弟が帰順した。劉裕が攻城兵器を組み立てていると、城の上より野次が飛ぶ。
「張綱もいないのに、何ができるのだ!」
 張綱とは、慕容超の尚書郎であり、様々な発明をしている人物であった。このとき慕容超は張綱を後秦に遣わせ「臣下となる代わりに、我が国を救っていただきたい」と交渉をさせていた。姚興はこの要請を受け入れるふりをしたが、実際には劉裕との正面衝突を憚り、援軍を出さなかった。張綱が長安より戻ってきたところを、泰山太守の申宣がとらえ、劉裕の元に連行した。劉裕は張綱を楼車に載せ、広固城に立てこもる者たちに見せびらかした。この対応に城内で青ざめなかったものはいなかった。劉裕はその反応を見て取り、張綱に攻城兵器建造の任を与えた。慕容超は救援が得られなかった、どころか張綱が晋に寝返ったことを知り、いよいよ恐れおののいた。劉裕に宛てて大峴山より南を割譲し、1000頭の馬を献上するので服属したい、と願い出たが、聞き入れられなかった。むしろ城攻めはますます苛烈なものとなった。河北よりは劉裕の軍に加わりたいと食料や武器を担いでやってくるものが1日あたり1000人ほどを数えた。

錄事參軍劉穆之,有經略才具,公以為謀主,動止必諮焉。時姚興遣使告公云:「慕容見與隣好,又以窮告急,今當遣鐵騎十萬,逕據洛陽。晉軍若不退者,便當遣鐵騎長驅而進。」公呼興使答曰:「語汝姚興,我定燕之後,息甲三年,當平關、洛。今能自送,便可速來。」穆之聞有羌使,馳入,而公發遣已去。以興所言并答,具語穆之。穆之尤公曰:「常日事無大小,必賜與謀之。此宜善詳之,云何卒爾便答。公所答興言,未能威敵,正足怒彼耳。若燕未可拔,羌救奄至,不審何以待之?」公笑曰:「此是兵機,非卿所解,故不語耳。夫兵貴神速,彼若審能遣救,必畏我知,寧容先遣信命。此是其見我伐燕,內已懷懼,自張之辭耳。」

 録事参軍の劉穆之は計略に長け、その智謀から劉裕の参謀となっていた。軍略のほとんどを諮るほどであった。このとき、姚興からの遣使が劉裕にこのような書面を送っていた。
「我が親愛なる隣国、南燕よりの危急の報せ受けた。そこでただちに鉄騎10万を洛陽に配備した。晋軍がこのまま退かぬのであれば、我が鉄騎が東方に長駆しよう」
 劉裕は書面をもたらした使者に、言う。
「貴様の主、姚興に伝えるがよい。俺は南燕を片付けたら、3年の休息のち、関中洛陽も攻め落としてくれる。鉄騎とやらを寄越せるものなら、すぐにでも寄越してみるがいい」
 劉穆之は後秦よりの使者が来たと聞き、慌てて劉裕のもとに駆けつけた。しかしこのときすでに劉裕は使者を追い返していた。劉裕は姚興からの言葉と、自身の返答を劉穆之に告げた。すると、劉穆之が劉裕に詰め寄った。
「将軍は日々、大小となくわたくしにもろもろごとを相談して下さっていたではないですか! ならばこの案件とてわたくしにご相談くださればよろしかりましょうに、なにゆえかくも性急にご対応なされたのですか! 劉裕様のご回答で姚興を威圧しきれたとは到底思えませぬ、ただ奴めを怒らせたのみでございます! これで広固を落とせぬうちに後秦よりの援軍にたどり着かれてしまったならば、下官は対応するすべなぞ持ち合わせませぬ!」
 劉裕は笑い、答える。
「そなたと軍略を描くならばともかく、戦場の機微を共有できるとは思っておらん。だから相談しなかったのだ。戦ごとの要点は、何よりも速さである。もし姚興が南燕に救援をよこせるなら、俺にその気配を察知されることこそ問題になると考えよう。どうしてわざわざ援軍の存在を表明しようというのだ。ならばこの期に及んで文章で威嚇しようなぞ、ハッタリ以外の何物でもないではないか」

九月,進公太尉、中書監,固讓。
偽徐州刺史段宏先奔索虜,十月,自河北歸順。
張綱治攻具成,設諸奇巧,飛樓木幔之屬,莫不畢備。城上火石弓矢,無所用之。

 九月、劉裕の地位は太尉、中書監に進められることになったが、固譲した。十月、段宏が河北より帰順してきた。この者はいちど南燕より北魏に脱出したあと、改めて劉裕のもとに投降した。張綱の攻城兵器は様々な奇想が織り込まれていた。飛楼、木幔などの付属品類にも不備はなかった。城上より射かけられる火石や弓矢も一切通さなかった。


410(義熙6)年

六年二月丁亥,屠廣固。超踰城走,征虜賊曹喬胥獲之,殺其王公以下,納口萬餘,馬二千疋,送超京師,斬于建康市。

 義熙六(410)年二月、ついに広固は落ちた。慕容超は城から逃れようとしたが、征虜賊曹の喬胥がこれを捕えた。南燕の王族、高官は殺され、10000あまりの住民を捕虜として得た。馬2000頭を得た。慕容超は建康に送られ、建康の広場にて斬られた。

公之北伐也,徐道覆仍有闚𨵦之志,勸盧循乘虛而出,循不從。道覆乃至番禺說循曰:「本住嶺外,豈以理極於此,正以劉公難與為敵故也。今方頓兵堅城之下,未有旋日。以此思歸死士,掩襲何、劉之徒,如反掌耳。不乘此機而保一日之安,若平齊之後,小息甲養眾,不過一二年間,必璽書徵君。若劉公自率眾至豫章,遣銳師過嶺,雖復將軍神武,恐必不能當也。今日之機,萬不可失。既剋都邑,傾其根本,劉公雖還,無能為也。」循從之,乃率眾過嶺。是月,寇南康、廬陵、豫章,諸郡守皆委任奔走。于時平齊問未至,即馳使徵公。公之初剋齊也,欲停鎮下邳,清盪河、洛,既而被徵使至,即日班師。

 劉裕が北伐をしている期間を、始興にいた徐道覆は好機だと考えていた。盧循にその隙を突くべきと説いていたが、盧循は従わなかった。そこで徐道覆は番禺に出向いて盧循に説く。
「我らは建康から山によって隔てられております。これまで攻撃を受けてこなかったのは我らの主張を劉裕が受け入れておるからでなく即便にこちらを攻撃できないからでしかございませぬ。今、そんな劉裕が広固に足止めを喰らい、未だ帰還できておりませぬ。この地におるのは故郷から遠く離れておるものばかり。かの者らの故郷に戻りたい、という思いを乗せて死士となせば、何無忌や劉毅のたぐいを攻め落とすのなぞ掌を返すがごときにございましょう。この機会を逃し、目先の安息にのみ縋りついておれば、南燕滅亡ののち兵士に休息を与え、1、2年と経たぬうちに詔勅と称し、教主殿を建康に呼び出そうとしてまいりましょう。あるいは劉裕が直接軍を率いて豫章にまで出向き、そこから鋭師を繰り出して山を越えさせて参りましょうか。そうなってしまえば、もはや教主殿の神武をもっても敵うものではありますまい。この機を万が一にも逃すわけにはまいりませぬ。建康さえ落としてしまえば、本拠地を失った劉裕に何ほどのことができましょう」
 盧循はこの言葉に従い、兵を率いて嶺を通過した。そしてこの月、南康、盧陵、豫章に侵攻した。諸郡守はみな逃げ去った。このとき、建康にはまだ南燕征伐の報が到着していなかったが、すぐさま劉裕に帰還を命じる急使が飛ばされた。劉裕は南燕征討後いったん下邳に滞在したのち後秦を討つ心積りであったが、急報を受け、即建康に取って返した。

鎮南將軍何無忌與徐道覆戰于豫章,敗績,無忌被害。內外震駭。朝廷欲奉乘輿北走就公,尋知賊定未至,人情小安。公至下邳,以船運輜重,自率精銳步歸。至山陽,聞無忌被害,則慮京邑失守,乃卷甲兼行,與數十人至淮上,問行旅以朝廷消息。人曰:「賊尚未至,劉公若還,便無所憂也。」公大喜,單船過江,逕至京口,眾乃大安。四月癸未,公至京師,解嚴息甲。

 鎮南将軍の何無忌が徐道覆と豫章で戦い、敗死した。国内は震駭した。朝廷では安帝を奉じて北方に逃亡、劉裕の元に身を寄せるべきと言う意見も持ち上がったが、すぐには五斗米道の軍勢が建康にまで至るわけでない事を知ると、人々はひと安心した。
 劉裕は下邳に至ると、輜重は船で運搬させ、精鋭を選抜して陸路にて建康に向け急行した。山陽に至って何無忌が殺されたことを聞き、もしや建康も落ちているのではないかと憂慮し、鎧も脱ぎ捨てて行軍の速度を速めた。数十人の伴とともに淮水を渡ろうとする時に旅人と出会い、建康の状況を聞くことができた。旅人は言う。
「五斗米道の軍はまだ到着しておりません、劉公が帰還さえできれば、憂いはなくなるでしょう」
 劉裕は大いに喜び、1隻の船にて京口に帰還した。人々は劉裕の帰還を聞き、大いに安堵した。四月癸未の日、劉裕は建康入りし、ようやくひと息つくことができた。

撫軍將軍劉毅抗表南征,公與毅書曰:「吾往習擊妖賊,曉其變態,新獲姦利,其鋒不可輕。宜須裝嚴畢,與弟同舉。」又遣毅從弟藩往止之。毅不從,舟師二萬,發自姑孰。循之初下也,使道覆向尋陽,自寇湘中諸郡。荊州刺史道規遣軍至長沙,為循所敗。逕至巴陵,將向江陵。道覆聞毅上,馳使報循曰:「毅兵眾甚盛,成敗事係之於此,宜并力摧之。若此克捷,天下無復事矣。根本既定,不憂上面不平也。」循即日發巴陵,與道覆連旗而下。別有八艚艦九枚,起四層,高十二丈。公以南藩覆沒,表送章綬,詔不聽。五月,劉毅敗績于桑落洲,棄船步走,餘眾不得去者,皆為賊所擒。

 建康の南、姑孰に駐屯していた撫軍将軍の劉毅が五斗米道征伐のため南征したいと手紙にて願い出てきた。劉裕は劉毅に返信を送る。
「俺は何度か奴らと戦ったことがあるが、明らかに奴らは変質している。さらなる悪知恵を身につけ、まるで軽んじられぬ勢力となっているのが窺える。備えを厳重に整えた上で、俺の弟、道規と共にことに当たるべきだ」
 あわせて、共に引き返してきていた劉藩を派遣して制止をかけようとした。しかし劉毅は劉裕の言を聞かず20000の水軍を率い、姑孰より進軍を開始した。
盧循は侵攻を始める際、手始めに徐道覆を尋陽に向かわせ、自らは湘州の諸郡を攻撃した。荊州刺史の劉道規は長沙に軍を差し向けたが、盧循に敗れた。盧循は巴陵を経て江陵に向かおうとした。徐道覆は劉毅の軍が迫ってきたと聞くと盧循に加勢依頼の文を飛ばした。
「劉毅の兵は非常に強力です。この戦の勝敗が今後の局面に大いに関わって参ります、どうか、共にこれに当たってくださいませんでしょうか。根本さえ押さえてしまえば、表面上の不服なぞ何ほどのものでしょうか」
 盧循はこの知らせを受け、即座に巴陵を発ち、徐道覆と合流した。五斗米道軍には8艘の戦艦があった。帆が9枚、内部構造が4層、全高にして12丈と言う規模のものだ。劉裕は南方の敗報を受け、自身の監督責任であるとして章綬を返上しようとしたが、却下された。五月、劉毅が桑落洲にて敗北、船を捨て陸路にて逃亡した。逃げ遅れた者はみな五斗米道軍に捕らえられた。

初循至尋陽,聞公已還,不信也。既破毅,乃審凱入之問,並相視失色。循欲退還尋陽,進平江陵,據二州以抗朝廷。道覆謂宜乘勝徑進,固爭之。疑議多日,乃見從。
毅敗問至,內外洶擾。于時北師始還,多創痍疾病。京師戰士,不盈數千。賊既破江、豫二鎮,戰士十餘萬,舟車百里不絕。奔敗還者,並聲其雄盛。孟昶、諸葛長民懼寇漸逼,欲擁天子過江,公不聽,昶固請不止。公曰:「今重鎮外傾,強寇內逼,人情危駭,莫有固志。若一旦遷動,便自瓦解土崩,江北亦豈可得至!設令得至,不過延日月耳。今兵士雖少,自足以一戰。若其克濟,則臣主同休;苟厄運必至,我當以死衞社稷,壞廟門,遂其由來以身許國之志,不能遠竄於草間求活也。我計決矣,卿勿復言!」昶恐其不濟,乃為表曰:「臣裕北討,眾並不同,唯臣贊裕行計,致使強賊乘間,社稷危逼,臣之罪也。今謹引分以謝天下。」封表畢,乃仰藥而死。

 盧循は尋陽に至った時、劉裕が帰還していたと聞いていたが、信じなかった。しかし劉毅を破ったあと、改めて南燕を滅ぼした上で凱旋入城したと言う確定報を聞き、まわりにいた者共々顔色を失うのだった。盧循はいったん尋陽に退いて江陵を落とし、江州荊州の2州に拠って晋に抗しようと考えた。一方で徐道覆はあくまで勝ちに乗じて進むべきであると主張し、お互いに譲らなかった。両者の議論は多日に及んだが、最終的には進軍、と言う事での一致を見た。
 劉毅の敗北は内外を恐怖に陥れた。北伐軍が帰還したとは言っても、誰もが負傷や病を負っているありさまであり、この段階で建康に詰めていた戦力は数千名にも満たなかった。対する五斗米道はこのとき江陵および豫章を破り、10万あまりもの兵力を擁し、川に浮かべる船団やその河岸を守る車の一団が100里にもわたって続く、とされていた。こうした内容は逃げ帰ってきた者たちの口々から伝え聞かされたものである。孟昶や諸葛長民は敵軍の接近を恐れ、安帝を奉じて北に逃れるべきと主張した。劉裕はそれらを一顧だにもせず、孟昶からの再三の要請をも撥ね退けた。劉裕は言う。
「晋の重鎮らが散々に破られ、強敵がいよいよ迫っている。人々も危機を覚え、この地をなんとしてでも守り抜かねばならない、と決断できるものも多くはなかろう。ここでひとたびでも陛下を逃がし遊ばせば、この建康の士気は瓦解し、そうともなれば江北の地すら保ち切れたものではない。奴らとの決戦は、もはやこれ以上先延ばしにはできん。いま、兵は確かに少ない。だが、あと1戦をするには足る。ここさえ勝ち抜ければ、臣下も主君も慶賀を同じくできるのだ。こうした危地は否応なしに我らの身に降りかかってくるものだ。ならば俺は死してなお晋の社稷をまもり、その死体で太廟の門へ押し入る賊を妨げる障害になって見せよう。今こそがお国に身を置くのを許されたことに報いるときであり、遠き草陰より都の陥落を覗き見つつ生きながらえようとしている場合ではないのだ。我が計は決した、もはやはもこれ以上、何も言ってくれるな!」
 しかし、その言葉で孟昶の恐怖が拭い切れることはなかった。安帝に上表をしたためる。
「臣劉裕の北伐を皆が諫めたが、その中で臣のみが裕の計略に賛意を示しました。ならばかの恐るべき賊どもにこの軍事的空白を突かせ、社稷に危機をもたらしたのは臣の罪にございます。いま、この分際より引き下がることにより、天下に謝罪したく思います」
 孟昶は上表を閉じ、封印をすると、毒薬を仰いで死んだ。

於是大開賞募,投身赴義者,一同登京城之科。發居民治石頭城,建牙戒嚴。時議者謂宜分兵守諸津要。公以為:「賊眾我寡,若分兵屯,則人測虛實。且一處失利,則沮三軍之心。今聚眾石頭,隨宜應赴,既令賊無以測多少,又於眾力不分。若徒旅轉集,徐更論之耳。」移屯石頭,乃柵淮斷查浦。既而羣賊大至,公策之曰:「賊若於新亭直進,其鋒不可當,宜且回避,勝負之事,未可量也。若回泊西岸,此成擒耳。」

 劉裕は建康において大いに義勇兵を募った。ここで志願したものについてはいったん建康城詰めの兵科として登録した。また住民を非常時動員という形で石頭城の防備修繕にあたらせ、牙旗を掲げ戒厳体制を敷くことを示した。このとき各港湾の要所要所に守りを分けて配備した方がいいのでは、と提案するものがあった。劉裕は首を振る。
「賊軍は多、わが軍は寡。下手に兵力を分散させでもすれば、我々の防備の手薄さを即見抜かれてしまうだろう。この状態で利を失えば、それは即全軍の士気にもかかわってくる。いったん全軍を石頭城に集め、状況に応じて各拠点に派遣する。賊軍にこちらの兵力の多寡を占えぬようにしたいところであるし、そもそもこれ以上分けるわけにもゆかん。もし奴らが一点集中で攻め立てでもしてきたなら、その時はその時で考えねばなるまいがな」
 石頭城に駐屯すると、秦淮河に柵を組ませ、査浦を封鎖した。やがて五斗米道軍の大船団が視界に収まる。劉裕はこのとき、この先の作戦についてこう漏らしている。
「奴らが新亭を直進するならば、到底防げたものでもない。なんとか回避分断するより他あるまい。しかし勝負事は常に先の見通せぬもの。もし奴らが一挙に攻め立てようとせず、いったん長江西岸にでも停泊してくれたならば、奴らのそっ首も縛り上げられような」
道覆欲自新亭、白石焚舟而上。循多疑少決,每欲以萬全為慮,謂道覆曰:「大軍未至,孟昶便望風自裁,大勢言之,自當計日潰亂。今決勝負於一朝,既非必定之道,且殺傷士卒,不如按兵待之。」公于時登石頭城以望循軍,初見引向新亭,公顧左右失色。既而回泊蔡洲。道覆猶欲上,循禁之。自是眾軍轉集,修治越城,築查浦、藥園、廷尉三壘,皆守以實眾。冠軍將軍劉敬宣屯北郊,輔國將軍孟懷玉屯丹陽郡西,建武將軍王仲屯越城,廣武將軍劉懷默屯建陽門外。使寧朔將軍索邈領鮮卑具裝虎班突騎千餘匹,皆被練五色,自淮北至于新亭。賊並聚觀,咸畏憚之;然猶冀京邑及三吳有應之者。遣十餘艦來拔石頭柵,公命神弩射之,發輒摧陷,循乃止不復攻柵。設伏兵於南岸,使羸老悉乘舟艦向白石。公憂其從白石步上,乃率劉毅、諸葛長民北出拒之,留參軍徐赤特戍南岸,命堅守勿動。公既去,賊焚查浦步上,赤特軍戰敗,死沒有百餘人。赤特棄餘眾,單舸濟淮。賊遂率數萬屯丹陽郡。公率諸軍馳歸。眾憂賊過,咸謂公當徑還拒戰。公先分軍還石頭,眾莫之曉。解甲息士,洗浴飲食之,乃出列陳於南塘。以赤特違處分,斬之。命參軍褚叔度、朱齡石率勁勇千餘人過淮。羣賊數千,皆長刀矛鋋,精甲曜日,奮躍爭進。齡石所領多鮮卑,善步矟,並結陳以待之。賊短兵弗能抗,死傷者數百人,乃退走。會日莫,眾亦歸。

 徐道覆は新亭、白石に停泊している船を焼き払ったうえで上陸しようと思っていた。対する盧循は優柔不断であり、何事に対しても万全を要求してきた。徐道覆に言う。
「晋軍の軍勢はまともに揃わず、軍容はいまだ整わず、聞けば孟昶もわれらを恐れ自殺したと言うではないか。多くの者が、晋軍も日を追うごとに潰れて行くだろう、と言っているぞ。今ここであえて決戦を急いでも、趨勢は未知数、多くの兵を死傷させることになるだろう。ここはいちど兵を休ませ、待つのがよかろう」
 このとき劉裕は石頭城から盧循の軍勢を眺め、はじめその舳先が新亭に向いたのを見て、まわりを見、顔色を失った。しかし五斗米道軍は舳先を西に向け、いったん建康を離れ、蔡洲に停泊した。徐道覆が北上を求めても、盧循が禁じたのだ。これを好機と見た劉裕はすぐさま各軍に指示を出した。越城を修繕し査浦、薬園、廷尉の各所に塁を築き、それぞれに防備の軍勢を出した。冠軍将軍の劉敬宣を北郊に。輔国将軍の孟懐玉は丹陽郡の西に。建武将軍・王懿は越城に。広武将軍・劉懐黙は建陽門の側に。寧朔将軍・索邈には鮮卑の具装虎班突騎1000騎を与えた。彼らはみな練五色をまとい、秦淮河から新亭に展開した。
 迫り来る五斗米道軍の威容に誰もが恐れ怯えたが、この頃には京口や三呉からの参戦希望者も集まり始めていた。五斗米道軍は10艦あまりにて石頭城の柵を抜こうと試みたが、劉裕は神弩にて応撃、射撃のごとに大きく打撃を与えた。盧循は石頭への攻撃を諦めたが、南岸に伏兵を配した上で病人老人の乗った船を白石に進めさせた。劉裕は警戒のため劉毅、諸葛長民を連れて陸路にて白石へ急行した。南岸には参軍の徐赤特を駐屯させ、堅守し持ち場を離れぬようにせよと厳命した。劉裕が立ち去ったところで五斗米道軍は査浦を焼き上陸、攻め上がった。徐赤特の軍は敗北し、100人あまりの死者を出した。徐赤特は残存の兵らを捨てて、ひとり秦淮河を船で渡った。数万もの五斗米道軍は、ついに丹陽郡を占拠した。劉裕は諸軍を引き連れ、急ぎ帰還した。
 人々は五斗米道軍が建康にて暴略を働くことに怯えていたが、しかし誰もが劉裕による迎撃もまた信じていた。劉裕は軍を一部分けて石頭に帰還させたが、誰もが疲労困憊の態だった。そこで装備を外させ、湯浴みをさせ、食事を与え、その上で改めて南塘に配備した。徐赤特は命令違反をなしたと言う事で、斬った。参軍の褚裕之と朱齢石に命じ、1000人余りの精鋭を抜擢、秦淮河を渡らせた。
 数千の五斗米道軍はみな長刀や矛をもち、鎧は日の光に輝き、猛然と進軍していた。朱齢石が率いた軍は多くが鮮卑で、徒歩にても矟を巧みに操り、陣形を組んで待機した。五斗米道軍の武器とではおよそ間合いが比べ物にならず、瞬く間に数百人を殺した。五斗米道軍は退散した。間もなく日没を迎え、そのまま五斗米道軍は撤退した。

劉毅之敗,豫州主簿袁興國反叛,據歷陽以應賊。琅邪內史魏順之遣將謝寶討斬之。興國司馬襲寶,順之不救而退,公怒斬之。順之,詠之之弟也。於是功臣震懾,莫敢不用命。
六月,更授公太尉、中書監,加黃鉞。受黃鉞,餘固辭。以司馬庾0抃威將軍、江州刺史,自東陽出豫章。
七月庚申,羣賊自蔡洲南走,還屯尋陽。遣輔國將軍王仲、廣川太守劉鍾、河間太守蒯恩追之。公還東府,大治水軍,皆大艦重樓,高者十餘丈。盧循遣其大將荀林寇江陵,桓謙先於江陵奔羌,又自羌入蜀,偽主譙縱以為荊州刺史。謙及譙道福率軍二萬,出寇江陵,適與林會,相去百餘里。荊州刺史道規斬謙于枝江,破林於江津,追至竹町斬之。

 劉毅の敗北を受け、豫州主簿の袁興国が反旗を翻し、暦陽にて五斗米道と結んだ。琅邪内史の魏順之は謝宝を派遣し、これを斬った。袁興国の司馬が謝宝を襲撃したが、魏順之は謝宝を見捨てて撤収した。劉裕はこれに怒り、魏順之を斬った。魏順之と言えば魏詠之の弟である。功臣たちも震え上がり、以降劉裕の命令に背くものはいなくなった。
 六月、劉裕にはさらに太尉、中書監の地位が打診され、更に黄鉞も与えられた。黄鉞のみを受け、他は辞退した。司馬の庾悦を建威将軍、江州刺史となし、東陽から豫章へ出向させた。
 七月庚申の日、五斗米道軍は蔡洲より南下し尋陽にて陣を張った。劉裕は輔国将軍の王懿、広川太守の劉鍾、河間太守の蒯恩を派遣し、追撃した。劉裕は東府城に戻り、水軍編成に取り掛かった。帆柱が幾つも立つ、高さ10丈あまりの船である。
 盧循は荀林に江陵を攻撃させた。いっぽう桓玄の残党である桓謙が、先に江陵より後秦に逃亡し、更にそこから蜀入りし、譙縦によって荊州刺史に任命されていた。桓謙、及び譙縦の従子である譙道福が20000の軍を率い江陵を襲撃、荀林と合流して100里ほど離れた。荊州刺史の劉道規は枝江で桓謙を斬り、江津で荀林を破り、追撃の上竹町にて斬った。

初循之走也,公知其必寇江陵,登遣淮陵內史索邈領馬軍步道援荊州。又遣建威將軍孫季高率眾三千,自海道襲番禺。江州刺史庾至五畝嶠,賊遣千餘人據斷嶠道,A茨鄱陽太守虞丘進攻破之。公治兵大辦。十月,率兗州刺史劉藩、寧朔將軍檀韶等舟師南伐。以後將軍劉毅監太尉留守府,後事皆委焉。
是月,徐道覆率眾三萬寇江陵。荊州刺史道規又大破之,斬首萬餘級,道覆走還盆口。初公之遣索邈也,邈在道為賊所斷,道覆敗後方達。自循東下,江陵斷絕京邑之問,傳者皆云已沒。及邈至,方知循走。循初自蔡洲南走,留其親黨范崇民五千人,高艦百餘,戍南陵。王仲等聞大軍且至,乃進攻之。十一月,大破崇民軍,焚其舟艦,收其散卒。

 劉裕は盧循が撤退にあたり江陵に攻撃を仕掛けるであろうと考え、淮陵内史の索邈に陸路からの援軍を率いさせていた。また建威将軍の孫処には兵3000にて、海伝いに番禺を襲撃させた。江州刺史の庾悦が五畝嶠までやってくると、五斗米道軍1000人あまりが五畝嶠を占拠し、道を塞いでいた。庾悦は鄱陽太守の虞丘進に攻めさせ、破った。劉裕は大々的な練兵ののち、十月に兗州刺史の劉藩、寧朔将軍の檀韶らを率いて水軍を編成、南伐に出た。後将軍の劉毅に太尉府に就かせ、後事をすべて委ねた。
 同月、徐道覆は30000の兵力で江陵に攻撃を仕掛けた。劉道規はこれを大いに破り、10000余もの首級を挙げた。徐道覆は盆口に逃げ帰った。この頃劉裕が派遣した索邈は五斗米道軍によって荊州行きを妨げられていたが、徐道覆の敗北によって荊州に行き着くことができた。盧循の侵攻以来江陵と建康の間は遮断されており、劉道規に対し、伝者はみな建康は落ちた、と伝えていた。しかし劉道規は、索邈が姿を現したのを見て、盧循が建康攻撃に失敗したのだと悟った。
 盧循は蔡洲より南方に向け逃れようとした時、側近の范崇民に兵5000、高艦100余りを与え、南陵に布陣させた。先行して南陵にて睨み合っていた王懿らの元には、まもなく劉裕の率いる本軍が到着すると報せが届いた。このため王懿は攻撃を開始、十一月に范崇民の軍を大いに破った。舟艦を焼き、逃散した兵卒を捕えた。

循廣州守兵,不以海道為防。是月,建威將軍孫季高乘海奄至,而城池峻整,兵猶數千。季高焚賊舟艦,悉力而上,四面攻之,即日屠其城。循父以輕舟奔始興。季高撫其舊民,戮其親黨,勒兵謹守。初公之遣季高也,眾咸以海道艱遠,必至為難;且分撤見力,二三非要。公不從。敕季高曰:「大軍十二月之交,必破妖虜。卿今時當至廣州,傾其巢窟,令賊奔走之日,無所歸投。」季高受命而行,如期剋捷。

 五斗米道の軍のうち広州を守っていた兵らは、海伝いの攻撃に対して警戒をしていなかった。このため建威将軍の孫処が到着し、攻撃を仕掛けた。とはいえ城の防備は整い、兵力はなおも数千を数える。孫処は五斗米道軍の船を焼き、総員を上陸させて4面より城を攻め、その日のうちに城を落とした。盧循の父は軽舟で始興に逃れた。孫処は、もともと番禺にいた人々については慰撫し、殺すのはあくまで五斗米道軍のみにとどめさせるべく兵士に順守を徹底させた。
 なお孫処の海伝いの派兵について、人々は海伝いが遠すぎるので成果は望めないのではないか、しかもあえて兵力を2分3分する必要もないのではないか、と反対した。劉裕は従わず、孫処にこう言った。
「十二月までに、奴らはほぼ壊滅しているだろう。そなたがこのとき広州に到着していて、奴らの根城を叩いてさえいれば、奴らの逃げ帰る先がなくなるわけだ」
 孫処は劉裕のこの企図を見事に実現したわけである。

循方治兵旅舟艦,設諸攻備。公欲御以長算,乃屯軍雷池。賊揚聲不攻雷池,當乘流逕下。公知其欲戰,且慮賊戰敗,或於京江入海,遣王仲以水艦二百於吉陽下斷之。十二月,循、道覆率眾數萬,方艦而下,前後相抗,莫見舳艫之際。公悉出輕利鬭艦,躬提幡鼓,命眾軍齊力擊之。又上步騎於西岸。右軍參軍庾樂生乘艦不進,斬而徇之。於是眾軍並踊騰爭先。軍中多萬鈞神弩,所至莫不摧陷。公中流蹙之,因風水之勢,賊艦悉泊西岸。岸上軍先備火具,乃投火焚之,煙爓張天,賊眾大敗,追奔至夜乃歸。循等還尋陽。初分遣步軍,莫不疑怪,及燒賊艦,眾乃I。召王仲,請還為前驅。留輔國將軍孟懷玉守雷池。循聞大軍上,欲走向豫章,乃悉力柵斷左里。大軍至左里,將戰,公所執麾竿折,折幡沈水,眾並怪懼。公歡笑曰:「往年覆舟之戰,幡竿亦折,今者復然,賊必破矣。」即攻柵而進。遁兵雖殊死戰,弗能禁。諸軍乘勝奔之,循單舸走。所殺及投水死,凡萬餘人。納其降附,宥其逼略。遣劉藩、孟懷玉輕軍追之。循收散卒,尚有數千人,逕還廣州。道覆還保始興。公旋自左里。天子遣侍中、黃門勞師于行所。

 盧循は船団を再編成し、晋軍よりの攻撃に備えた。劉裕は長期戦を想定し、雷池に駐屯した。五斗米道軍は鬨の声こそ上げたものの雷池には攻め寄せようとせず、むしろ劉裕を回避し、長江を下ろうとした。劉裕はその意図に気付き攻撃を仕掛けようとしたが、一方で自身が敗北し、ふたたび五斗米道軍によって京口から海までを抑えられてしまうような事態にならないよう、王懿に水艦200を預け、吉陽を封鎖させた。
 十二月、盧循と徐道覆は数万の兵を率い、攻めてきた。前後はほぼ密着の状態、ともすれば船同士が接触してもおかしくないほどである。劉裕は軽利闘艦を全艦投入し、自ら旗を掲げ太鼓を鳴らした。そのため晋軍は全軍が力を尽くし戦った。また西岸には歩兵騎兵を上陸させ、配備した。右軍参軍の庾楽生が上陸を拒否したので、斬って晒し者とした。このため上陸命令を受けたものたちは先を争うように配置についた。軍中には神弩が10000丁ほど用意されており、あらゆる箇所で五斗米道の艦に損害を与えた。劉裕は川の流れや風を利用して五斗米道軍に接近し、五斗米道の軍を西岸に追い詰めた。岸上の軍には火攻めの用意がなされており、次々とたいまつが投入されると、船は焼かれ、その煙は空一杯に立ち込めた。五斗米道軍はほうほうの態で、夜のうちに逃亡した。盧循らは尋陽に逃げ込んだ。
 ところではじめ西岸に派遣された部隊は、庾楽生のように表にこそ出さなかったものの、劉裕の命令の意図がつかめず疑念にとらわれていた。しかし五斗米道の船を大いに焼いたあとには意図を知り、大いに喜んだ。王懿を召喚すると追撃の先鋒に指名した。輔国将軍の孟懐玉を雷池の守りに任じた。盧循は晋軍が攻め上がってきたのを聞くと、豫章に逃げようとした。その際左里に防備柵を設置し、備えとした。いよいよ決戦、というときに、劉裕の陣の旗が折れ、河中に沈む、と言う事があった。人々は凶兆だと恐れたが、劉裕は喜び、笑って言う。
「桓玄のとき、覆舟山でも同じようなことがあった。これは賊どもが敗れる、と言う事さ」
 柵を攻めるため、進軍する。戦いが始まると、盧遁の兵は死も恐れず全力で立ち向かいはしたものの、およそ敵うものではなかった。諸軍が勝ちに乗じてさらに攻めかかると、盧循は身ひとつ船ひとつで逃げた。戦死者や川に落ちて溺死したものは10000あまりを数えた。投降したものについては受け入れ、その劫掠行為についても許した。劉裕は劉藩と孟懐玉に足回りの速い水軍を任せ、追撃させた。盧循は散り散りになった軍勢を回収し、それでも数千人規模までには立て直すことができた。盧循は広州へ直帰。徐道覆は始興に戻り、防備に当たった。劉裕は左里より引き返した。安帝は侍中、黄門を派遣し、帰途にて兵士らをねぎらった。

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