晋末宋初に関するエピソード群を様々な形で参照できる wiki です。

司馬曜(孝武帝)
字:昌明 362〜396(反逆) 皇帝
武の諡号こそもらってるものの、この人自身が何したわけでもなく。妾をおちょくって殺されるとか……まぁ、らしいと言えばらしい。
司馬宗(安帝)
字:宗 382〜419(反逆) 皇帝
精神薄弱だった、と言う事ですが、いやーでも詔を見る限り文才には優れてたんですね(スットボケ)。いいように利用された人ではある。
司馬文(恭帝)
字:文 386〜421(反逆) 皇帝
安帝紀読むと普通にこの人の名前がいっぱい出てくる。精神薄弱な兄を支えて、しまいに毒殺とか、とにかく悲惨過ぎる。
陳歸女(安太后)
〜390(病死) 妃姫
安帝、恭帝の母。美しく、歌が上手かった、くらいの情報しかない。
王神愛(安僖皇后)
384〜412(病死) 妃姫
安帝の皇后。安定の琅邪王氏だし母親は公主だしで、この辺りどんだけ近親婚著しかったのか想像すると気持ち悪くなる。
褚靈媛(恭思皇后)
388〜436(病死) 妃姫
恭帝の皇后。つまり、ザ・悲衰の未届け人。司馬茂英共々、いったいどのような気持ちで宋初のあのグダグダを見届けたのだろう。
司馬恬(敬王)
字:元愉 〜390(病死) 皇族
防(司馬懿の父)→進→遜→承→無忌、そして恬。言い換えると司馬懿の弟の子孫。この血統が東晋末のドラマを彩るのだ。
司馬尚之(忠王)
字:伯道 〜402(戦死) 皇族
王恭の乱で司馬元顕を護った後何故か司馬元顕を軽んじる。桓玄戦では部下に裏切られる。人物であったが人格はクソっぽい。
〜453(処刑) 皇族
司馬休之の息子にして尚之の継子。こいつが単純に凶暴だから劉裕に付け入る隙を与えるわけだ。亡命先でも暴れてるし。クズ。
字:季明 〜402(処刑) 皇族
丹陽尹についたってことはそれなりの人物のはずなのに全然記事がない。兄に連座して殺されました終了。かなしい。
〜417(病死) 皇族
劉裕との権勢争いに負け後秦、そして北魏へ亡命。伝を読むとどこでも重んぜられてて、割とこのひと物語の主役っぽい。
字:季度 〜402(処刑) 皇族
補国将軍についてたりもするので、割と実績はあったっぽい。でも晋書城では兄に連座されて殺されました、で終わってる。
字:顯宗 文官
司馬休之の部下。劉裕の父、劉翹と字が一緒だから、劉裕に仕えない意思を「翹」に改名することで示す。気骨の人である。
字:茂遠 374〜408(病死) 皇族
なんでこのひと義旗の旗頭になってんのって思ったら、迷子になってたところ偶然拾われたのか。「持ってる人」だったんだな。
〜418(処刑) 皇族
司馬遵の甥の息子。「晋皇室の権勢を落とすために」誣告され殺された、そうである。しかし晋書は劉裕を容赦なく悪し様である。
字:道子 364〜403(処刑) 皇族
ある意味で劉裕の活躍の舞台を整えてくれた人。彼の無軌道な専横のおかげで晋が著しく弱体化し、劉裕に付け入る隙を与えた。
字:朗君 382〜402(戦死) 皇族
悪い意味で老獪すぎる。何だ僅か二十歳で謀殺祭りとか。遠望はおよそ感じられないのだが、天才の類であるのは間違いない。
文官
元顕に「桓玄倒すのには劉牢之が必要です」って言ったけど、いざ劉牢之を見た途端「あいつヤバい」。実においしいピエロ役。
字:元琳 349〜400(病死) 文官
宋側から見ると王弘の父親。さすがの琅邪王氏、と言う立ち位置である。西府軍閥寄りで、陳郡謝氏とは仲が悪かった様子。
字:季琰 351〜388(病死) 文官
王┐猟錙その名は王┐留Δ墨△覆辰拭△箸書かれてるが、まぁ琅邪王氏当代の筆頭兄弟ですしねぇ……としか思えない。
字:稚遠 360〜408(病死) 文官
微賤の劉裕を引き立てた人。このひと琅邪王氏なのに、なんで桓玄追討の時、太原王氏がボコされてた事にビビってたんだろう。
武将
王恭の子飼いではあったが、待遇に不満を覚えて叛乱。その征伐に出向いてきたのが劉牢之。そりゃもう逃げた。以後消息不明。
字:惠脫 〜412(戦死) 武将
晋内の劉毅派。権勢争いで消されてるけど、本来劉毅派の人間は結構たくさんいるはずだろうから、もっと探し出したいもんである。
字:道胤 〜398(戦死) 武将
西府にあって北辺防備に尽力した人だったのだが、政争に巻き込まれて殺される。郗家の人は真面目だが立ち回りが下手だな。
字:伯道 〜404(処刑) 文官
結構悪辣な貨殖に邁進してたらしい。若い頃の劉裕も、はこの人に多額の借金をしていた。その後殺されたら市井が潤ったとか。
字:仲遠 〜404(戦死) 文官
刁逵の弟。義旗決起時、桓玄軍として迎え討とうと思ったが為すすべなく返り討ちに遭い、劉毅に殺された。割と巻き添えくさい人。
字:叔仁 文官
刁暢の次男。Wikipedia には後秦〜北魏に亡命、子孫はそのままそちらで栄えた、と載っている。ソースはまだ見つかってない。
字:鎮惡 〜388(病死) 武将
勇猛すぎて石虔が来たぞって脅すと病人が治ったとか草。実際前秦戦での防衛武功は半端ない。しかし猛将は虎殺すの好きね。
字:道全 〜405(戦死) 武将
桓石虔の息子、強かったけど凶暴。桓玄が死んだの聞いて安帝殺そうとしてる。なるほど、この手のなら最後っ屁も決められる。
〜389(病死) 武将
クソ武功マン。淝水後にしばしば来た北患をきっちりさばいた。桓豁の血筋はかなり化物ばっかりがそろっている印象だ。
〜402(病死) 武将
司馬道子の元にいたが、割と桓玄のスパイ状態になっていた。いや元顕なんでそんな厄種抱えてんのよ。本当、脇が甘いなあ。
〜410(戦死) 武将
桓謙とともに桓楚の末尾として戦い抜いた。そして元顕がこいつ抱えてたとか書いてあるし。ほんに元顕はバカなのかな?
武将
庾仄を倒した功で取り立てられてられた、とのことだが、桓玄に愛された割に重んじられてなくて、……アッーか? アッーなのか?
字:幼子 328〜384(病死) 武将
この人の類まれなバランス感覚があったから桓家は生き延びた。「謝玄みたいな小僧っ子に淝水任てんなよ」とか言っちゃってる。
字:茂遠 〜407(処刑) その他
晋を護った桓沖の孫と言う事で粛正からは免除されたが、その後殷仲文が起こした反乱の旗印に掲げられたせいで殺された。
字:敬祖 〜410(戦死) 武将
桓謙伝見ると後秦を軸に蜀、五斗米道での東晋包囲網構築が目論まれてて最高にアガる。劉裕の危機の立役者って感じだ。
字:承祖 〜404(戦死) 武将
桓謙の弟。簡文帝の娘を嫁している。人当たりの良さは感じさせる官歴で、その死を劉裕が悼んだのも割と嘘ではないのかも。
字:茂仁 〜404(病死) 文官
太原王氏の嫡流筋。弟たちが粛清される中彼は生き延びたようだが、生きた心地はしなかっただろう。「桓玄敗走後病死」とある。
字:茂和 〜404(処刑) 文官
桓玄の娘婿。軽侮していた劉裕の権勢がデカくなってきたから先手を打とうとして失敗。ヘイトは危ない、と言うお話ですね(違う)。
〜392(病死) 文官
アル中。兄たちの粛正劇だとか見ないまま死んだのは良かったんじゃなかろうか。太原王氏の鼻っ柱の高さを存分に味わえる人。
〜404(処刑) 文官
王愉の息子。父の叛乱に連座して処刑された。しかし、いくらなんでも王謐桓胤と並び讃えられたってフラグ過ぎやろ……。
〜397(処刑) 文官
どクズとしか言いようがないクズ。こいつが元顕になびいたのが王恭の乱のきっかけになったと言っていい。清々しいほどのクズ。
武将
王国宝の息子。あのどクズの息子がなぜか晋末期に護軍将軍になってる不思議。実績は不明。それなりの人物だったのだろうが。
〜405(病死) 文官
虞丘進の親戚かなと思ったら全然関係なかった。残ってる事跡が考武帝や桓玄の佞臣っぽい感じはある。名家の一門なのだろう。
字:祖言 〜395(病死) 文官
陸遜の弟の子孫。甥と最悪に仲が悪い逸話が並んでてやばい。自他ともに厳しいタイプの人だった。そりゃ周囲との軋轢も生じる。
字:澤 〜392(病死) 文官
孔子の26代孫と言うえらい重い肩書を持つ人。司馬道子ふざけんなマンだったので左遷された。左遷先で治績を残した、とある。
字:安國 〜408(病死) 文官
孝武帝が死んだときにギャン泣きした、と言われている。さすが儒教の始祖の子孫。治績が一切載ってないのに累進しててやばい。
字:安石 320〜385(病死) 文官
頭の回るスーパーはったりおじさんと言うイメージ。淝水の頃の差配の凄さはまだ晋書中からは読み取れない。
文官
謝安の孫と言う事で、宋からもかなり大切に扱われていた。劉裕は謝安のことがどうにも大好きなようにうつる。
字:瑗度 〜400(戦死) 武将
謝安の息子。将軍として割とブイブイ言わせてこそいたものの、思いっきり油断して調子こいてたら孫恩にぶっ殺された。
字:叔源 〜412(処刑) 文官
謝琰の息子。父の五斗米道の敗戦に遭遇、捕らわれたが、劉裕に助け出されたという。のちに劉毅と結んだため殺された。
字:幼度 343〜388(病死) 武将
淝水と言えばこの人、という名将。謝霊運の祖父でもある。小さい頃ヤク中だったのを謝安に止められました、と書かれている。
字:石奴 327〜389(病死) 武将
「苻堅を破るのは名に石が付いた奴」って噂に基づいて桓豁が息子の名前に石入れたのに叶えたのは謝石でしたー、って話が好き。
字:叔平 〜399(戦死) 武将
謝玄の姉(谢道韫)を妻に迎えた。五斗米道の信者だが、農民反乱者が貴族を見逃すはずもなく、無事五斗米道の乱で殺された。
字:子猷 338〜386(病死) 文官
高名な書家王羲之の息子、自身も書家、性格悪い、……あれっはんだくん? フリーダムな人だが、弟(献之)ラブ甚だしかった。
字:子敬 344〜386(病死) 文官
晋書にまんま「傍若無人」とか書かれてて笑う。父の能筆なにするものぞ、の気概を抱くが、父親の独白にてへし折られる。
字:叔夏 〜391(病死) 武将
桓玄の血族だと思ってたが、微妙に違うっぽい。ずば抜けた軍才で淝水で活躍、ずば抜けた楽才、素朴な人格者。チートか。
武将
桓伊の弟。劉裕と戦場を共にしたことがあるっぽい将軍だが、詳細は全くない。軍才はありました、程度だ。主な戦績は孫恩戦。
字:叔院 405(反逆) 武将
アンチ桓玄として目覚ましい活躍してるんだが、何と言うか、民心を全力でシカトするスタイルのせいで死んだ、と言う印象である。
〜423(戦死) 武将
割と劉裕派武将と言う感じなのだが、何故かここにいた。つーかめっちゃ武功マンなんだけど、なんでこんな軽い扱いなんだこの人。
字:次倫 〜393(病死) 武将
淝水の戦いのキーを握った将軍。前秦にとっての獅子身中の虫となった。淝水後の北面戦線は、かなりこの人に頼りっきりだった。
字:野民 352〜425(病死) 文官
宮中の処世を見事にしてのけた文官。恭帝の禅譲の折人目も憚らず泣いた。「晋の遺老として、嬉しくも、悲しくもある」と言った。
〜401(戦死) 文官
風流な話しか載ってない。この人は孫恩の乱を受けて敗死したわけだが、まぁ軍事にはノータッチっぽいようだし仕方ない。
字:仲元 〜400(処刑) 文官
激烈剛直の人。司馬道子、元顕に向かって「この老骨、今更死ぬのを恐れるかよ!」と諫言しまくったために憚られ、暗殺された。
字:武子 〜400(処刑) 文官
「蛍の光」の歌詞の元になった人。勉学を頑張って顕官に。江積と一緒に司馬元顕クソだろマンと化したため自殺させられた。
字:伯通 〜397(病死) 文官
殷仲堪の親戚で、王恭との挙兵を懸命に止めた。色々見えていた分、止めることのできなかった無力さは相当なものだっただろう。
字:茂達 334〜400(病死) 文官
「いやぁ……元顕らが大概なのは確かですけど、王恭や殷仲堪がマシかって言うと、それもねぇ……」とか普通に言っちゃう人。
字:孝伯 〜398(処刑) 武将
ポスト淝水〜孫恩の乱辺りの晋を振り回した人。死の間際にあってなお泰然自若としていたのは、確かにカッコイイのだが。
〜402(処刑) 武将
朝廷から煙たがられて怒って王恭を巻き込んで叛乱とかなかなか面白い人ではある。その後ふらふらした末元顕らと連座で処刑。
字:道堅 〜402(処刑) 武将
劉裕の上司、ということになる。「名将」として知られているのだが、対外戦案外弱いですよね、この人……まぁ相手が相手だけど。
〜399(戦死) 武将
美文家。やけに伝が厚いと思ったら、彼の書いた文章がいっぱい保管されてた。将としてのかれはいたく優柔不断だったとか。
〜399(戦死) 武将
強いが凶暴と書かれている。多いなそういう奴。一族まるごと凶暴、と言う印象。いとこもその凶暴さのせいで魯宗之に殺されてる。
字:希樂 〜412(戦死) 武将
劉裕にとって最大のライバル、なのだが、宋書じゃなくて晋書で悪し様なのがなぁ。唐がそう劉裕に義理立てする意義もないし。
字:伯群 〜404(処刑) 武将
何で劉藩じゃなくて劉邁かなあ! 要らねえだろこっち、アホだし!(※桓玄に劉裕らのクーデターをうっかりばらした)
〜413(処刑) 武将
こいつ桓玄に素行不良による罷免喰らったの逆恨みしての義挙だったんじゃねえのと思わせるクズっぷり。マーベラス素晴らしい。
〜410(戦死) 武将
劉裕大好きマン。息子の劉敬宣よりもむしろ何無忌の方が劉牢之の才を受け継いだらしい。五斗米道の乱にて敗死。
字:慶子 〜404(戦死) 武将
占い師に「お前死相が出てるぞ、出かけんな」と桓玄戦直前に言われた人。本当に死んだ。しかし晋書はほんとこういう話好きだな。
字:長道 〜405(病死) 文官
「一生喋れないくらいなら百日くらいかゆだけでもヘーキヘーキ」とか言っちゃう人。有能で、謙虚。……実績が全然わからない。
字:敬道 369〜404(戦死) 武将
劉裕軍閥の正統性を問う上で避けられない存在。「この男が晋にとって最悪の存在だったから」劉裕は正統を継ぐに相応しい、のだ。
字:敬祖 〜404(戦死) 武将
桓玄一の腹心、と呼んでいい。ただ、やはり尻尾振り以上の感想は出て来ない。そこは桓玄亡き後も踏ん張った桓謙に見劣りする。
字:仲文 〜407(戦死) 文官
殷氏のこの美文家率は何なんだろうか。そして武にからっきしなのも一緒とか。劉裕軍に対する変わり身の速さは素晴らしい。
字:靈秀 〜402(戦死) その他
五斗米道の乱の主導者。正直最初押せ押せで劉牢之軍来た瞬間負け続けって、晋の中央軍がカスだって証明になってるような。
字:敬遠 〜398(処刑) その他
彼が晋の中枢とずぶずぶだったので、五斗米道の乱を農民反乱と呼ぶのに抵抗がある。豪族絡まなきゃあの規模は無理だろう。
字:於先 〜411(戦死) その他
残忍な孫恩をしばしばなだめる役だった。その性格が優柔不断として現れ、敗因に。ただし、劉裕を最も追い詰めたのは彼だ。
〜413(戦死) その他
割と担がれた感じはある。独立後後秦に臣従を求める辺りの外交センスはさすがだが、しかしまぁ敵が劉裕じゃねえ……。
字:宗伯 361〜399(処刑) 文官
殷仲堪の配下として断乎として桓玄に仕えない姿勢を貫き、殉じた。しかしこの伝見てから胡藩伝読み返すと、切なくなってくる。
〜419(その他) 文官
恭帝の側近。劉裕から恭帝毒殺のための薬を渡されると「主君を殺すくらいなら俺が死ぬわ!」とその毒を飲んで死んだ。張邵の兄。
字:處默 〜413(病死) 文官
広州において善政&善政&善政を布いた人。盧循に捕まったりとかもしてる。しかし基本的には全方位からの尊敬を受けていた。
字:長康 344〜405(病死) 文官
なんかふわふわした人。画聖ということだが、しれっと散騎常侍まで貰ってたりする。まぁ風流の極み、貴族好みの人ではある。
字:仲靜 〜418(病死) 文官
長安で「劉裕様、これ以上の遠征はヤバいんじゃないっすかね」って歌でたしなめた人。劉裕も案外風流解するんだよなあ。

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