劉裕は軍人上がりの皇帝である。軍役にて数多の功績を挙げ貴顕となった。前項で東晋についての紹介をしたので、次はその中で具体的にどのような動きが起こり、劉裕という傑物の活躍の場が用意されたのかを探ってみよう。
上の図には二本の矢印が引かれている。左回り(南下ののち東征)の線は、いわば赤壁ルートとでも呼ぶべきものである。三国志の時代、魏が呉を討たんと起こした軍の経路だ。続いてほぼ直線の線は淝水ルートとでも呼んでしまおう。前秦が東晋を討たんと起こした軍の経路である。
雑に言おう。大規模な軍の運用にあたっては、山系水系が大きくその進軍ルートを制限する。よって、長江の南の建康を攻めるにあたっては、どうしても赤壁もしくは肥水ルートをたどらねばならなかったのである。
東晋という国のいきさつについては前項の通り。中原を追われた東晋の人間にしてみれば、最後に残された江南の地はどうあっても守り抜かねばならない。なので騎馬民族たちの侵攻より身を守るために、
この二箇所に防衛基地が築かれるのは当然の成り行きであった。のちに赤壁ルート側の基地は西府、淝水ルート側の基地は北府と呼ばれ、それぞれに鍛え抜かれた精兵が配備されるようになる。
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さて、ここまでは外敵からの備え、ということですんなり話が流れる。東晋の性質については、ここからのドロドロした部分をざっくりにでもいいから理解するのが勘所となる。西府と北府はともに国の最重要軍事拠点である。ということは、そこの最高司令官が持つ権限はそのまま東晋内部での発言力に跳ね返る。つまり、ごく当たり前のように西府と北府は反目しあう。……バカどもである。味方同士で勢力を削りあうのだ(もっとも、歴史をたどれば大体において強大な外敵を前に一致団結などというのはドリー夢なケースでしかないわけだが)。
ここで話を軽くすっ飛ばそう。先に結果を見てしまう。劉裕は北府兵としてその経歴をスタートし、やがて北府軍を掌握、そして西府軍を束ねていた偽帝・桓玄を打倒することで西府軍をも併呑した。二大軍事勢力を抑え、かくして劉裕は東晋内での権力を確たるものとする。この辺りの部分を頭に収めておくと、先の話が判りいいかもしれない。
ところで東晋で名宰相と呼ばれる二人、つまり王導及び謝安はこの二大勢力にうまく折り合いをつけることで国内の舵取りを果たした。東晋にとっての幸運は前秦の南下、つまり淝水の戦いがうまい具合に謝安の執政中に勃発したことだろう。淝水の戦いでは北府軍と西府軍が手を取り合い、共通の敵に対することができた。
淝水の合戦の後まもなく謝安は死んだ(大戦を勝ち抜けた安堵のあまりだったのかも知れない)。そして名宰相の死が招くもの、それはリバウンドとでも呼ぶべき現象だった。それまで謝安に頭を押さえつけられていた貴族たちが乱脈の限りを尽くし始める。中でもひどかったのが東晋の皇族である司馬道子と司馬元顕の親子。次第に朝廷はこの二人の専横を許し始めるようになった。その中にあって北府軍の長、名族王恭が二人の増長を阻むべく立ち上がる。だが王恭は老獪な司馬親子の策にはまり、あえなく倒されてしまった。王恭の部下であり、北府軍の実働隊長とでも呼ぶべき勇将劉牢之が、裏で司馬親子とつながっていたのだ。
東晋はいよいよ親子の独壇場になるかと思われた。だが新たに別の勢力が立ち上がる。東晋が誇る二大軍閥の片割れ、すなわち西府軍を束ねていた桓玄だ。精兵を率い東上する桓玄の軍。対するは元顕が派遣した劉牢之率いる北府軍。だがこの両者が戦うことはなかった。両軍は遭遇するや合流、そして大挙して建康へと押し寄せた。劉牢之が、今度は桓玄と手を結んでいたのだ。この展開ではもはや防衛もクソもない。あっさりと都は桓玄の手に落ちる。親子は、当然のように殺された。
以上の経緯により劉牢之は「二度の裏切りを果たした男」という汚名を着せられるようになる。その声望は失落、ついには北府軍の長という立場すら追われてしまう。反乱を起こそうにも、彼のもとに集まる兵力は心許ない。かくて彼は一人寂しく朽ち果ててゆく。残った劉牢之派の将軍たちは、軒並み桓玄の手によって粛清されて行った。骨抜きとされた北府軍は、否応なく桓玄の軍閥に吸収されてしまう――
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そろそろこの辺りで劉裕に目を向けてみよう。劉裕が生まれた京口は北府軍の総本山のような町であった。そんな町で生まれ育っているわけだから、当然「兵士」は寄奴少年にとって身近な存在であったに違いない。淝水の戦いが起こったときにはもう21歳。兵卒としてこの戦いに参加していたことも十分に考えられる。この大戦での功績を足がかりとし、まずは北府軍に劉裕あり、と言う風評があらわれ、評判が評判を呼び、そうして劉牢之の目に留まるにまで至ったのではないか。
劉牢之旗下の武将としてその声望を確たるものとした劉裕は、しかし地位としては一士官に過ぎなかった。そのため劉牢之自殺後の北府軍に吹き荒れた粛清の嵐からは免れることができた。それどころか、新しい北府軍の将としての地位を手に入れまでする。
やがて桓玄打倒の大義名分を手に入れた劉裕はそこを切っ掛けとし、一気にスターダムを駆け上がる。それにしても、その登場までに設えられていたお膳立て振りには驚嘆するしかない。まさしく時代に求められた男だったのだろう。