晋末宋初に関するエピソード群を様々な形で参照できる wiki です。

劉裕(363−422)

字は徳與。幼名は寄奴。建康(現在の南京)付近に住まう一小役人の子として生まれ、やがて東晋軍に入隊、そこで赫赫たる戦功を上げ「晋に劉裕あり」とまで言われるほどの大将軍として名を馳せるにいたる。その後晋帝より禅譲を受け「宋」を建国。しかし建国後数年もたたないうちに死去。

その功績を挙げると「大規模反乱の鎮圧」「纂逆者に対するクーデタの敢行と成功」「国土・国都奪回」「土断による財政立て直しの成功」などがある。特に国土については、単純に話をしてしまえば劉裕の指揮の元でおよそ二倍にも広がった、と言うことができる。武功の大きさという点で言えば中国史上でも相当の上位にランキングされる武将だろう。

そんな劉裕についての紹介を行っていこう、と言うのが当サイトだ。

当サイトの一切は「他者が読むに耐えるものを作ることで劉裕に関する情報を一通り整理する」ことを目的に記されている。よって全て内容は波間丿乀斎が責を負うものである。著作権等々もさほど考えてはいないが、何らかの目的のための引用を行う際には一言申し出の上で実行をお願いしたい。

同時代人物

劉裕周りの時代を抑えるには、大まかに言えば晋書、宋書、魏書の三書を引く必要がある。優先度としては晋書、宋書、魏書の順である。宋書には確かに劉裕の伝記が載るわけだが、問題は劉宋半世紀の歴史のうち、劉裕がいたのはたったの2年弱でしかないことである。

人物一覧
宋書 晋書 魏書

伝記:宋書武帝本紀

 363年出生〜411年五斗米道撃退
 412年太尉昇進〜420年即位
 420年即位詔勅〜422年死亡、評
宋書武帝紀について
 劉裕を知るための第一史料が、何はさておき「宋書」であることは異論を俟たない。だが、ここで問題が発生する。宋書に邦訳というものは存在しない。なので浅学の愚もあえて無視し、とにもかくにも宋書に載る情報を自分なりに整理して行こう、と期した。よって当ページにて宋書武帝紀上中下巻の私訳、及び志に掲載される諸情報の整理を行い、提示する。最大の目的は「たぶんうっかりミスあると思うので教えてね☆」なのだが、まぁそこは非常にドメスティックなアレである。

 訳出に当たっては、宋書の撰者沈約が宋書作成をもし現代日本語でなしたとしたらどのような言い方をするであろうか、という点を念頭に置いている。すなわち「この書が何を訴えているのか」の紹介を所与の目的とし訳者の主義主張を声高に宣言するものではない。 とはいえ年代も場所も大きく離れている二人の人間に意思の同調など望むべくもない、ゆえに様々な相違部分も生じてくることになろう。この点に関してはもはや読者諸氏の卓見を待つばかりだが、問題がひとつあり誰が劉裕なんて知(ry

 本訳の準拠テキストはWikisource 宋書である。訳出に際しては web 上に転がっていた資治通鑑本末の邦訳、および吉川忠夫「劉裕――江南の英雄 南朝宋の武帝」を参考としている。特に後者はその道のプロの手によるものということで、特に上疎文、詔勅文の理解にあたって非常に重宝している。できればすべての詔勅系を訳してもらいたいと思ったのだが、そこはさすがにわがままと言うものだろう。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます