晋末宋初に関するエピソード群を様々な形で参照できる wiki です。

孔丘(孔子、仲尼)

色んなとこにいすぎなので索引はカット。「一個人としての完成」こそが目指すべき先であり、いわゆる救世主たらんとはしなかったひとなのに、弟子たちからは必要以上に祭り上げられて、なんか現人神くらいに扱われるようになったかわいそうな人。
「私が何か奥義を隠し持っているとでも思うのか! そんなものはない! お前たちとともに泣き、笑う、魯国の孔丘! 私はそれ以外ではないのだ!」って叫びが個人的なベスト。他者の実態をしっかりと把握しようと心がけるのが仁の実践だと思うんですがねぇ。そうやって考えると、少なくとも孔子を聖人扱いしようとした直弟子たちには一切仁の心はないね。孫弟子以降はある意味仕方ないかもしれんけどさ。

端木賜(子貢)

孔子にしてみれば自分の理想を叶えてくれる存在ではない、しかしその抜群の才覚については唸るしかない、と、なかなか素直に受け入れきれなさそうな存在。割とそいつは子貢側の目線にも見えていて、子貢にとって孔子は「なにがなんだかわからんけど、とにかくすごすぎて全然測りきれないお方」だったのではないか。両者ともにお互いを心底すげぇ、と思っていて、けど内心ではどこかすれ違っているのも感じていそう。この辺は子貢が孔子に対して「センセー! ワイってどんな印象?」って聞いてきたときの答え「極上の器、だな」に集約されている気がする。孔子は常日ごろ「君子は器のようであってはならない」と語るのだが、しかし子貢は器として抜群の才を示している。この辺をどう遇したものか、孔子はめっちゃ悩んだんじゃないかなあ。一方で子貢も「先生は振る舞いさえ調整すればもっと大きく活躍できそうなのに」って忸怩たる思い抱えてそうよね。

「先生は穏やかにして善良、恭しく、慎ましくあられる。かつ、へりくだった姿勢を保たれる。そうしているうちに、相談が向こうからやってくるのだ。先生は政治に参与なさろうとされる。が、その関わろうとされる姿勢は、どうも我々とは違うようだ」
「賤しくてもへつらわない、富貴でも驕らない、という姿勢はどうなのでしょう」「悪くはない。しかし、賤しくても楽しめる、富貴でも礼に親しめる、というのには及ばない」「如切如磋、如琢如磨という詩がございますが、そのことを示すのでしょうか?」
端木賜殿が君子の振る舞いについて、孔丘先生に問うと、先生は仰る。「やれ。そこに結果を伴わせろ」
端木賜殿が新年の祭礼にて、羊を捧げるのをやめようとした。孔丘先生が仰った。「賜! お前は羊をあわれむのか? 私は、祭礼の形が少しでも残っていることを望むよ」
端木賜殿が問う。「私めの才能はいかがでしょう?」「器、だな」「どのような器でございますか?」「神々への供え物を収めるような、さ」
孔丘先生が端木賜殿に仰る。「おまえと顔回では、どちらが勝っているだろうね」「私がどうして顔回に比肩しえましょう! あれは一に十を悟ります。私は二がせいぜいです」「敵わぬよな。私も、お前も、あれには敵わぬのだ!」
「私は自分にやられて嫌なことを、ほかの人にやりたくはありません」「賜、それはお前に成し遂げきれぬ境地だぞ!」
「孔丘先生がお書きになる文章は、見聞きすることが叶う。しかし人間の性分にまつわること、天の定めし道にまつわるお言葉は、見聞きすることが叶わない」
「孔圉様には、なぜ、文の諡がついたのでしょうか?」「聡明でいらっしゃりながら、倦まず学び続けておられた。しかも立場が下の人間に対して質問することもためらわれなかった。このように謙虚に学ばれる方だから、文の諡がなされたのだ」
季孫肥様が孔丘先生に問う。「端木賜を政に従事させることは可能だろうか?」「あれはよく目端が利きます。見事にやってのけましょう」
「広く民に恩徳を授け、人々を救う者があれば、その者は仁者と呼べるでしょうか?」「それを仁と呼ぶのかね? そこまで行けば、もはや聖人だ」
冉求殿は言う。「先生は衛公を助けるのだろうか?」端木賜殿は言う。「自分もそれを伺おうと思っていた」そこで孔丘先生に対し、聞く。「伯夷と叔齊は、どのような人物とお考えですか?」「古の賢人だ」「彼らは自らが国公とならずにいたことを悔いてはおりましたでしょうか?」「仁者たらんと振る舞い、そして仁を獲得した。どうして悔いることがあろうか」端木賜殿は室外に出ると、周囲の者に言った。「先生は衛公をお助けにはなるまい」
呉の大臣が端木賜殿に問う。「あなたの恩師は聖人なのですか? 様々な技能にたけていらっしゃる」端木賜殿は答える。「天が先生を聖人になさろうとされております。様々な技能は、そのおまけなのです」孔丘先生はこの会話を知ると、仰る。「いや、大臣殿は私のことをよくご存じのようだ! 若かりし頃に卑しかった私は、様々なつまらぬことを身につけねばならなかった。しかし、君子たるものが多芸である必要などあろうか? 無駄な芸事であろうよ!」

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仲由(子路、季路)

たぶん生まれながらの字が季路で、弟子入りしてから改めて、子路になったんだと思う。末っ子の由くんは直情径行の暴れ者だったが、孔子のもとで修養を積み、ついには孔子門弟の中でも際立った行政手腕を手に入れた。とはいえやんちゃでそそっかしくて先走るところは変わらないままだったよう。論語の中では一番ギャップの激しい人物でしょう。というのも、こういう人物すら教化し得るという「物語」は、武門を率いたい士大夫層にとっては極めて重要な課題。なのでもと無頼者のかれが『他者を攻撃せず、名利をも求めない。それだけ成し遂げられれば良い』を歌うに至ったのは、孔子としても一つの到達点だったのではないか。その成長をきっと内申では喜びつつ、しかし孔子は更に上を求めるのだよね。
そんな子路は果断さ、正義感をいだきながら衛国に仕えるのだが、そこで正義感がたたったか、政変に巻き込まれて殺されてしまう。子路の喪失は孔子にとって途方も無い挫折だったのだろうなあ。孫弟子以降で、子路みたいな無頼漢出身の人物ってどのくらいいたんでしょうね。

「仲由。知ること、について教えよう。知っていることを知っていると言い、知らないことを知らないと言う。それが知ること、なのだ」
「これだけ世に道理が通じないのだ。いっそのこといかだを海に浮かべ、外に漕ぎ出してしまおうか。もしそうなれば、ついてくるのは、きっと、仲由。お前だろうね」仲由はその言葉を聞き、大喜び。今にもいかだを組み始めかねない勢いであった。なので先生は更に仰る。「これ、仲由。お前の無謀さは、私をはるかに上回るな。海を越えられるだけの筏など、どうすれば組めるというのだ」
「仲由殿は仁者であろうか?」「存じませぬ。無論かれには、広大な国を切り盛りするだけの才覚があります。しかし仁者であるかどうかは、私にはわかりかねます」
仲由殿は新たなことを教わると、それを実際に行動に移さないうちに、新しく教わるのを恐れた。
孔丘先生は仰った。「お前の理想を語ってみないか?」仲由殿が言う。「願わくば友と車や衣服を共とし、それを使いつぶして、恨みなし。そういう友情をはぐくみたいのです」
「仲由を政に従事させることは可能だろうか?」孔丘先生は仰る。「仲由は果断な男。施政をなすに何の問題がありましょう」
孔丘先生が衛公の夫人である南子、淫乱奔放で知られる女性に謁見した。すると仲由が不機嫌となった。
孔丘先生が、顔回殿に仰る。「任用されれば粛然と役目を務め、解任されればすっと世に紛れる。これをわだかまりなく行えるのは、私とお前くらいのものだろうな」すると、仲由殿が言う。「先生が軍を率いるのであれば、誰が必要となりましょうか?」先生はお答えになる。「虎や氾濫した川に立ち向かおうというのに、死をも恐れぬものでは、私とともにはおれんよ。事に臨み、その達成が叶うかどうか常に気にかける。そういった人物が、良きはかりごとを成し遂げるのだ」
楚の葉公・沈諸梁様は仲由殿に対し、孔丘先生にについて問う。仲由殿は、返答をしなかった。すると孔丘先生は仰った。「お前はどうして言わなかったのだ、興奮すれば食事も忘れるし、楽しいことがあれば憂いも飛ぶし、年老いてゆかんとすることも忘れてしまうのだ、このように」
孔丘先生が病を得られた。仲由殿が快癒祈願の祈祷したいと願い出てきた。「そのような前例はあるのか?」「ございます! 誄にも上下の神祇に禱る、という記載がございます!」「その祈りならば、つねづね私もしているよ!」
孔丘先生の病が重篤となった。この事態を受け、仲由殿は自らの部下を先生のもとに送り、先生を大臣であるかのよう扱わせた。が、間もなくして先生の病が癒えると、仲由殿の振る舞いに対し、孔丘先生は仰った。「またなのか、仲由の早とちりは! 大臣でもないのに配下を持つとは、私は誰をだますことになるのだ? 天か?天なのか? それだけではないぞ、私が死ぬなら、お前の臣下のようにあまり関わりのなかった者たちではなく、弟子たちに手を取られて逝きたいのだ!と言うよりも、だ! たとい葬儀の準備が万全でなくとも、私のそばには弟子たちがいるのだ! ならば、私が路傍でひとり、冷たくなることなぞありえまいに!」
孔丘先生は仰る。「ボロボロの衣服を着ておきながら、立派な身なりのものと並んでも恥じ入らずにおれるのは、仲由くらいのものだろうね」
仲由殿は、好んで詩経邶風雄雉の『他者を攻撃せず、名利をも求めない。それだけ成し遂げられれば良い』と言う句を暗唱していた。孔丘先生は、そのことについて仰る。「お前のなすべき道は、それだけで成し遂げられるのかね?」

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顔回(顔淵、子淵)

ナチュラルボーン儒者。たぶん五徳が備わってないやつ(=世の中のほぼ全員)がなんで徳に満ちた行動取らないのか素で理解できない感じのやつ。けど徳にあふれてるからそのへん指摘せずニコニコしてる。こういうやつが一番厄介なんだ。
孔子がひーこらしてたどり着いた境地に早い段階でたどり着いているためか、基本的にこのひとって教条的なこと喋らないんですよね。「どうすれば己を磨けるんですか?」って聞かれたら「学びを楽しもう!」以外答えられないですよたぶん。そのせいで論語で眺めていても孔子についている色鮮やかな鳥ってイメージにしかならないのよね。もっとも美しく、みなを見惚れさせるけど、じゃあなにがしかの働きかけがあるかって言うと、ない。
ところで儒って言葉、論語中に一回しかでてこないんですけど、顔回は儒ではないですね。教えるものではないもの。まぁ、顔回の境地なんて教えたくても伝えられそうにないんだよなぁ。

孔丘先生は仰る。「顔回と話していると、私と意見の相違がまるでなく、愚人のようにも思える。が、私のもとより引き下った後の振る舞いを見ていると、人をはっとさせるものがある。愚かでは、ないのだよな」
孔丘先生が端木賜殿に仰る。「おまえと顔回では、どちらが勝っているだろうね」「私がどうして顔回に比肩しえましょう! あれは一に十を悟ります。私は二がせいぜいです」「敵わぬよな。私も、お前も、あれには敵わぬのだ!」
孔丘先生は仰った。「お前の理想を語ってみないか?」「善行を誇らず、他人への労力も、殊更に押し付けずにありたいのです」
魯の哀公が孔丘先生に問う。「弟子で最も学びを好むのはどなたか?」「顔回という者があります。学びを好み、あたら周りに怒りを抱かず、しかも過たぬ。しかしながら夭折してしまいました。あれの死以来、学びを好んだ、と私が聞いたものはおりません」
孔丘先生は仰る。「顔回は私のもとにきて、三か月で仁の境地からたがわぬようになった。それ以外の徳目についても、数日、遅くても一か月のうちには到達してしまっていたものだ」
孔丘先生は仰る。「顔回の、なんと賢明なることよ! 最低限の飲食の上、慎ましき暮らし。常人であればその暮らしに耐え切れまいが、顔回はその暮らしを、むしろ楽しきものとし、改めるまでもないと感じておる! 顔回よ、なんと賢明か!」
孔丘先生が、顔回殿に仰る。「任用されれば粛然と役目を務め、解任されればすっと世に紛れる。これをわだかまりなく行えるのは、私とお前くらいのものだろうな」
曽参先生は仰る。「有能でありながら、無能に教えを乞う。学識多くも、少なきものに問う。充実した内面を抱きながらも、何も持たぬものであるかのよう、謙虚に振る舞う。屈辱を受けても、報復は考えぬ。去まし日のわが友、顔回は、これらを実践しておれた」
顔回殿はほう、と嘆じながら、言う。「先生を仰げばどこまでも高く、先生のお心に近づこうとすれば固く、お姿を拝見して前にいるかと思えば、気付けば後ろにいらっしゃるかのよう。実にロジカルに、我らを導いてくださる。文でもって我が心を広げてくださり、礼でもって我が迷いを晴らしてくださる。途中での離脱などできもせず、私が才の限りを尽くしたと思っても、しかしそこは既に先生の開拓なされた境地なのだ。付き従いたいと思っても、そうそう追いつけるものではない!」
孔丘先生は仰る。「教えを説いているときに、少しも弛まずにおれるものは、まぁ、顔回くらいのものかな」
孔丘先生は顔回殿について仰る。「惜しいことだ! 彼は発展し続けた、留まることはなかった!」

爲政9公冶長9公冶長26雍也2雍也6雍也10述而10泰伯6子罕11子罕20子罕21

曽参(曽子)

孔子門下最高の儒者、って言ったらこのひとでしょう。子貢は極上の器であり、子路は優れた施政者、顔回は妖怪。その中にあって、曽参と有若は師範代的な振る舞いが目立つ。この人たちのこと把握するには史記の孔子門弟列伝読んだほうがいいのかな。えっそんなもん真っ先に読んどけって?
今あらためて前半の曽参登場条を見たら、孔子との絡みは「自分が正しい道を歩んでいるかどうか」の確認だった。これはながらく歩む道をともにしてきたからこそのやり取りな気がする。
いわゆる孔門十哲、孔子の弟子の中で最高の十と言われている中に曽参と有若はいない。それはこの二人が「十哲の更に上」だからだ、とする説もあるらしい。確かに、少年漫画的にはね。この二人が聖闘士星矢のハーデス編に言うタナトスとヒュプノスって言われるとアガってしまうのだわ。あの二人もエリュシオンで初めての登場だったじゃないですか。少年はこれだから。まー「孔門十哲と呼ばれる奴らは孔子の流浪の旅路で最も不遇なタイミングをともにした十人」という夢も希望もない説があり、自分の中の冷静なところが、どちらかといえばそっちを支持していたりもするんですが。

「私は一日に、三点について省みる。ひとのために尽くすことができたか?友と信義ある付き合いは出来たか?教わったことを復習できたか?」
「服喪に際し、よく亡き父母を想う。士大夫がその振る舞いをすれば、人々の心の徳は厚くなるのだろう」
孔丘先生が仰る。「曽参! 我が進む道は常にぶれておらぬよな!」「はい」先生が退出されると、門弟のひとりが曽参先生に問う。「今のやり取りは、何なのですか?」「先生の進まれる道が、忠、そして思いやりからぶれていない、ということさ」
曽参先生が病の床で、弟子らに仰る。「我が足、手を見よ! 詩にも言うではないか、おののき、警戒すること、深い淵の傍にあるように、薄氷を踏むようにせよ、と! 今までも、これからも、わしはそうすることの価値を知っている! ゆえにわしは生を全うできたのだ、弟子たちよ!」
曽参先生が病を得たと聞き、仲孫捷様が先生のもとを訪問した。曽参先生は仰る。「鳥が死なんとするとき、悲しげな声を上げる。人が死なんとするときの言葉は、まこと偽りなきものである。さて、君子が尊ぶべきは三つ。振る舞いを整えれば、種々の粗暴さより逃れられよう。表情を整えれば、信義、信頼を得られよう。言葉遣いや語調を整えれば、媚び、諂いを遠ざけられよう。儀礼式辞のような細々しいことは、すべて所轄のものに任せればよろしい」
曽参先生は仰る。「有能でありながら、無能に教えを乞う。学識多くも、少なきものに問う。充実した内面を抱きながらも、何も持たぬものであるかのよう、謙虚に振る舞う。屈辱を受けても、報復は考えぬ。去まし日のわが友、顔回は、これらを実践しておれた」
曽参先生は仰る。「いまだもって幼き君主を後見する、大国当地の任の命を受ける、これら重大な信任を求められる事績に対し、見事に応え切る。彼は君子であろうか?まさに君子なのだ!」
曽参先生は仰る。「士人とは、器広く意志強し、でないことなどあってはならぬ。士人が負う役割の責任は重く、それはまた遠き道のりである。仁の心を自らの規範とするのは、重大でないはずがない。それは士人が死ぬ瞬間まで課せられ続ける。悠遠でないはずがない」

學而4學而9里仁15泰伯4泰伯5泰伯6泰伯7泰伯8

冉求(冉子、冉有、子有)

卜商(子夏)

顓孫師(子張)

宰予(宰我、子我)

有若(有子)

言偃(子游)

公西赤(公西華、子華)

冉雍(仲弓)

樊須(樊遅、子遅)

原憲(子思)

陳亢(子禽)

琴子開(子牢)

冉耕(伯牛)

澹台滅明(子羽)

無駄に名前がかっこいい。が、ここ以外だといまのところ史記の孔子の弟子列伝にしかいない。

「彼はむやみやたらと近道を好まず、また業務での必要がなければ、私の部屋に近づこうとも致しません」

雍也13

閔損(閔子騫、子騫)


孔門十哲、顔回に次ぐナンバーツー。いや本人はランキングなんて気にしてないだろうけど。ところで孔門十哲の姓を組み合わせると冉閔(五胡十六国時代に暴れまわった、アンチ胡族を掲げた武将)が爆誕するのってたぶん偶然じゃないですよね?

季氏は閔損殿を、費の村の責任者に取り立てようとした。閔損殿は言う。「辞退の意、よくお伝えください。もし同じようなお伺いがございましたら、私は汶水に身を投げますので」

雍也8

宓不斉(子賤)


すごい人。……のはずなんだけどあざなひどくない? 自分からこの字を選んだっていうんならえらい謙譲の美徳の持ち主なんでしょうけどねえ。

「君子とは、そなたのような者を言うのだろう! これはすなわち、魯の国の人士の豊潤さをもまた示していよう。魯に君子なくして、どうしてそなたのような人材が出てこようか?」

公冶長3

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