晋末宋初に関するエピソード群を様々な形で参照できる wiki です。

 南朝宋の高祖(武帝)劉裕は字を與、幼名を寄奴という。漢高祖・劉邦の弟、楚元王・劉交の21代目の子孫である。祖先は彭城県の綏輿に住んでいたが、曽祖父・劉混の代の時に永嘉の乱から逃れるため南下、長江をわたり晋陵郡丹徒県の京口に居を構えた。混の息子が靖、孫が翹、そしてひ孫が裕である。
 生まれたのは晋の哀帝の御世・興寧元年(363年)3月17日の夜であった。成長すると身長7尺6寸(約171センチメートル)にまでなり、その体格はきわめて人並み優れていた。
 貧しい家に育ちながらもその胸には大志を抱いており、細かい礼儀などにこそあまりこだわらなかったものの、継母にはよく尽くしているということで近所の評判になっていた。


 はじめに晋の将軍孫無終の部下として仕えた。
 安帝の御世、隆安3(400)年11月に五斗米道を統べる孫恩が会稽において乱を起こしたので、晋の将軍・謝琰および劉牢之が掃討にあたった。このとき劉裕は劉牢之の要請を受け劉牢之軍に従軍していた。
 翌月、劉牢之は呉の近辺で反乱軍数千名が街道に沿って駐屯しているのに遭遇した。そこで劉牢之は劉裕率いる十数名の部隊に偵察を命じた。偵察の途中反乱軍に発見され攻撃を受けた。部下が次々と死んでいく中劉裕は戦意を失わず、それどころかますます盛んとし、手にした長刀を振るって多くの敵を打ち倒した。
 そこに劉裕の身を案じていた劉敬宣(牢之の子)が軽騎兵を駆って救援に駆けつけた。すると反乱軍が引き返し始めたので、そこに追撃をかけて千人あまりを斬り、捕らえた。更に余勢をかって山陰を陥とすと、孫恩は海上へと逃げていった。


 隆安4(401)年5月、孫恩は再び会稽へ攻め込み、謝琰を殺した。しかし11月に劉牢之をはじめとした将軍たち(桓不才、孫無終、高雅之、袁山松ら)が孫恩を倒すため動くと、孫恩はたちまち敗走した。
 その後劉牢之は上虞を守備し、劉裕には句章を守らせた。
 句章城は小さく、駐屯している兵士は数百人に満たなかった。しかし劉裕は常に鎧に身を固め手には長刀を持ち、兵たちの先頭に立って、戦いのごとに敵陣をおとしていったため、反乱軍はたちまち浹口に逃げ帰った。
 なお、このとき孫恩討伐に従事したどの軍も出征先で暴掠の限りを尽くし、人々はむしろ兵士たちのために苦しめられていた。ただ劉裕の軍のみが規律にのっとり動いていたので、民は劉裕の軍に親しみ、劉裕の軍を頼るようになったという。


 年が変わり隆安5(402)年になると、孫恩がしきりに句章城を攻めるようになった。しかし劉裕は敵軍をことごとく撃破、孫恩はまた海上へ逃れた。
 3月、孫恩は今度は北にある海鹽を襲撃した。劉裕も孫恩を追って海鹽へと出向き、防備のための砦を築いた。
 敵は日ごとに攻めてくるが砦内の兵力ははなはだ心もとない。そこで劉裕は数百人の決死隊を結成した。そして皆で甲冑を脱いで、短刀を取り、太鼓をたたき大声を張り上げながら討って出た。反乱軍は劉裕たちのその様子に恐れおののき、鎧兜も捨て逃げ出した。このとき反乱軍の将である姚盛を討ち果たす。

 しかし連戦連勝とはいえ所詮兵力の差は覆しがたい。状況を打破しなければと劉裕は一人思案に暮れ、そして一つの奇策を打った。
 ある夜旗を隠し、兵たちの姿も潜めて、部隊が海鹽から撤退したように見せかけたのだ。その上、明くる朝には疲れた者や病にかかった者を敵から見える場所に配しておいた。
 反乱軍が遠くから劉裕の様子を伺うと、果たして「これは夜のうちに逃げ出したな」と信じ込み、勢い込んで海鹽に攻め込んだ。劉裕はこの油断に乗じて奮戦、敵を大破した。

 そのようなこともあって孫恩は海鹽も諦め、進撃を滬涜に向けた。劉裕は城を捨て反乱軍を追った。
 追撃には海鹽の長官・鮑陋が息子の鮑嗣之を呉の兵一千とともに合流させていた。鮑嗣之は先鋒を申し出たが劉裕は「反乱軍は非常に強い。呉の人たちは戦いに慣れていない。先鋒が崩れたら間違いなく我々は負ける。どうかわが軍の後援に回ってはくれまいか」とそれを断った。鮑嗣之は従わなかった。

 夜になると劉裕は伏兵を至る所に配し、同時に旗と鼓も用意させたが、このとき伏兵一箇所あたり数名しか人員を割かなかった。明くる日反乱軍が数万もの兵を率いてやってきたのでこれを迎え撃った。先鋒の干戈が交わったところで伏兵たちが一斉に姿を現し、旗を振り鼓を叩いた。実際は虚勢にしか過ぎないのだが、しかし反乱軍は周りを政府軍に囲まれたかのように錯覚し、あわてて退却を始めた。

 ここで勝ちに乗じた鮑嗣之が反乱軍を追ったが、深追いをしすぎたため逆に反乱軍の手にかかって殺されてしまった。形勢は一気に逆転し、劉裕は敵の追撃をかわしながら撤退しなければならなくなった。
 しかし敵の勢いは増すばかり。手勢も次々に討ち果たされていく。このままでは逃れられないと悟った劉裕は先だって伏兵を配したところまで向かい、そこでいったん撤退を止め、部下たちに戦死者の衣服を脱がさせた。そして死者たちをまるで兵士たちがゆったり休息しているかのように見せかけた。
 反乱軍はその様子を見て、さてはまだ伏兵が潜んでいるのでは、と疑った。そこへ劉裕が意気を盛んとして逆襲に打って出たので、やはり伏兵があるのだと錯覚し、ここで追撃を諦めた。反乱軍の撤退を見届けると劉裕はおもむろに引き返し、ようやく形勢を立て直すことができた。

 5月になると孫恩は滬涜を陥落せしめ、呉の内史・袁山松をはじめとした四千人を殺した。一方劉裕は婁県でまた反乱軍を打ち破っていた。


 6月に孫恩は勝ちに乗じて船で丹徒へと至り、丹徒を包囲した。
 十余万の軍勢であったと言われる。このとき劉牢之はいまだ山陰に駐屯しており救援に駆けつけられる状態ではなかった。都のすぐ傍まで反乱軍が押し寄せたため人々は恐れおののいた。劉裕は急ぎに急いでこれの救援に駆けつけ、結局丹徒への到着は反乱軍とほぼ同時だった。
 しかし累戦を経て兵力は著しく削がれており、加えて強行軍により兵士たちの疲労は頂点にある。そのうえ丹徒の守備隊の士気はもはや消えうせていた。孫恩は数万の配下を従えて、鼓を打ちときの声を上げながら蒜山に登った。住民たちはみな荷を担いでこれに続いた。
 劉裕は部下を率いて孫恩の軍に駆け寄りざま瞬く間に撃破、このとき崖から川に身を投げて死んだ者が多く出た。孫恩は人々が水面に激突する音を聞いて敗北を悟り、僅かな手勢とともに船へと逃げ帰った。
 しかし孫恩は敗れてもなお民衆が持つ勢いを恃みに建康へと向かった。孫恩の乗るやぐら船は非常に大きかったが、向かい風にあってうまく進めなくなり、十日ばかりしてようやく白石(建康のすぐ北にある河港)に到着した。
 だがその頃にはすでに劉牢之も都へと帰還し、防備体制が整えられていた。孫恩は都への進撃をあきらめ、鬱洲へと逃亡した。

 8月、劉裕は建武將軍、下邳太守に任命された。
 水軍を率いて鬱洲へ出向き、孫恩を散々に打ち負かし南方へと追いやった。劉裕は追撃の手を緩めず、11月には滬涜と海鹽でそれぞれ大打撃を与えた。
 三度の戦いで多くの捕虜を得、多くの首級を上げた。逃亡を続ける孫恩の手勢にはやがて上や疫病などの追い討ちも加わり、死者は過半数を超すような有様となった。こうして孫恩は浹口を経て臨海へと逃れた。


 元興元(402)年1月、驃騎将軍・司馬元顕が荊州刺史の桓玄を討つため兵を挙げた。桓玄もまた荊州および楚州の軍勢を率い司馬元顕に対抗した。司馬元顕側の大将は劉牢之だったが、このとき劉裕も劉牢之軍の幕佐に加わっていた。
 両軍は溧洲にて相対した。
 劉裕は攻撃許可を求めたが受け入れられず、それどころか劉牢之は桓玄との講和を考えていた。劉裕と劉牢之の甥の何無忌が懸命にそれを諌めたが結局劉牢之は息子を桓玄の元に講和の使者として派遣してしまうのだった。
 やがて桓玄はたやすく建康を落とし、司馬元顕を殺した。
 この後劉牢之は兵権を奪われ、会稽内史に任ぜられた。ここに来て劉牢之はようやく桓玄の意図に気付き、劉裕に
「奴はおそらくわしが抱えていた兵をよからぬことに利用するだろう。高雅之が広陵で挙兵するというので、わしはそれにつこうと思っている。劉裕よ、わしについてきてくれるか?」
 と告げた。だが劉裕は
「将軍は数万もの精兵とともに桓玄殿のもとに降った。桓玄殿はこれによって大きな力を得、その野望を達成したのだ。ここに天下は大きく揺らぐに至った。すでに兵たちの心はこんな事態を招いたあなたから離れている。このような状態では、あなたはもはや一都市広陵すら物することもできまい! 将軍には従いませんよ。俺は桓玄殿に帰服し、京口に戻るつもりです」
 と答えた。
 その後劉牢之は叛旗こそ掲げたものの結局兵力もろくに集めることかなわず逃げ出し、そして首を吊って死んだ。

 何無忌が劉裕に
「私はこれからどうしたらよいのだろう」
 と問うと、劉裕は
「劉将軍が亡くなったとはいえ、桓玄殿が将軍の親戚である君を見逃すとは到底思えない。君は俺と一緒に京口に来るべきだろう。俺と一緒ならばおいそれと桓玄殿も手は出してこれないだろうしな。桓玄殿が臣節を貫くというのであれば仕えていればいいだろうし、そうでなかったら倒せばいい。桓玄殿はいまこのまま晋室を乗っ取るかどうかでえらく頭を抱えていることだろうが、まぁ、どっちにしろ俺たちにはお呼びがかかるだろうさ」
 と答えた。
 桓玄が従兄弟の桓脩を撫軍将軍として丹徒に配属すると、劉裕は桓脩の中兵参軍として取り立てられた。建武将軍、下邳太守の地位は保たれたままだった。

 さて、孫恩は敗走し南下するうち付き従う者も徐々に散り散りとなり、遂には見つかって捕まるのを恐れ、臨海で海に身を投げた。
 残された配下たちは孫恩の嫁婿・盧循を主として推戴した。
 桓玄は建康以東の地も手中に収めんがため、盧循を永嘉太守に任じた。
 しかし盧循は拝命しながらも反乱を収めようとはしなかった。そこで桓玄は5月、劉裕に賊軍鎮圧を命じた。この時盧循は臨海から東陽に進出していた。元興2(403)年1月、桓玄は再び劉裕を派遣し、東陽で盧循を破った。盧循は永嘉へと逃れたが劉裕は追撃の手を緩めず、軍団長の一人張士道を斬った。
 追撃の手は結局晋安にまで伸び、盧循は船に乗って南へと逃れた。6月、劉裕には彭城内史の地位が加えられた。


 桓玄は楚王となり、いよいよ簒奪の意図を明らかとした。桓玄の従兄弟である桓謙が人払いをした後劉裕に
「楚王はいまや天下一の徳をそなえ、もはや彼のお方に従わぬものはない。朝廷内でも皆そろそろ桓玄様が登極すべきではないかと囁きあっているようなのだ。この件について貴公はどう思う?」
 と尋ねた。このとき劉裕はすでに桓玄打倒の意図を固めていたのだが、しかしその問いには恭しく
「楚王は宣武公(桓温のこと)の御子として、その威徳はあまねく世に浸透しております。対して晋帝の威厳ははなはだ微弱であります。民とて禅位の儀がなるのを久しく待ち望んでおりましょう。王がその流れに乗るのに、何の不都合がありましょうか」
 と答えた。すると桓謙は喜び
「貴公が大丈夫だというのであれば、これはもう事は済んだようなものだ」
と言った。

 そして12月、ついに桓玄は帝位に上り、安帝を尋陽へと遷した。
 桓脩が入朝すると、劉裕は桓脩に従って建康に入った。桓玄はここにいたって初めて劉裕を目の当たりとし、司徒の王謐に
「昨日劉裕を見たのだが、いかにも只者でない風貌であった。きっと人傑とはあのような者の事を言うのだろうな」
 と告げた。後日遊びやらで劉裕が招集されたとき、桓玄の態度は極めて慇懃で、また種々の贈り物についても膨大な量に上った。しかし劉裕はそういった桓玄の態度にまったく辟易していた。

 あるとき桓玄の妻が
「劉裕とはまさに竜虎のごとき存在、目つきからして非凡なものを感じさせます。およそ人の下につくとは思えません。早めに排除なさったほうがよろしいのでは?」
 と桓玄を説得にかかった。すると桓玄は
「わしは中原も平定したいのだ。劉裕なしでこの大事業はなしえまい。関中の平定がなってからそのことは考えるしかない」
 と答えた。後日桓玄は以下のように劉裕に語った。
「貴公は少を以って多を制し、五斗米道の乱をことごとくおさえた。しかも海にまで追い詰め、賊徒十のうち八もを葬った。部下たちも力戦し、怪我などを負ったものも多かろう。貴公以下部下たちにも厚く褒賞を与える。以後も忠勤に励めよ」


 さて桓玄による簒奪がなされるより以前のこと、劉裕が盧循を征伐するため何無忌とともに山陰へといたったとき、何無忌が会稽で挙兵してはどうか、と持ちかけてきたことがあった。
 劉裕は桓玄がいまだ簒奪をなしていないこと、また会稽が建康から遠いこと、といった理由を挙げ、ここで事を起こしても成し遂げるのは難しいと答えた。桓玄が簒意を明らかとしたところで京口でいきなり決起すれば、失敗する恐れも無いだろう、というのである。
 そしてここにきて桓脩が都へと戻った。すかさず劉裕は古傷が痛み出してたと偽って何無忌とともに舟で京口へと戻り、晋室復興の計画を立ち上げた。
 この計画には劉道規(劉裕の弟)、劉毅、孟昶、魏詠之、檀憑之、諸葛長民、王元徳、辛扈興、童厚之、等が参画した。
 この当時、桓脩の弟・桓弘が征虜将軍・青州刺史として広陵に封ぜられていた。そこには劉道規が中兵參軍として、孟昶が州主簿としてそれぞれ幕僚に加わっていた。そこで劉裕は劉毅に命じて孟昶にひそかに連絡を取らせ、長江の北岸で兵力を集め、起兵して桓弘を倒すよう申し伝えた。
 諸葛長民は豫州刺史刁逵の左軍府参軍となっていたので、歴陽で挙兵させる事にした。王元徳および童厚之は建康で兵を集め、桓玄を攻めさせるようにした。そしてこれらの挙兵が一斉に起こるよう示し合わせるのだった。


 そして元興3(404)年2月1日早朝、劉裕は狩猟に出かける振りをして何無忌とともに兵を召集した。
 なおこの謀議に加わったのは劉裕と何無忌のほか、以下の26名が挙げられている。「魏詠之」「魏欣之」「魏順之」の3兄弟。「檀憑之」とその甥「檀韶」「檀祗」「檀隆」「檀道済」の4兄弟、別筋の甥「檀範之」。劉裕の弟「劉道憐」。「劉毅」とその従兄弟「劉藩」。「孟昶」とそのはとこ「孟懐玉」。「向彌」。「管義之」。「周安穆」。「劉蔚」及びその従兄弟「劉珪之」。「臧熹」およびその従兄弟「臧宝符」、甥「臧穆生」。「童茂宗」。「周道民」。「田演」。「范清」。
 この朝劉裕と共にいたのは何無忌と、集められた兵士たち100人強である。
 一刻ほどののち集団は都の前に姿を現した。集団の中で何無忌は朝服を身にまとい「勅使である」と称して衛兵に門を開けさせた。そこに兵たちがなだれ込み、場内で一斉に大声を張り上げた。
 すると城内にいた官吏たちは驚き散り散りに逃げ出した。抵抗を試みる者もなく、たちまちのうちに桓脩は斬って捨てられた。敵味方になったとはいえ劉裕に取り桓脩は一度仕えた主、殺さねばならなかったことに対し劉裕は深く悲しみ、その遺体を手厚く葬ることにした。
 同日広陵では、孟昶が桓弘に猟に出かけてはどうかと勧めていた。そこで桓弘はその日の未明に門を開け放ち、猟へと出かけた。桓弘の出かけた隙を突いて孟昶、劉道規、劉毅らが率いる五、六十名ほどの兵士たちは直ちに広陵の内部へと入り込んだ。桓弘はそのとき粥を啜っており、抵抗する暇もなく斬られた。その後孟昶達は手勢を引き連れて長江を渡った。


 劉裕らが京口を落とすと桓脩の司馬・刁弘が文官や武官、佐吏などを連れてやって来た。劉裕は城壁から刁弘らを睥睨し
「すでに天子様は郭銓殿に助けられ、いま尋陽より戻られつつある。我等は皆密かに天子様よりの勅を賜り、逆賊どもを打ち果たさんとこの場にやって来た者だ。逆臣桓玄の首ももはや船にてここへと運ばれている最中。諸君らは晋の臣ではなかったはずだな。何のためにこんなところにやってきた?」
 劉裕の言葉はまったくの空言でしかなかったのだが、しかし刁弘らはそれを信じ、手勢を連れて退散していった。やがて劉毅らが広陵からはせ参じると、劉裕は直ちに刁弘らを誅滅するよう命じた。


 劉毅の兄劉邁が建康にいた。義軍が立つその数日前、劉裕は同志の周安穆にこのことを伝え、内応するよう働きかけさせた。
 劉邁はいったん応じる素振りこそしてみせたものの、内心では激しく震懼していた。周安穆はその惶駭する様子を見て、これは劉邁から今回の件が露見するだろうと確信し、慌てて京口へと帰還した。
 その頃桓玄は劉邁を竟陵太守に任じていた。劉邁はどう対応するべきか迷った末、船を下り、徒歩にて竟陵に向かおうとした。その出立前夜、桓玄より書面にて
「北府の様子はどのようであろうか。そう言えば、卿はどこかで劉裕殿より何か言われたかね?」
 との問い合わせがあった。劉邁は、桓玄が既にこの謀事に気付いてるのだと思い込み、桓玄にすべてを打ち明けてしまった。桓玄は驚懼し、密告の功で劉邁を重安侯に封じた。しかし周安穆を捕えることができず逃がしてしまったことを知り、すぐさま劉邁を殺した。また、合わせて王元徳、辛扈興、童厚之を誅した。
 そして桓謙、卞範之らを招集し、どう劉裕を防ぐかを協議した。桓謙らは
「速やかに派兵して攻めるべきです」
と言ったが、桓玄は
「駄目だ。劉裕軍は精強だ。打って出れば万余が死ぬことになる。また、もし水軍を派兵すれば、ろくに抵抗もかなわず、壊走させられるだろう、そうして劉裕の軍は勢いづき、我々のはかりごとは打ち砕かれることになる。覆舟山に大軍を配し、劉裕の軍を待ち受けるに越したことはない。二百里をただ行軍させ、その鋭気をくじき、そこに突然大軍が現れる、と言うのであれば、驚懼駭愕すること確実であろう。余は堅固な陣を敷き、交戦せず、戦いを挑まれたら散開するよう仕向ける。これが上計である。」
 しかし桓謙らがしきりに要請をかけたので、頓丘太守の呉甫之、および右衛将の軍皇甫敷が劉裕軍を防ぐため進軍した。


 桓玄は部下が勝手に軍を動かしたと聞きつけ、はかりごとが瓦解することになる、と憂懼した。或る者が
「劉裕どもの手勢ははなはだ弱く、わが軍の勝利は間違いないでしょうに、陛下はなぜそうも恐れられるのですか?」
 と問うと、桓玄は
「劉裕は一世の雄と呼ぶに足る男、劉毅は生まれこそ卑しいが、博打で百万もの財貨を投じることのできる度胸を持った男。そして何無忌は劉牢之の甥だが、その才覚は叔父譲りと言って差し支えない。これらが共に立ち上がったのだ、出来ぬことなどあろうはずがない。」
 と答えた。


 人々は劉裕を盟主とした。檄文にはこのように記されている。


 そもそも治と乱とはそれぞれを原因とする。理とは常に不安定な物であり、狡き者もある時は悪逆非道の徒として扱われるが、ある時は聖明なる者として扱われることもある。我らが大いなる晋国においても、陽九の厄、即ち災いがしばしば生じ、隆安(※元年に王恭が反乱を起こしている)以来、皇室は常に奸臣に恣とされ、忠臣は虎口に噛み砕かれ、貞良なる者は豺狼のごとき者がらに虐げられている。逆臣桓玄、祖先の霊を虐げ、荊州は郢の都に集めた兵力により、都邑を荒らして回っている。天はいまだ亡難の危機のさなかにあり、凶力は繁興し、そして年が明ければ、遂には皇祚が傾いた。帝は追放され、辺鄙な地へと追いやられ、神器の権威は失墜し、皇室の御霊屋はことごとく打ち壊された。夏の時代には(羿を殺した)「浞」やその息子「豷」が、漢の時代には王莽や董卓などがいたが、、桓玄の悪事たるや、これらと比してもまだ足りるものではない。桓玄が纂逆して後、今日に至るまでに、亢旱の禍が続き、民からは生気が失われている。桓玄主導の移住政策で士庶は疲弊し、御殿の建築事業では文武百官が苦しめられ、父と子は離れ離れとなり、本家分家も結束を断たれた。それはあたかも詩経「大東」にある杼軸の悲(※衰乱あるいは収奪により、機織機にかかる糸もなく空しく遊んでいることを嘆いた歌)、あるいは「摽梅」にある傾筐の既(いにしえの婚活で、女子が籠の中の梅を意中の男性に投げるという風習があった。その中の梅が尽きた、と言うのだから、男手、父親のなり手が減ったことを示すのだろう)の世界ではないか。天文を仰ぎ見、人事を俯して眺めれば、ここまでは何とか耐え忍んでこそいるものの、このままでは衰亡は免れ得まい。およそ心あるものであれば、誰もが扼腕せずにおれまい。我々は叩心泣血し、心やすらう事もなかった。そのため宵闇に紛れて忠烈の徒を支援し、伏して大過をしのぎ、事が漏れぬよう慎重にことを進めた。輔国将軍劉毅、廣武将軍何無忌、鎮北主簿孟昶、兗州主簿魏詠之、寧遠将軍劉道規、龍驤将軍劉藩、振威将軍檀憑之らは忠烈斷金、精貫白日、戈をもって袖を奮い、命尽きてもこの志を果たす覚悟である。益州刺史毛璩は万里をかけて諸士を結び付け、荊楚を掃定した。江州刺史郭昶之は皇帝陛下をお迎えし、尋陽に匿った。鎮北參軍王元らは部曲を率い、石頭城を占拠。揚武将軍諸葛長民は義士を集め、歷陽を守っている。征虜參軍庾賾之らは水面下にて相結び、内応の手助けをした。皆々が協力し合い、己の持ち場にて蜂起し、速やかに徐州刺史・安城王を偽称した桓脩、青州刺史を偽称した桓弘の首を斬った。ここに義の徒は集まり、文武が先を争い、たとえその心がひとつところに集まっていないとは言えども、いま我々はこうして集っている。私はやむを得ず、この軍要を統べることとなった。祖宗の霊を、義夫の力を借り、逋逆の徒の首を取り、都を蕩し、清めようではないか。  公侯諸君、忠貞を示すもよし、立身出世の機会にするでも、また物事の道理を弁えぬ愚か者を誅したい、というのでも構わない。衰微した周朝の歴史にこの晋が倣うのでは、あまりにも悲しきことではないか! 今日の蜂起は、諸君らが銘々に抱えた志を果たす好機でもある。私は非力で、古人のような才覚は持ち合わせていないが、今こうして義挙の機運を高めた諸君を目の当たりとし、この晋朝の危地を救うべく、諸君らの前に立とう。真心はいまだ明らかとならぬが、感慨憤躍し、大いなる青天に臨んで思い久しく、山川が劼冒すのを見届ける。この檄を受け、神が駆けつけ、賊は裁かれることになるだろう。


 孟昶を長史となし、後事を委任した。また檀憑之を司馬に任じた。士庶のうち従軍を願い出るものは千余にのぼった。


 三月一日、江乗で、呉甫之と遭遇した。
 呉甫之は桓玄軍の驍将で、将兵ともに強力であった。そこで劉裕は手ずから長刀を取り、咆哮とともに自ら敵陣に切り込んだ。敵兵は劉裕に恐れおののき瓦解したので、劉裕はたちまち呉甫之を斬った。
 また羅落橋まで進むと、皇甫敷が数千の手勢をもって反撃してきた。寧遠将軍檀憑之と劉裕がそれぞれ一隊を率いていたが、檀憑之が戦死するや、その手勢が敗走した。一方劉裕はますます奮戦進撃し、敵兵を次々撃破、そしてついには皇甫敷の首を取った。
 さて、劉裕と何無忌らが今回の計画を練っていた時、よく当たると評判の占い師に占ってもらったことがあった。占い師は劉裕と何無忌がともに富と栄誉を手に入れる、しかもそれはすぐ先のことだ、と見た。
 しかし、檀憑之については何も見えない、と言った。
 劉裕と何無忌はひそかに
「我々はすでに同じ船に乗っているのだから、結果に差が出るのはおかしなことではないか。我らみな栄達できるというのに、檀憑之ひとりが見えないなどとは到底受け入れられないことだ」
 と、結局占い師の言葉を一笑に付した。しかし檀憑之が戦死するに及び、劉裕はようやく占いの意味を悟り、この戦いの勝利を確信した。

 桓玄は皇甫敷らがともに倒されたと聞き、いよいよ恐れた。
 桓謙を派遣し東陵口に、また卞範之を覆舟山の西に、合わせて二万の兵で布陣させた。
 三月二日の朝、劉裕らは食事を終えると、余った食料を捨て去った。覆舟山の東に進軍し、幾人かの兵士を派遣、覆舟山のそこかしこに旗を掲げさせ、疑兵となした。桓玄は更に武騎将軍・庾禕之に精兵、上質な武具を持たせ、桓謙らを助けるため派遣した。
 劉裕が兵たちの先頭に立って突撃したため、将兵関わらず皆この戦いを死戦とみなし、誰もが一人で百の敵をも打ち倒さんほどの勢いを得た。その咆哮は天地をも揺るがしかねないほどのものであった。
 この時東北の風が強く吹いていたため、覆舟山に火を放った。その煙は天を覆い、鼓噪の音は京邑を揺るがした。桓謙らの諸軍は、一時のうちに崩壊した。
 桓玄は軍を派遣したとは言っても、すでに逃走するつもりでいた。更に領軍将軍・殷仲文を船で石頭城に向け派遣すると、その裏では子や姪を船に乗せ、南方へと逃がすのだった。

 三月三日、劉裕は石頭城に赴くと、神官を呼び寄せ、宣陽門の外で桓温の位牌を焼き捨て、太廟を建立、改めて晋の歴代皇帝の位牌をまつった。
 また諸将を桓玄追討のため派遣した。尚書・王嘏が百官を率い、神官の乗る輿を出迎えた。司徒・王謐らが詮議し劉裕に揚州刺史の地位を与えると申し出たが、劉裕は固辭した。代わりに王謐を錄尚書事、揚州刺史に推挙した。そして劉裕には、改めて持節、都督揚、徐、兗、豫、青、冀、幽、并八州諸軍事、領軍将軍、徐州刺史――すなわち北府軍の首領の地位が与えられた。

 過日、司馬道子らが専横していたころ、朝廷で奉職する百官は弛み切り、桓玄が綱紀を正そうとしたが従う者はいなかった。しかし劉裕が入朝するや綱紀を身をもって示し、威厳をもって内外を引き締めたため、皆肅然と職務につき、二、三日のうちに風紀は改められた。
 また桓玄が雄豪を中央に推挙し、ひとときとは言え極位にあったわけだが、晉に元々いた地方長官、大臣らは、ことごとく本心を隠して桓玄に仕えていた。そのような中、当時微賤の者にすぎなかった劉裕が、ひとり敢然と、逆境をものともせず、大義をもって皇祚を復すべし、と唱えていた。そのため王謐ら諸人は民からの声望を失い、愧じて憚ぜずにおれない者はいなかった。

 ところで諸葛長民は挙兵する機会を逸し、刁逵に捕えられていたため桓玄の敗走劇に参加できなかった。

 桓玄が尋陽に到着したとき、江州刺史・郭昶之が安帝の乗る輿や諸物資を守っていた。桓玄はこれを攻めて二千余人を捕虜として得、安帝を捕えて江陵へと逃亡した。冠軍将軍・劉毅、輔國将軍・何無忌、振武将軍・劉道規の諸軍が追った。


 尚書左僕射・王愉や、その息子である荊州刺史・王綏らは江左の名門である。特に王綏は小さな頃からその名を重んぜられていたのだが、劉裕が庶民上がりだと言う事で、手ひどく侮蔑していた。特に王綏は桓氏の甥でもあったので、また桓玄に協力するであろうことを疑い、劉裕は王愉ら一族を悉く誅した。

 四月、武陵王・司馬遵を奉じて大将軍となし、安帝の代理として立てた。大赦が布告されたが、桓玄の一派親族については例外とされた。

 さて、劉裕の家は貧しく、かつて刁逵に三万銭もの借金を負ったことがあった。返済の見込みが立たなかったため刁逵は劉裕を捕え、厳しく尋問を行った。
 王謐はこれを見て、密かに借金を返済し、劉裕を助け出した。当時無名の劉裕は当然名の盛んな者らとの交流はなかったが、唯一王謐とは交流があったのである。
 桓玄がまさに簒奪をせん、と言うときのこと、王謐はその手で安帝から印璽を抜き取り、それによって功臣と位置付けられた。劉裕が決起したことにより、人々は皆おそらく王謐にも死が下されるのではないかと囁き合っていた。
 しかし劉裕はそうはしなかった。印璽の話を知っていた劉毅が、王謐に朝廷でその所在を問うたため、王謐はさらに恐れた。王愉父子が誅されるに及び、王謐のいとこ王遒
「王愉は無罪だったというのに、義旗のもとに誅された。我々はことごとく排除されるかもしれない。兄上は桓氏の黨附を受けており、民からも楚の重臣として見なされている。許しを求めて、果たして受け入れてもらえるものだろうか?」
 と言った。王謐は恐れ、曲阿へと逃亡した。
 そこで劉裕は司馬遵に
「王謐とは親交深く、ぜひとも復位の上で迎えたい」
 と上奏した。光祿勳・卞承之、左衞将軍・褚粲、游擊将軍・司馬秀が役人を利用して、御史中丞・王禎之に取り調べを行った。王禎之が書き残した符の言辞には怨憤が込められていた。卞承之は大きな蔵を構えていた。劉裕は改めて司馬遵に
「褚粲らは大臣の位惜しさに、異図を持っているようです。これは法に対し不公平であると言わざるを得ません、しかるべく訴状を処理せねば怨忿が横行することとなり、有司に咎が着せられましょう。かの者らを公正に裁くことで、風通しを良くしましょう」
 と上奏した。よって彼らは罷免された。


 桓玄の兄の子・桓歆は、手勢を引き連れて歴陽に向かっていた。劉裕は輔國将軍・諸葛長民に追撃を命じた。何無忌と劉道規が桓玄軍の大将郭銓らを桑落洲で破ると、その軍はそのまま尋陽に陣を張った。
 劉裕に都督江州諸軍事の権利が加えられた。
 桓玄は荊州の郢に帰還すると、手勢を増やし、水軍に樓船を製造させ、器械を作った。合計二万余の軍勢で、安帝をとらえたまま江陵を発し、船にて長江を東下したが、冠軍将軍・劉毅らと崢洲でまみえ、彼らに惨敗を喫した。
 桓玄は兵を見捨て、再び安帝とともに江陵に帰還した。
 桓玄の配下である殷仲文が安帝の皇后二人を奉じて建康に帰還した。桓玄は江陵に至ると、更に西へと逃亡した。南郡太守・王騰之、荊州別駕・王康產が安帝を奉じて南郡府に入った。
 さて、征虜将軍、益州刺史・毛璩が、從孫の毛祐之と參軍・費恬を遣わせ、葬列を行うふりをしていた。毛璩の弟の子、毛脩之は桓玄の屯騎校尉だったのだが、桓玄を誘って蜀入りした。
 枚回洲に至ると、費恬と毛祐之が桓玄に弓矢を射かけた。益州督護・馮遷が桓玄の首を斬り、建康へ送った。また桓玄の子、桓昇は江陵の市場にて斬首された。

 さて、桓玄が崢洲にて敗死し、劉裕らの勝利がほぼ確定してはいたのだが、掃討戦は順調ではなかった。
 桓玄の死後十数日が経っても、残党を掃討することはかなわずにいた。桓玄の從子・桓振は華容の涌中に逃れ、数千人の手勢を集めて再起し、早朝に江陵城を強襲、住民らは先を争って城内から逃げ出した。王騰之、王康產は殺された。
 桓謙は沮川に匿われていたが、桓振の挙兵に呼応して挙兵した。
 桓振は桓玄の死を悼み、喪廷を建てた。
 桓謙は配下とともに安帝に璽綬を返還した。何無忌、劉道規は江陵に到着し、桓振と靈溪にて戦った。桓玄の郎党である馮該が楊林に潜んでおり、伏兵として襲い掛かったため何無忌らは奔敗、尋陽まで撤退した。


 兗州刺史・辛禺は謀反を企んでいた。
 北青州刺史・劉該の謀反を受け、辛禺は劉該を討つ素振りをして淮陰に入り、叛意を明らかとした。しかし辛禺の長史・羊穆之が辛禺を斬り、首を建康に送った。
 十月、劉裕には青州刺史の座が与えられた。甲仗百人を引き連れての入殿が許された。

 劉毅らの軍は夏口まで再び進軍した。劉毅は魯城を攻め、劉道規は偃月壘を攻め、ともに落とした。十二月には巴陵まで進軍した。

 義熙元年正月、劉毅は江津に進み、桓謙、桓振を破り、江陵を平定、安帝を迎え入れた。三月、安帝は江陵に到着。詔勅を下す。

「古より、最も偉大なものが天地であり、その次に君主や家臣が来る。それは太陽、月、星の序列であったり、神と人との序列に同じい。この世が混沌の中にあった頃から、その理屈は明らかであったし、万年に渡り、世は巡ってきた。故に大いなる邪悪の襲来を霊獣たちは察知したし、王室の権威が揺らぐ時、良く賢き人々は王室を助けんと立ち上がった。ゆえに天命は永く堅固、人心は平和に帰趨したのである。
 夏が寒浞より簒奪を受けたときには少康を伯靡が補佐した。周が幽王の横暴によって傾くと、幽王の正妃である申氏の父、申侯が平王を支え、中興をなした。王莽や司馬倫が簒奪を為したところで、その天下も永くは続かなかった。
 義士らは朝廷に公認されておらぬ軍権を振るった。その功績は従来であれば認められぬものであったとしても、なお詩や書はそなたらを讃えよう。木簡や竹簡にはこの義挙が美談として記されよう。
 いまだ民を安んじ切れてはおらぬが、そなたらの忠誠心の発露により、正しき道理が改めて示された。すでに傾いてしまった権威をそなたらが支えてくれたため、今日こうして復正が叶ったのである。
 朕の不徳により、国家に苦難がもたらされた。父帝の死後、苦難はついにここにまで至ってしまった。逆臣桓玄は国家の衰乱に乗じ、凶逆の限りを尽くし、天を侮り、ついに天をも傾け、簒奪の大逆を為した。我が祖先が築き上げられた基礎はあらかたが埋め尽くされ、七代の祖先らを祀る廟すら打ち壊されてしまう有様。このような絶望の淵に叩き落されたることを、どう形容できたであろうか。
 しかし、晋国に英雄はいた。天が彼を遣わしたのであろうか。劉裕殿の忠義心は天にも届かん勢い、その勇武は広く天下に知られ、忠良なる仲間らを率いられ、多くの義徒もまたそれに応じた。よく統率された声が一度響けば、その勢いは怒涛の波のごとく。英雄らは堂々と進軍し、そして帝の住まう地は掃き清められた。
 また劉毅殿、何無忌殿、劉道規殿は鋭く水軍を率い、桓玄の首を取り、残党をも一掃、荊州や漢水流域の霧を振り払われた。
 司馬懿様、司馬睿様が嵩山、泰山にて長く堅固なものとされたこの国の基礎は一度傾きこそしたが、今再び朕の元へ集い来ることが叶った。先祖の霊は七百の福に喜ばれ、みかどの権威は新たに結ばれた。その功績はまさに徳に満ちたもの。永く祝い、思いを胸に懐き続けよう。
 その道義心の気高さは天地開闢以来のあらゆる道義に冠じ、また未来を見渡しても類を見ないものであろう。少なくともこれまで、文字にてこのような功績があったと書かれたのを見たことがない。
 その功がどれだけ高かろうとも、敬おうとするものは多からざろう。理屈で言えば、その功績を文で表すのが至難なためである。しかし物事の道理を深く知るいにしえの哲王らは、大道の理屈を正確に用いることで、国家の盛衰を深く見抜かれた。そのため伊尹や太公望は特任を得る証の錫杖を得、斉桓公、晋文公は周を奉じるための礼を万全に整えた。ましてやみかどの号令が広く天下に届かぬなど、はるか百代を見返しても、あり得ぬことだったではないか。此度の義挙に参じた者は明器の極みと言うべきであり、この大晋国の隆盛を照らさんとした。
 そこに照らせば、劉裕殿は謙虚にその誠意をしばしば顕とした。朕はここに王導様の勲功を重ね、改めてその勲功を顕彰したく思う。劉裕殿を侍中、車騎將軍、都督中外諸軍事とし、使持節、徐、青二州刺史については元のとおりとしたい。大国としての報奨をここで明らかとし、この国の導き手として期待したい」

 劉裕は昇進を辞退し、京口に戻りたい旨をしばしば乞うたが受理されなかった。安帝は多くの下僕を遣わせて劉裕を篤く歓待し、また自ら劉裕の屋敷に赴きさえした。劉裕は畏れ多いことと歓待を断ろうと思ったが叶わなかった。
 後日丹徒に劉裕が赴任すると、安帝はそちらにも大使を遣わせて歓待しようとしたが、それは受けなかった。改めて荊、司、梁、益、寧、雍、涼七州の諸軍事を、それまでの九州を合わせて、合計十六州ぶん都督するよう任じられた。もともとの官位は保たれた。青州刺史の任務は解されたが、代わって兗州刺史の地位に就いた。


 義熙元年三月、盧循が海伝いで廣州を破り、廣州刺史・吳隱之をとらえた。盧循を廣州刺史とし、郎党である徐道覆を始興相に任命した。


 二年三月、劉裕は交州、廣州の都督にもなった。
 十月、劉裕は
「桓玄打倒の折、我々は晋国のために粉骨砕身の働きをしました。京口、廣陵の二城を平定した時には、私や撫軍將軍・劉毅ら272人が、また健康に至り、実際に干戈を交えた折には1566人余りとなりました。また輔國將軍・諸葛長民、王元ら10名の郎党も加わり、合わせて1848人が、こたびの義挙に対する恩賞を乞うております。現在西征の途についている諸軍についての恩賞も、同じくご検討ください。」
 と上奏した。そこで尚書が謀主である鎮軍將軍・劉裕に豫章郡公,食邑萬戶,絹三萬匹を封じるべし、と上奏した。郎党への封賞については、功績に応じて差がついた。鎮軍府佐吏には,謝安が開府した府の官僚たちがそのままもたらされた。

 義熙二年十一月、安帝は、改めて劉裕に侍中、車騎將軍、開府儀同三司の昇進を打診したが、劉裕は固讓した。安帝は敦勸を派遣した。

 三年二月、劉裕が建康に戻り、廷尉に詣でようとすると、安帝は先に獄官を招しており、これを受けず、宮廷前の門にて接見、上奏を聞いた。劉裕は京口に戻った。

 閏月、府將・駱冰が謀反を起こそうとたくらんでいたが即露見し、逃走した。その後捕まり、斬られた。
 誅冰の父は永嘉太守・駱球である。駱球は元々東陽郡史であり、孫恩の乱の折、長山にて反孫恩の軍を立ち上げたことがあった。その為桓玄に重用されていた。桓玄が敗北すると桓冲に忠誠を誓い、桓冲の孫、桓胤に属した。駱冰が桓胤を謀主として推戴すると、東陽太守・殷仲文がこれに共謀した。
 殷仲文とその弟二名は速やかに誅殺された。
 桓玄残党は、この件をもって掃討された。

 十二月、司徒・錄尚書、揚州刺史の王謐が亡くなった。

 四年正月、劉裕は健康に召し出され、侍中、車騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史、錄尚書の地位を授与された。徐兗二州刺史の地位は保たれたままだったが、表向きは兗州刺史の座を解任となった。
 その前に冠軍将軍・劉敬宣が蜀を拠点とする譙縱の討伐に出たが為し得ず、撤退していた。九月、劉敬宣は退官の意を示したが、許可されなかった。劉裕は中軍將軍に降格され、開府はそのまま認められた。


 さて、偽燕王、鮮卑の慕容が青州で王位を僭称していた。慕容が死ぬと、兄の子、慕容超が跡を継いだ。
 この頃晋と燕との国境付近でしばしば侵略があった。五年二月、淮北で大規模な略奪があった。陽平太守・劉千載、濟南太守・趙元を捕え、千余の家に対して掠寇を働いた。
 三月、劉裕は南燕を討伐することを表明、丹陽尹・孟昶に中軍の監督、建康の警護を任せた。四月、水軍は健康を出発し、淮水より泗水に入った。五月、下邳に至り、船艦輜重を停泊させ、陸路にて琅邪に進んだ。途中で戦闘はなかった。南燕の梁父、莒、二城の城主はともに逃走していた。

 晋軍が迫っていると聞くと、大將・公孫五樓は慕容超に
「ここは、大峴に陣を布いて待ち構え、その侵攻を阻むべきです。粟苗を刈り取らせる事によって、敵の現地調達を不可能にするのです。つまり、守りを固めて補給を断ち、その釁を窺うのです」
 と説いたが、慕容超は従わなかった。
「晋軍には遠征の疲労があり、その勢いもやがて衰えよう、大峴は通過させて構わぬ、わが軍の戦車鉄騎で踏み躙れば、たやすく打ち破れることであろう。食料を手に入れたとて、かの者らは遠征の末に弱り果てることであろう」

 劉裕が遠征に出ようかと言うときに、注進するものがあった。
 晋軍の到来を燕が聞き、あえて大峴山までは抜かせて廣固にて守りを固め、そこまでの道のりの糧秣となるものをすべて焼き払ってしまっていたら、軍にいきわたらせるための資源に窮し、その後の合戦の勝利も危うくなるのではないか、と。
 劉裕は答えた。
「俺もそれについては熟慮した。だが鮮卑どもに遠望はない。進めば乱獲ばかりをし、退けば粟苗を惜しむことだろう。我らは今孤軍にて敵地に深く踏み込んでいる。持久戦を展開されれば危うい。臨朐を拠点とし、廣固に退いて守られては抜くことも難しかろう。大峴山さえ獲得してしまえば、不退転は衆人の知るところとなろう。死地を乗り越えんとする我が兵らが、敵を前にまともに身動きも取れずにいる鮮卑どもに対して、どうして戦果を憂える必要があろうか。見よ、奴らは穀倉を焼き払って堅守に努めることすらできずにいる。そのために諸君らの軍も無事に保てているではないか。」
 劉裕は大峴山を獲得すると、天を指さして言った。
「吾が志は、ここに果たされた!」


 六月、慕容超は公孫五樓と廣寧王・賀鰲困鯲朐城に派遣、守備に充てた。大軍が近づいてきたと聞くと、病人老人らは中で留めて廣固を守らせ、それ以外の者はことごとく打って出た。
 臨朐には巨蔑水が、城から四十里のところを流れている。慕容超は公孫五樓に
「急行し、河岸を防衛せよ。晉軍に渡られたら、いよいよ倒すのは難しくなるぞ」
 と告げた。公孫五樓は進軍した。龍驤將軍・孟龍符が騎馬隊を従えており、河岸で戦うと、公孫五樓は撤退した。

 晋軍は徒歩での進軍と、また四千両の車がともにあった。車は両翼に配置されていた。各車とも物資を満載しており、御者は長柄の武器を携えていた。また軽騎兵が遊軍として周囲を警護していた。
 軍令はよく行き届いており、その行軍は厳粛であった。
 臨朐まで數里のところで南燕の鉄騎兵一万余が襲撃、交戦となった。
 劉裕は兗州刺史・劉藩、并州刺史・劉道憐、諮議參軍・劉敬宣、陶延壽、參軍・劉懷玉、慎仲道、索邈らに命じ、これらを迎撃した。
 夕方頃、劉裕は諮議參軍・檀韶を臨朐城に急行させた。
 檀詔は建威將軍・向靖、參軍・胡藩を率いて攻撃、城を落とし、輜重を獲得した。慕容超は臨朐が抜かれたと聞くと撤退を開始した。そこへ劉裕が意気も盛んに鬨の声を上げたので、南燕軍は大いに逃乱した。
 慕容超は廣固に籠城した。慕容超の馬、偽輦、玉璽、豹尾を手に入れたので、それらは建康に送った。大將・段暉ら十数人の将軍をはじめとした約千名ほどの捕虜を斬った。

 翌日晋軍は廣固にまで進み、大城を即落とした。
 慕容超は小城に退き、守りを固めた。小城には三丈(約5.5メートル)の城壁と、外には三重の塹が穿たれていた。劉裕は長江、淮水域の物資を陣中に回すと、降伏してきた南燕人に振る舞った。これに南燕人は喜んだ。
 七月、朝廷より劉裕に北青、冀二州刺史の地位が与えられた。慕容超の将軍、垣遵、およびその弟垣苗がともに帰順した。劉裕が攻城兵器を取り寄せると、城の上より「張綱もいないのに、何ができるというのだ」と言う声があった。
 張綱とは、慕容超の尚書郎であり、攻城兵器の運用に長けている者であった。このとき慕容超は、張綱を姚興、すなわち後秦に使わせ、援護の要請をしていた。姚興はこの要請を受け入れるふりをしたが、実際には劉裕を憚り、援軍を出そうとは思っていなかった。
 張綱が長安より戻ってきたところを、泰山太守の申宣がとらえ、劉裕の元に連行した。張綱は樓車を構築し、城に向けてみせた。それを見て絶望しない者はいなかった。張綱はこれによって攻城兵器の責任者となった。
 慕容超は救援が得られなかった、どころか張綱が晋に寝返ったことを知り、いよいよ憂懼を深めた。劉裕に宛てて大峴山より南を割譲し、千頭の馬を献上するので服属したい、と願い出たが、聞き入れられなかった。城攻めはますます苛烈なものとなった。
 河北の住民が晋軍の持つ物資を頼ってやってくること、日ごとに千余もの数に上った。

 錄事參軍・劉穆之は計略に長け、その智謀をもって劉裕の参謀として仕えていた。軍略のほとんども、この劉穆之に諮っているほどだった。
 この時姚興からの遣使が劉裕に
「隣国の南燕の危機を受け、鉄騎十万を洛陽に配備した。晉軍がこのまま退かないというのであれば。この鉄騎が貴様らに襲い掛かるものと思え」
 と伝えて来ていた。劉裕は遣使に対し
「ほざくな姚興、燕を片付けたら、三年の休息ののち、関中洛陽も攻め落としてくれる。鉄騎とやらを寄越せるものなら、すぐにでも寄越してみるがいい」
 と答えた。劉穆之は後秦からの使者が来たことを聞き、慌てて劉裕のもとに駆け付けたが、もう使者は追い払われてしまっていた。どのようなやり取りをしたのかと劉裕が語ると、劉穆之は
「常日頃から事の大小もなく、私めに相談してくれていたではないですか。この件につきましても、私めに良策がございましたのに。主上の受け答えでは秦を威圧はし切れず、徒に怒らせるのみでございます。もし燕を落とせぬまま秦の援軍が来てしまっては、我々はどう抗えるというのですか?」
 と劉裕に言った。劉裕は笑って答えた。
「用兵の機微、と言う奴でな。お前には解らぬことだったのだ。故に話さなかった。兵は神速を貴ぶ。もし仮に秦が実際に援軍を寄越せるというのであれば、そもそも援軍が来ることを俺に知られてしまう事のほうがまずかろう。だと言うのにわざわざ知らせてくるのだ。俺に燕を落とされてしまうことに内心で怯え返りながら、はったりを仕掛けてきているのさ。」

 九月、劉裕の地位は太尉、中書監に進められることになったが、固讓した。

 北魏の徐州刺史・段宏が十月、河北より帰順してきた。


 張綱の攻城兵器は様々な奇想が織り込まれていた。
 飛樓、木幔などの付属品類にも不備はなかった。城上より射かけられる火石や弓矢も一切通さなかった。
 六年二月、ついに廣固は落ちた。慕容超は城から逃れようとしたが、征虜賊曹・喬胥がこれを捕えた。多くの将兵が切られ、万余の住民を捕虜として得た。馬二千頭を得た。慕容超は建康に送られ、建康の広場にて斬られた。


 劉裕が北伐をしている期間を、徐道覆は好機だと考えていた。盧循にその隙を突くべきと説いていたが、盧循は従わなかった。そこで徐道覆は番禺に出向いて盧循に
「我らは今僻地におり、劉裕の警戒網から逃れ得ています。そして建康からは今、わずかな期間ではありますが、劉裕が出払っております。そこで死士を動員し、何無忌、劉裕の軍を強襲すべきと考えております。この機会を逃せば、燕滅亡ののち一、二年もたたず、劉裕は我らを討伐するための軍を起こしてくるでしょう。劉裕が自ら指揮を執って豫章より嶺を通過し、ここまで攻め込んできてしまえば、もはや盧循様の神武をもっても敵うものではありますまい。この機を逃すわけにはまいりません。今のうちに建康を落としてしまえば、本拠地を失った劉裕に何ほどのことができましょう」
 と説いた。盧循はこの言葉に従い、兵を率いて嶺を通過した。
 そしてこの月、南康、廬陵、豫章に侵攻した。諸郡守は皆逃げ去った。
 南燕征伐の報が建康に届くや届かぬやの間に、劉裕の元に盧循強襲の報が届いた。劉裕は南燕征討後一旦下邳に滞在したのち後秦を討つ心積りであったが、急報を受け、即建康に取って返した。


 鎮南將軍・何無忌と徐道覆が豫章で戦った。
 何無忌は敗死した。国内は震駭した。
 朝廷では安帝を奉じて北方に逃亡、劉裕の元に身を寄せるべきと言う意見も持ち上がったが、すぐには五斗米道の軍勢が建康にまで至るわけでない事を知ると、人々は一安心した。
 劉裕は下邳に至ると、輜重は船で運搬させ、精鋭を選抜して陸路にて建康に向け急行した。山陽に至って何無忌が殺されたことを聞き、これはもしや建康も落ちているのではないかと憂慮し、鎧も脱ぎ捨てて行軍の速度を速めたが、わずか数十人の伴とともに淮水にて旅人と出会い、建康の状況を聞くことができた。
 その人は
「五斗米道の軍はまだ到着しておりません、劉公が帰還さえできれば、憂いはなくなるでしょう」
 と語った。劉裕は大いに喜び、一隻の船にて京口に帰還した。人々は劉裕の帰還を聞き、大いに安堵した。
 四月、劉裕は建康入りし、ようやく一息つくことができた。


 撫軍將軍・劉毅が五斗米道征伐のため南征したいと願い出た。劉裕は劉毅に対し
「俺は何度か奴らと戦ったことがあるから、奴らのことはよく知っている。ただでさえ手強かったのに加え、どうにも更に勢力を増しているようなのだ。決して軽んじることのないように。備えを厳重に整えた上で、道規と共にことに当たるべきである」
 と指示を出し、また劉毅のいとこ劉藩を派遣して制止をかけようとした。劉毅は劉裕の言を聞かず二万の水軍を率いて姑孰より進軍を開始した。
 盧循は進軍を開始すると、手始めに徐道覆を尋陽に向かわせ、自らは湘州の諸郡を攻撃した。荊州刺史・劉道規は長沙に軍を差し向けたが、盧循に敗れた。盧循は巴陵を経て江陵に向かおうとした。徐道覆は劉毅の軍が迫ってきたと聞くと盧循に報告の文を飛ばした。
「劉毅の兵は非常に強力です。この戦の勝敗が今後の局面に大いに関わって参ります、共にこれに当たりましょう。ここさえ乗り越えてしまえば、盧循様の天下はすぐそこです。不服かとは思いますが、どうかこの要請だけはお聞き遂げ下さいますように」
 盧循はこの知らせを受け、即座に巴陵を発ち,徐道覆と合流した。五斗米道軍には帆が九枚、内部構造が四層、全高にして十二丈(約22メートル)と言う規模の船が8隻あった。
 劉裕は南方の敗報を受け、改めて建康周辺の軍を動員するための許可を求めたが、返答を聞かぬうちに動員の号令をかけた。五月、劉毅が桑落洲にて敗北、船を捨て陸路にて逃亡した。逃げ遅れた者は皆五斗米道軍に捕らえられた。


 盧循は尋陽に至った時、劉裕が帰還していたことを知らなかった。しかし劉毅を破って勝鬨を上げていたまさにその時に劉裕が戻ってきたことを聞き、周りにいた者共々顔色を失うのだった。
 盧循はいったん尋陽に退いて江陵を落とし、揚州荊州の二州に拠って晋に抗しようと考えた。一方で徐道覆はあくまで勝ちに乗じて進むべきであると主張し、お互いに譲らなかった。両者の議論は多日に及んだが、最終的には進軍、と言う事での一致を見た。

 劉毅の敗北は内外を洶擾させた。
 北伐軍が帰還したとは言っても、誰もが創痍疾病甚だしいありさまであった。建康で戦える戦士は数千名にも満たない。五斗米道は既に江州、豫州を破り、十余万もの兵力を擁し、最早その軍勢は百里もの近きにまで迫ってきていた。
 逃げ帰ってきた者たちは、誰もがその恐るべき強さを口にする。孟昶や諸葛長民は賊軍の接近を恐れ、安帝を奉じて北に逃れるべきと主張した。劉裕はそれらを一顧だにもせず、孟昶の再三の要請をも撥ね退けた。
「晋の重鎮らが散々に破られ、強敵がいよいよ迫っている、と言うこのとき、人々が危機を覚え、不安になるのは当然である。だがここで帝を逃がしてみろ、それこそ建康の秩序は崩壊し、たちまち長江一帯をすべて失陥することになるぞ。奴らとの決戦は、もはやこれ以上先延ばしにはできんのだ。今兵士が少ないとは言えども、それでもなお一戦を構えるには足る。ここさえ乗り切ってしまえば、誰もが安らうことができよう。この危地において、俺は死力を尽くして社稷を守らねばならん。死してもなお、その屍をもって廟門を護ってみせよう。我が身をもって許國の志を体現し、活路は何としてでも切り開いてみせる。我が決意を揺るがせにすることはできんのだ、もう君も、何も言ってくれるな!」
 その言葉を聞いても孟昶はなお恐れを抱いたままでいた。そして
「劉裕どのの北伐を皆が諫めたが、その中で臣だけが劉裕どのに行け、と告げた。故に五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまったのだ。この社稷の危逼は臣の罪である。我が身をもって、天下に謝罪せねばならぬ」
 と表明の上、薬を仰ぎ、死んだ。

 建康において大いに義勇兵を募った。彼らを一度城内に集めると、石頭城へと集め、厳重な防備を固めた。このとき各港湾に守りを配備した方がいいのでは、と提案するものがあった。劉裕は
「賊軍は多、わが軍は寡。この状態で兵力を分散させでもすれば、我々の防備の手薄さを即見抜かれてしまうだろう。この状態で利を失えば、それは即全軍の士気にもかかわってくる。いったん全軍を石頭城に集め、状況に応じて各拠点に派遣する。賊軍もこちらの兵力を把握してはいないだろうが、どのみち今の兵力を大きく分けることはできない。奴らがこちらの守りを配していないところを攻めてきたら……、その時になって、考えるしかあるまい」
 と答えた。石頭城に駐屯すると、防護柵を構築させた。そしていよいよ盧循の軍が接近してきた。劉裕はひとりごちた。
「奴らがもし新亭を直進してきたら、もはやその勢いを止めることなぞできまい。できれば回避したいものだが、とは言え戦ごとは常に先が見えないもの。もし奴らが西岸で停泊さえしてくれれば、きっと奴らを捕らえられようにな」


 徐道覆は新亭、白石に停泊している船を焼き払ったうえで上陸しようと思っていた。盧循は優柔不断であり、何事に対しても万全を要求してきた。その上で、
「晋軍の軍容はいまだ整わず、聞けば孟昶も自殺したと言うではないか。多くの者が、晋軍の自壊も時間の問題だ、と言っている。今ここで敢えて決戦を急ぐのは常道とは言えない。多くの兵を死傷させることになるだろう。ここは持久戦の構えを取るに越したこともない」
 と指示を下してきた。
 このとき劉裕は石頭城から盧循の軍勢を眺め、はじめその矛先が新亭に向いたのを見て、顔色を失いかけた。しかし五斗米道軍は蔡洲に停泊した。徐道覆はそのまま溯上を求めたが、盧循がそれを禁じたのだ。
 これを好機と見た劉裕は軍勢を分け、越城を修繕し查浦、藥園、廷尉の各所に壘を築き、それぞれに防備の軍勢を出した。冠軍將軍・劉敬宣は北郊に。輔國將軍・孟懷玉は丹陽郡の西に。建武將軍・王懿は越城に。廣武將軍・劉懷默は建陽門の側に。寧朔將軍・索邈には鮮卑の具裝虎班突騎、千騎を与えた。それぞれに練五色を与えた。劉裕自身は淮北から新亭に移動した。
 五斗米道軍の威容に誰もが恐れ怯えたが、この頃には冀州、京邑、三吳からの応援が駆けつけていた。五斗米道軍は十余艦にて石頭柵を抜こうと試みたが、劉裕は神弩にて応撃、射撃のごとに大きく打撃を与えた。
 盧循は石頭への攻撃を諦めた。一方で南岸に伏兵を配しておき、病人老人の乗った船を白石に進めさせた。劉裕は警戒のため劉毅、諸葛長民を連れて白石へ急行した。參軍・徐赤特を南岸に駐屯させ、堅守の上持ち場を離れぬようにせよと厳命した。
 劉裕が立ち去ったところで五斗米道軍は查浦を焼き上陸、攻め上がった。徐赤特の軍は敗北し、数百余もの死者を出した。徐赤特は残存の兵らを捨てて、一人秦淮河を渡った。
 数万もの五斗米道軍は、ついに丹陽郡にまで押し寄せてきた。劉裕は諸軍を引き連れ、急ぎ帰還した。人々は五斗米道軍が建康に押し寄せることにおびえでいたが、しかし誰もが劉裕がその行く手を阻んでくれる、と励まし合っていた。
 劉裕は軍を一部分けて石頭に帰還させたが、誰もが疲労困憊の態だった。そこで装備を外させ、湯浴みをさせ、食事を与え、その上で改めて南塘に配備した。徐赤特は命令違反を為したと言う事で、斬った。
 參軍・褚叔度と朱齡石に命じ、千余人の選抜隊を編成、秦淮河を渡った。
 数千の五斗米道軍は皆長刀矛鋋をもち、精甲は日の光に輝き、猛然と進軍していた。朱齡石が率いた軍は多くが鮮卑で、徒歩にても矟を巧みに操り、陣形を組んで待機した。五斗米道軍の武器とではおよそ間合いが比べ物にならず、瞬く間に数百人を殺した。五斗米道軍は退散した。
 間もなく日没を迎え、そのまま五斗米道軍は撤退した。


 劉毅の敗北を受け、豫州主簿・袁興國が反旗を翻し、歷陽にて五斗米道と結んだ。琅邪內史・魏順之は謝寶を派遣し、これを斬った。袁興國の司馬が謝寶を襲撃したが、魏順之は謝寶を見捨てて撤収した。
 劉裕はこれに怒り、魏順之を斬った。
 魏順之と言えば魏詠之の弟である。功臣たちも震懾し、以降劉裕の命令に背くものはいなくなった。

 六月、劉裕にはさらに太尉、中書監の地位が打診され、更に黃鉞も与えられた。黃鉞のみを受け、他は固譲した。司馬の庾を建威將軍、江州刺史となし、東陽から豫章へ出向させた。


 七月、五斗米道軍は蔡洲より南下し尋陽を占拠した。
 劉裕は輔國將軍・王懿、廣川太守・劉鍾、河間太守・蒯恩を派遣し、追撃させた。
 劉裕は東府城にもどり、水軍編成に取り掛かった。帆柱が幾つも立つ、高さ二十メートルほどもの高さの船ばかりである。
 盧循は荀林に江陵を攻撃させた。いっぽう桓玄の残党である桓謙が、先に江陵より後秦に逃亡し、更にそこから蜀入りし、譙縱によって荊州刺史に任命されていた。桓謙及び譙縦の息子、譙道福が二万の軍を率い江陵を襲撃、荀林と合流して百里ほど離れた。
 荊州刺史・劉道規は枝江で桓謙を斬り、江津で荀林を破り、追撃の上竹町にて斬った。

 劉裕は盧循が江陵に攻撃を仕掛けるであろうと考え、淮陵內史・索邈に陸路からの援軍を率いさせていた。また建威將軍・孫處には兵三千にて、海伝いに番禺を襲撃させた。
 江州刺史・庾が五畝嶠にまでやってくると、五斗米道軍千人あまりが五畝嶠を占拠し、道を塞いでいた。庾は鄱陽太守・虞丘進に攻めさせ、これを破った。
 劉裕は大々的な練兵ののち、十月には兗州刺史・劉藩、寧朔將軍・檀韶らを率いて水軍を率い、南伐に出た。
 後將軍・劉毅に太尉府に就かせ、後事をすべて委ねた。


 同じく十月、徐道覆は三万の兵力で江陵に攻撃を仕掛けた。荊州刺史・劉道規はこれをまた大いに破り、一万余もの首級を挙げた。徐道覆は盆口に逃げ帰った。
 この頃劉裕が派遣した索邈は五斗米道軍の退路を遮断していた。盧循が東に向かってより江陵と建康の間は遮断されており、伝者はみな建康は落ちた、と伝えていた。しかし索邈が姿を現したのを見て、盧循が建康攻撃に失敗したのだと悟った。

 盧循は蔡洲より南方に向け逃れようとした時、側近の范崇民に兵五千、高艦百余りを与え、南陵に駐屯させた。王懿らがこれらに攻撃を仕掛け、十一月には范崇民の軍を大いに破った。舟艦を焼き、逃散した兵卒を捕えた。


 五斗米道の軍の内廣州を守っていた兵らは、海伝いの攻撃に対して警戒をしていなかった。
 十一月、建威將軍・孫處が到着し、攻撃を仕掛けた。城の防備は整ってこそいたが、兵力はほんの数千ほどである。孫處は五斗米道軍の船を焼き、上陸の上四面より攻撃を仕掛け、その日の内には城を落とした。
 盧循の父は輕舟で始興に逃れた。
 孫處は兵士や民についてはあくまで慰撫し、幹部たちのみ処断した。
 なお孫處の海伝いの派兵について、人々は海伝いは遠すぎるので成果は望めないのではないか、しかも敢えて兵力を二分三分する必要なのではないか、と反対した。劉裕は従わず、孫處に宛てて
「十二月までに、奴らはほぼ壊滅しているだろう。お前がこのとき広州に到着していて、奴らの根城を叩いてさえいれば、奴らの逃げ帰る先がなくなるわけだ」
 と告げた。孫處は劉裕のこの企図を見事に実現したわけである。


 盧循は船団を再編成し、晋軍よりの攻撃に備えた。劉裕は長期戦を想定し、雷池に駐屯した。五斗米道軍は雷池に向け牽制こそ仕掛けてきたものの、流れに乗じて下ろうとした。
 劉裕は五斗米道側の応戦の意図に気付き、万が一の敗北にも備えて、王懿に水艦二百で吉陽を封鎖させた。
 十二月、盧循と徐道覆は数万の兵を率い、攻めてきた。前後はほぼ密着の状態、ともすれば船同士が接触してもおかしくないほどである。劉裕は軽利闘艦を悉く出撃させ、自ら号令をかけた。そのため晋軍の士気はいや増した。
 また西岸には歩兵騎兵を配備した。右軍參軍・庾樂生は船に乗りながらも進撃しようとしなかったので、斬って従わせた。そのことを知った晋軍は我先にと攻撃に参加した。
 軍中には多くの萬鈞神弩があり、あらゆる箇所で五斗米道の艦に損害を与えた。劉裕は川の流れ、風を利用して五斗米道軍に接近し、五斗米道の軍を西岸に追い詰めた。岸上の軍には火攻めの用意がなされており、船は焼かれ、その煙は空一杯に立ち込めた。五斗米道軍はほうほうの態で、夜のうちに逃亡した。
 盧循らは尋陽に逃げ込んだ。
 ところではじめ西岸に派遣された部隊は、劉裕の命令の意図がつかめず疑念にとらわれていた。しかし五斗米道の船を大いに焼いた後には意図を知り、大いに喜んだ。
 王懿を召喚すると追撃の先鋒に指名した。輔國將軍・孟懷玉を雷池の守りに任じた。盧循は晋軍が攻め上がってきたのを聞くと、豫章に逃げようとした。左里に防備柵が設置し、備えとした。
 いよいよ決戦、というときに、劉裕の陣の旗が折れ、河中に沈む、と言う事があった。人々は凶兆だと恐れたが、劉裕は笑って
「往年の桓玄戦、覆舟山でも同じようなことがあった。今また同じことがあったのだ、これは賊どもが敗れる、と言う事さ」
 と告げた。
 戦いが始まると、盧遁の兵は死も恐れず全力で立ち向かいはしたものの、およそ敵うものではなかった。諸軍は勝ちに乗じて追撃、盧循は身ひとつ船ひとつで逃げた。およそ一万人余りが川に投げ出されて死んだ。また多くの者が投降した。
 劉裕は劉藩、孟懷玉に足回りの速い水軍を任せ、追撃させた。
 盧循は散り散りになった軍勢を回収し、それでも数千人規模までには立て直すことができた。廣州へと撤退する道すがら、徐道覆は始興に戻り、防備に当たった。
 劉裕は左里より引き返した。
 安帝は侍中、黃門を派遣し、帰途にて兵士らをねぎらった。


 義熙七年正月、劉裕は建康に帰還した。
 改めて大將軍、揚州牧、給班劍二十人が打診され、元々の官職はそのまま保持、と言う運びとなったが、すべて固辞した。
 南燕戦、五斗米道戦での戦没者を並べて特進させた。遺体の見つからなかった者の家については神官を派遣し、招霊の儀式を執り行った。

 二月、盧循は番禺にて孫處に破られた。盧循は残党をかき集め、更に南へ逃れた。劉藩、孟懷玉は徐道覆を始興で斬った。


 晋が建康に逃れて以来、治綱は大いに弛み、門閥貴族らが台頭し、弱きは強きにより押さえつけられ、多くの家族が流亡の憂き目に遭い、まともな産業も為せないありさまだった。
 桓玄はこのありさまを正そうとしたが為し得なかった。劉裕が晋国内で実権を握ってからはそのありさまが正され、多くの既得権益者から権勢を剥奪した。會稽・餘姚の虞亮はこうして行き場を失った亡命者千人余りを匿っていた。劉裕は虞亮を誅し、併せて會稽內史の司馬休之を秘匿を見逃していた咎により免職させた。


 安帝は先日の昇進要請を再び持ち掛けたが、劉裕はまたも固辞した。そこで太尉、中書監昇進の打診が持ちかけられたので、これは受諾した。黃鉞を返却し、冀州刺史の地位が解任となった。


 交州刺史・杜慧度が盧循を斬り、その首を建康に送った。

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